- Diary 2006/09

2006/09/30/Sat.

最近のちくま学芸文庫の青表紙 (科学関係の古典が多い) は素晴らしいと思う T です。こんばんは。

ほとんどが過去の著作の復刊なのだが、よくもまァこれほど売れそうにないものを文庫に、と感激もひとしおである。その分、やや高価ではある。薄っぺらい本が多いけれど、1000円以下のものはほとんどない。とはいえ、それでも安いと思う。大体において本は安い。ダーウィンの進化論やアインシュタインの相対性理論が数百円で手に入るわけである。こんなに安いものは他にない。

元部長氏の「本棚と記憶の中の13冊」が更新されていて、その中にガルシア = マルケスがある。この作家のことを筒井康隆がいつもベタ褒めしており、俺もずっと読みたいと思っていたのだがいまだに果たせないでいる。偶然にも、今日買った塩野七生『ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず』の中に、「ガルシア = マルケス全小説」というパンフレットが挟まっていた。これから続々と刊行されるようである。買おうかなあ。

研究日記

病院。今日は半日ほどで切り上げ。

2006/09/29/Fri.

TUNEL 染色を見学させてもらった T です。こんばんは。

「29日は肉の日だ」というよくわからない理由で、テクニシャン嬢 2人、研究員嬢とともに焼き肉を食べに行く。

研究日記

病院 → 大学。

大学で細胞の sorting をしようとしたのだが、sorter の具合が悪く、思わぬ時間のロスを被った。細胞はその間にも、どんどんと死んでいく。これが辛い。Molecular な実験であれば、せいぜい帰宅時間が遅れるだけで、大した実害はないのだけれど。

Molecular な実験では、その時その瞬間の生命現象の一側面を固定できる。普段は何とも思わないが、これは凄いことだ。しかし逆に、それらは断片でしかなく、集積したところで非連続的である、ともいえる。

例えば、培養 1日目、3日目、5日目の細胞におけるタンパク質 A の発現量を Western によって検出したとしよう。それぞれのサンプルにおける発現量が同値であったとする。「培養 5日目までにおいて、タンパク質 A の発現量は一定である」。本当に、そんなことがいえるのだろうか。48時間 (あるいはそれ未満の短い周期) でタンパク質 A の発現が周期的に増減している可能性は否定できない。そういう話である。

非連続な間隔は推測によって充填されるが、通常はそれを意識しない。連続している、と思い込んでいる。これが怖い。遠くからは壁のように見えたものが、実は網戸だった。そんな感じである。網は、縦糸と横糸が交差することによって疑似的に平面を構成する。複数の異なる実験で得られた結果とは、網目の交点のようなものだ。解像度、分解能、という概念がある。原子が規則的に並んだ電子顕微鏡写真を見たことがあるだろう。あれがまさしく網目である。点を無限に敷き詰めれば平面になるのだろうが、我々にできるのは、交点の間隔を条件が許す限り狭めることだけだ。

文章も同じである。前の文章と、続く文章が連続しているというのは、書き手や読み手の思い込み。「行間」とはよくいったもので、そこから「紙背」が浮かび上がる。「眼光紙背に徹す」という言葉も面白い。「眼光」とは、要するに点であろう。昔の人は偉いなあ。

2006/09/28/Thu.

「あわよくば」と言ったら「爺臭い」と言われた T です。こんばんは。

古語なのか?

研究日記

終日病院。研究員嬢に Western を伝授。

「ボスが仕事を急かすのがときに辛い」と研究員嬢が愚痴る。その気持ちはよくわかる。しかし、ボスが急かす理由は「早く結果が見たいから」だけではない。ということをキッチリ認識しておかないと、いずれまた同じストレスを抱えるだろう。

5万円のキットを使って行う実験に必要な経費は、5万円ではない。実験をする人間の日給が 1万円だとしよう。出資者たるボスから見れば、5万円のキットを使って 3日で結果を出すのに必要な費用は 8万円、6万円のキットを使って 2日で結果を出す費用も 8万円である。したがってこの場合、6万円のキットを使う方が同じ経費で早く結果が得られる。安いキットを探すのに時間を費やす (また、安いキットで行う実験は得てして時間もかかる) くらいなら、高価なキットでさっさと結果を出す方が、金銭的にも時間的にも節約になる、という可能性は充分に考えられる。

あくまで可能性だけど。

2006/09/27/Wed.

京極夏彦『邪魅の雫』を買ってきた T です。こんばんは。

2段組みのノベルスで 800余頁。明日の朝までに完読できるだろうか。

研究日記

大学。

午前中に実験を済ませ、午後から我がボスのボスであるところの教授と面談。院試を受けるので、その御挨拶である。教授は非常に迫力のある人間で、こんなに緊張した面接は初めてだった。

俗に MD vs PhD といわれる問題が各地にはあるようだ。俺が世話になろうとしている教室には他学部出身の院生が既に在籍しており、俺自身も今こうして大学に出入りしているわけだが、少なくともここでそのような問題が勃発している様子は絶無である。最終的に受験することを決めたのは、この雰囲気が貴重なものに思えたからともいえる。教授と面談して、そのことをさらに強く感じた。

MD vs PhD

MD
Medical Doctor の略。海外では医学博士を指すこともあるようだが、本邦では医師国家試験に合格した医者のこと。
PhD
Doctor of Philosophy の略。我が国では主に自然科学系の博士号を指す。したがって医学博士号も PhD なのだが、このような話題では「医師の医学博士号」は暗に省かれることも多い。

MD vs PhD ついて書く。あくまで俺が見聞した範囲の話であって、一般的なものであるという保証はない。

医学部の大学院の主な構成要員はもちろん医者 (MD) である。その他に、他学部出身のポスドク (PhD) や大学院生が存在する。さて、こと研究という分野に限定すれば、PhD の方が有能であることが多い。彼らはそれこそ学部生の頃より研究を志し、そのための訓練を受け、自発的に精進し、薄給や就職難を承知で没頭してきた。これで優秀でなければウソである。実験技術、モチベーションは非常に高い。

一方で、医者が大学院に進学する場合、その目的の第一が医学博士号の取得そのものであることが多い。これは例えば理学博士号などと違い、必ずしも「研究でやっていくんだ」という決意を意味しない。医者としてのステータスの上昇、と割り切って考えている人もいる。彼らは 6年間の医学部教育を受けた後に医師となり、数年の臨床訓練を経て大学院生となる。院に戻ってくるのは早くて 30歳前後であり、さらに遅い人も少なくない。この時点で初めてピペットマンを握る、という人も多い。研究能力に限れば、PhD と比べるのは可哀想である。

MD は大学院生になっても、「バイト」と称する非常勤や当直などで頻繁に病院で働く。そして研究は PhD ほど熱心ではなく、技術も拙劣である。真理を探求するため、休日も毎晩遅くまで働く PhD は怒りに震える。「MD は研究を何だと思っているのだ」。

一方、MD はまず何よりも医者であり、彼らの研究は本分である医療の合間に行われる。研究に打ち込んでいさえすれば良いという、外様の PhD ほどヒマではない。「バイト」は彼らの医療技術の維持でもあるのだ。いやあ、大学院に戻っていたので手術は 4年ぶりです。そんな医者は困る。「PhD は研究をしているだけじゃないか」。

このような齟齬が双方の誤解を招き、軋轢を生む。どちらが良いとか悪いとかいう問題ではない、と俺自身は考える。これは要するに、「研究」というものを自分の中でどのように位置づけるのか、という思想的な対立なのだ。したがって正解はない。制度が悪いわけでもない。宗教戦争のようなものである。やるのは勝手だが、巻き込まれるのは困る。俺がやりたいのは研究であって、啓蒙でも政治でも折伏でもない。

以上は、あくまで問題が起こるときの話である。非常に優れた研究を連発する MD もいるし、どうにも使えなくてクビになる PhD もいる。国策による大学院の重点化で、医学部に流入する他学部出身者の数も増えている。このような問題は過去の遺物になりつつある、という向きもある。時代は良い方向に向かっていると思われるので、その点、誤解なきよう。

2006/09/26/Tue.

小田和正に癒された T です。こんばんは。

YouTube Today

研究日記

大学 → 病院。

いつも気が付いたら夕方になっている。単に日が短くなっただけかもしれないけれど。

2006/09/25/Mon.

出会い系をやるヒマもない T です。こんばんは。

忙しい貴方にこそ出会い系

「忙しい貴方にこそ出会い系」という、なかなかに斬新なコピーの迷惑メールが届いて、いささか感心した。これまでのメールのキャッチは、「すぐに見付かる」「すぐにヤレる」であり、恋愛弱者の欲望をストレートに射貫くことに力点が置かれていた。だから出会い系サイトという場所では、恋愛弱者が離合集散しているのだろう、というイメージが強い。出会い系サイトを舞台にした犯罪で問題なのは、出会い系サイト自身ではなく、そこに集まる人間の質ではないか。コミュニケーション能力の低い人間が、突然、恋愛などという「濃ゆい」リレーションにハマるのだから、テンパるのも当然だ。

などと、わざと偏見がかった書き方をしている。これは、「忙しい貴方にこそ出会い系」というキャッチの技術を説明する前提として書いているので、誤解なきよう。

さて、「忙しい貴方にこそ出会い系」を読んだ「忙しい私」はどう思うだろう。自発的に「忙しい私」は大抵の場合、自信家である (「多忙論」)。「忙しい私」はその忙しさゆえに、コミュニケーション能力にも長けているだろう。そして彼に、先に述べたような偏見があったとしよう。彼はこう思う。「俺に出会いがないのは忙しいからに過ぎないのだが」「その忙しい (= 優秀な) 俺が」「恋愛弱者の中に入れば」「入れ食いではないのか」。

もちろん、想像である。何の想像かというと、このメールを書いた人間の心理である。メールの作者は、恐らく「忙しい貴方」の心理をこのように想像しているはずであり、それが俺の考えとよく一致するので親近感を持った、という話である。ややこしいな。

迷惑メールは結構好きで、よく読んでいる。過去にも「法螺とオーダー」「スパムメールの楽しみ方」などを書いている。技術の進歩の速度は欲望の強度に比例する。迷惑メールの、これからの進化に大いに期待したい。

研究日記

大学 → 病院 (夜セミナー) → 大学。勘弁して。

というくらいなら、日記など書かずにさっさと寝ろ、という話。研究が好きとかいう以前に、働くことが好きでないと勤まらんな。どの仕事も同じなんだろうけれど。

日本人が勤勉なのは、文化的 (環境要因的) なのか、それとも自然選択の結果 (遺伝的) なのか。働きバチには女王蜂と異なる遺伝子が発現していて、確か jap-1 という名前だった。というのはもちろん冗談である。

研究員嬢と共に microRNA の定量を努力しているが、本当に難しい。定性的にはしっかりしたデータが出るのだが、定量化するとエラー・バーが大き過ぎて話にならない。ようやくボスもその難しさを理解してくれ始めたようで、とりあえず定性的なデータで構わんから、別の方面から証拠を拾っていこう、という方針になった。バンドの濃い薄いなら比較的簡単に出せる。

ラーメンを食って帰宅。ラーメン屋では瓶ビールを手酌で呑む。缶ビールを空けるのと違い、「お疲れ、俺」という感じが強く、結構好きだ。

2006/09/24/Sun.

どちらかといえば自分は職人気質だと思う T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。キツい。

「日本の野球は baseball ではなくて『野球道』だ」と評した言葉がある。「日本の研究は research ではなく『研究道』だ」というテクストはどうだろう。

例えば、今ここで勝手に、「営業道」「販売道」「接客道」「製造道」「事務道」という言葉を作ってみる。何となくそれっぽい感じはする。というか、日本人がやったら何でも「道」になってしまうのではないか、とすら思える。要するに職人気質なんだな。

一方で、華道・茶道・書道は文化であり芸術である。弓道・剣道・柔道は運動でありスポーツである。日本人は何とも思わないが、これらは「職人」の対立概念であるといっても良い。よくよく考えてみてほしい。「職人気質の芸術家」というのは、恐らく欧州では成立しない。あちらの社会では、芸術家は貴族か異端である。ところが、日本では芸術家と職人が一体となり得る。

浮世絵が印象派に与えた衝撃、という歴史がある。浮世絵の平面的な構成が、伝統的な西洋画にとって甚大なカルチャー・ショックであった、と一般に解されている。だが、本質はもっと根深いのではないか。浮世絵は工業製品である。マスプロだからこそ、大量の浮世絵が欧州に流れ得た。浮世絵は、絵画として西洋に紹介されたのではない。当時、西洋でブームになっていた東洋磁器を運送する際に、包装紙として使われていたのが浮世絵なのである。日本人にとって、浮世絵は新聞紙程度の「製品」だったのである。欧州人がまず驚いたのは、この事実ではなかったか。職人が芸術家に与えた衝撃、と言い換えても良い。

という観点から、「研究道」を考えてみる。「職人気質の学者」だ。と書いたところで、先日の「研究と入札」に思いが至る。こういうことを考えるのは、やはり日本人だからだろうか。

「職人」と似た言葉に、「プロ (profession)」がある。Profess の語源は「公言する」「神に誓う」であり、極めて個人的である。少なくとも、宣言するだけなら他者が存在しなくとも成立する。反対に、「職人」になるためには他者からの認証・称賛が絶対条件である。「誰にも認められない芸術家」は存在しても、「認められない職人」はあり得ない。「道」における「名人」が典型例である。「名人」の称号は名乗るものではなく、与えられるものだ。華道や茶道の家元が世襲できるのは、このためである。「世襲の芸術家」なんて、こんなヘンなものはない。やっぱり職人なのか。職人は世襲が多い。

ところで、「学者の家系」というものが現実に存在する。学問は「道」なのかどうか、興味は尽きない。

2006/09/23/Sat.

いい加減にラジオを更新せんとなあ、と気にはなっている T です。こんばんは。

やはり面倒臭く感じる。面倒臭さと作業量は必ずしも比例しない。録音からアップまでのシステムが最適化されていないのでイライラするのだ。ラジオはまだ 7回、片や日記は 1153回も更新している。成熟度が全く違うのは当然だが、それだけにラジオの「面倒臭さ」が耐えられぬ。モチベーションが高ければ頑張ることもできようが、ノリで作ったコンテンツなので、今のところそれほどの愛着もない。かろうじて留保しているのは、技術的 (Web の技術、音声編集の技術、話す技術などなど多方面) に挑戦のしがいがある課題だからである。

例えば 1回に 30分話して、それを 10回に分ければ少しは楽になるのでは。ということに気付く。30分も話すことはないけれど。歌でも歌ってみようか。

研究日記

病院 → 講演会 → 大学。

どうも忙しない。しかし、今日の講演会は面白かった。睡眠時無呼吸症候群 (SAS; sleep apnea syndrome) という症状がある。これまで、肥満した人間に多いと考えられていた症状である。いわく、太っていると気道が詰まりやすい、などという説明は理解しやすい。

ところが、どうも違うようなのだ。そもそも SAS には自覚症状がなく、別の病気で入院でもしない限りは発覚することがない。であるから、明らかになっている症例は氷山の一角に過ぎない、という推測も蓋然性が高い。実際に大規模な調査を行ってみると、(この数字は大袈裟だと思うのだが) 実に 1/5 の人間が SAS であるという。

重度の SAS 患者は、肥満、高脂血症、高血圧などのリスク・ファクターを併発している割合が高い。従来、これらのリスク・ファクターが SAS を誘発していると考えられていたが、実際は逆、つまり SAS が肥満やら高血圧などの原因ではないか、最悪の場合は悪循環を形成しているかもしれぬ、という話であった。

気管を手術して人工的に SAS を発症させた犬の実験では、血圧やらサイトカインのスコアが増悪する。転写因子まで動く。SAS とは要するに低酸素ストレスであるから、同種の細胞実験と似たような結果が出てくる。臨床から molecular なレベルに話が落ちてくると、ようやく俺も理解できるようになる。

いびきをかくと太るのか。などと無茶苦茶に単純化して頭にしまい込む。こうしておくと、後から演繹的に思い起こすことができる。「SAS では転写因子 A が動く」というような形の記憶は、すぐに消え去ってしまう。「発現が上がったんだっけ、下がったんだっけ」となるわけだが、それは単に証明に必要な材料というだけであって、知識とはいわない。重要なのは、「増悪した」という結果である。

まァ、それでも記憶に自信がないので、ここに書いているわけだけど。

2006/09/22/Fri.

Google Analytics にハマっている T です。こんばんは。

Web 日記

Opera は割と頻繁にバージョン・アップするが、いつもパッチではなくフル・ダウンロードなのは何故だろう。

ところで、以前から我がサイトのボタンが Opera では異様に小さく描画されるという問題があったのだが、少し改善してみた。なぜ「少し」なのかというと、ボタンの描画が各ブラウザで違うからであり、Opera に最適化すると、例えば Firefox ではかなり大きくなってしまう。ADP「検索フォームに CSS」を読み、とりあえず根本的な解決策がないことを理解したので、そこそこで止めることにした。気にしてもしょうがないことは、気にしないのがよろしい。

研究日記

病院 → 大学。

立ち上げを進めている新しい培養室にクリーンベンチを搬入。値の張る買い物が多く、一々見積もりを取っては購入の許可を得る、という地味な作業もようやく実を結びつつある。どうしても日々の実験よりは優先順位が低いため、1人でやっているとなかなか進まない。今回、一番場所を取るクリーンベンチを設置したため、既に購入してある他の機器も運び入れることができるようになった。一気に培養室らしくなるだろう。ちょっと楽しみだ。セットアップが終われば、実際に利用を開始するための申請をしなければならないのだが、これはボスの仕事。

隣の実験助手女史からジャズ鑑賞のお誘いを頂戴する。彼女が追っかけをしているジャズ・メンが京都に来るらしく、盛況であれば再び来京する可能性が高くなるので皆を誘っているとのこと。俺には生で音楽を聴く習慣がない。良い機会だから行ってみようかなと思う。何となく秋っぽいイベントで、これもちょっと楽しみだ。ジャズ・バンドの名前は失念してしまったが、確かニューヨークのトリオだったと思う。調べてみて、CD が出ていたら買ってみよう。

2006/09/21/Thu.

朝が涼しく、布団の中でヌクヌクとするのが気持ちよくなってきた T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

薬剤をブッかけた細胞から核タンパク質を取ってきて IP-Western。予想通りというか、こうなれば良いなあという妄想そのままの結果が出てきたので、思わずケケケと笑ってしまう。もちろん追試を行うが、データは端正なので、この結果が真実であることは直感的にわかる。ごく稀にある、幸福な 1日だ。

予定通り (?)、今週は休日なしとなってしまったが、いやいや休んでなどいられない。

2006/09/20/Wed.

どうも実験が上手く進まなくて困っている T です。こんばんは。

実験に失敗した、とかなら話は簡単だが、そうじゃないのでストレスが溜まる。試薬が予定通りに来ない。貰ってきたサンプルの詳細が曖昧である。などなど。そういうのを含めて仕事なのだ、と思うしかない。疲れる。

研究日記

病院 → 大学。

現在の科学研究費の申請は請求型だ。「これこれこういう研究がしたい。そのためにはこれだけの金がいる。だから下さい」という形式である。色々と問題点もあるようだが、まァ妥当なシステムだと思う。

以下は妄想である。請求型の予算申請にも、例えば「重点配分」や「先端領域」などがあり、分野によって採択の難易度が異なるのが現実である。裏を返せば、予算を出す側 (要するに政府) に、「こんな研究をしてほしい」という願望が存在することを証明している。別にそれは構わない。さて、これを一歩推し進めれば、「入札」という事態が発生するということに気付くだろう。政府が「こういう研究をしてほしいのだが」と提案する。各研究施設は、その研究を遂行するために必要な予算を見積もる。政府は、最も低額の予算を提示したラボに研究と予算を委託する。

もちろん、これは学問に対して極めて失礼な態度ではある。恐らく大学は、「学問の自由」を掲げて激しく抵抗するだろう。正論である。でも、一方で、先端的な研究は「国家戦略」とやらの一環を形成するものでもある。だから俺は、こういう制度があっても良いんじゃないか、とも思う。全部ではなく、あくまで一部としてだが。

そのような提案のできる人材がいるのか、というのが一番の問題だけど。

2006/09/18/Mon.

脈絡のない日記が信条の T です。こんばんは。

本棚の個性

元部長氏の「本棚と記憶の中の13冊」を興味深く拝見する。何かラインナップが格好良さげで、自分のリストも、もう少し考えて選ぶべきだったと後悔する。氏のリストには海外の作家が多く、そこが俺とは大きく異なるところだろうか。

自分の本棚を見回してみると、海外の作家と女性の作家が異様に少ないことに気付く。翻訳物の大半はサイエンス関係で、これは単に、この分野では日本人の手による書物が少ないという理由による。女性作家に至っては、最も多いのがナンシー関の本という始末で、ハナから読む気がないとしか思えない (別にそんなことを考えて本を買っているわけではないが)。やはり本棚は個性を反映するようで、その意味でも、他人様のリストは面白い。

いずれまた、テーマを変えてリストアップするのも面白いかもしれない。

研究日記

終日病院。

久々に細胞の flow cytometry。今日の実験とは無関係だが、以前の実験の話をする。

Flow cytometry では細胞 1個 1個にレーザーを当てて蛍光の有無を調べる。細胞に導入した蛍光タンパク質が細胞質全域で光っているような場合は問題ないのだが、例えば核タンパク-GFP という融合タンパク質が核に局在している場合、レーザーが核に当たらないと positive として認識されない。以前、蛍光顕微鏡下で核がギンギンに光っている細胞を流したところ、全く蛍光がカウントされなかったので往生した記憶がある。

細胞は小さくとも点ではない。当たり前だが。そして flow cytomety のレーザーは細胞径よりも小さい。これも当たり前である。レーザーが細胞径よりも大きければ、複数の細胞を 1 としてカウントする恐れがある。したがって、蛍光が局在している場合には認識されないことがある。理詰めで考えれば当たり前のことばかりなのだが、こういうことって、実際にトラブルを経験しなければわからないんだよなあ。

2006/09/17/Sun.

『ウィザードリィ・外伝〜戦闘の監獄〜』を買ってきた T です。こんばんは。

8月 3日に発売されていたそうだが、うっかりと見過ごしていた。ある意味ではどのシリーズよりも楽しみにしているゲームなのに。アンテナも鈍ったものである。

Wizardry は、様々なメーカーが Wiz のライセンスを取得してゲームを作成している。初期の FC、SFC、GB 版を作ったアスキーが有名だが、今回はタイトーの製作。テーマは「原点回帰」らしく、登場する種族も職業も原作のものだけ。やたらに肥大した種族・職業・呪文に辟易しかけていたので、すっきりした Wiz らしさが好ましい。新要素として、「アイテムに魔法を込める」というシステムがある。どうせ Wiz のことだからトンデモない効果もあるんだろう。楽しくもあるが冷や冷やもする。

研究日記

終日病院。

いつもは忙しい日曜日だが、明日も (他の人は) 休日なので、今日は軽め。

2006/09/16/Sat.

「勉強になったなあ」と思わせる発表をしてみたいものだと思う T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学。

夜はボス主催の講演会。プロジェクター係を仰せつかる。どこからどうやって引っ張ってくるのか知らないが、ボスの講演会やセミナーに招かれる演者の発表は、どれもレベルが高い。これは常々感心しているところであり、したがって、講演会に駆り出されるのも実は嫌いではない。

会が終わり、ボス並びに演者と座長の先生方が食事会へと向かわれ、やれやれと思った途端にボスから電話。「座長の先生が一人帰られて席が余ったからオマエ来い」ということで馳せ参じる。高名な医者の方々が天下国家の医療問題について熱く語られるその末席で、黙々と箸を上げ下げするハメになった。飯は旨かったが、あまり喰った気がしない。貴重な経験ではあるんだろうけれど。

「大学院の志願者数が定員割れしているみたいだから安心して仕事に専念してくれ」と言われる。何だかなあ。明日、明後日ももちろん出勤。来週は予定が詰まっている。休みが取れたら良いのだが。

2006/09/15/Fri.

Mixi の笠原健治社長は小林よしのりに似ていると思った T です。こんばんは。

京極夏彦『文庫版 陰摩羅鬼の瑕』を購入。本屋のオヤジが紙のカバーをかけてくれようとしたのだが、あまりに厚過ぎてカバーの幅が足りず、苦笑いしていた。ちなみに 1200余頁。連休中 (まあ仕事なんだが) に再読しようと思う。

研究日記

病院 → 大学。

大学のテクニシャン嬢達から、「病院の方はほのぼのムードで良いですね」などといわれる。隣の芝生は青く見えるものらしい。病院のテクニシャン諸氏と大学のテクニシャン諸氏は個人的な交流が盛んなようで、「T が演じるボスの物真似はよく似ているらしい」という、まことにどうでも良い情報なんかが広く知れ渡っていたりして閉口する。

病院ではダウンロードできなかった論文を大学で収集。大学のテクニシャン嬢に RNA の回収を伝授。行ったり来たりの生活だが、どうせなら双方にメリットがあるような形で時間を消費したい。

2006/09/14/Thu.

「俺」という一人称を改めようかと考えている T です。こんばんは。

執筆のススメ

小説・桃太郎は一応書き続けているのだが、いっかな進まない。いまだに序盤をウロウロしている。

小説が好きな人は、とにかく一度、自分でも小説を書いてみるべきだ、というのが俺の経験的な持論である。持論というか、強くお薦めしたい行為である。楽器を弾く人、絵を描く人なんかには容易に理解して頂けると思うが、自分が表現する側に回った途端、観賞のレベルが飛躍的にアップする。今まで何を読んできたのだろうか。俺はアホか。そういうことがわかる。

だから上手下手は関係ないし、誰かに見せる必要もない。普段、何気なく読んでいる小説が、どのようなプロセスを経てできあがるのか。それを経験することに意味がある。

研究日記

終日病院。

microRNA の定量。文献を詳しく調べたわけではないのだが、miRNA というのは基本的に mature な細胞でよく発現している印象がある。どうも幹細胞での発現は少ないようである。それはそれで構わないのだが、少ないものを正確に定量するのは難しい。サンプルを大量にかき集めるか、感度を上げるか。簡単なのは前者なので、とりあえず試してみようかなと思うが、面倒臭いなあ。

2006/09/13/Wed.

長年、自分だけが考えていた (と信じていた) ことに対する同志を見付けたときほど盛り上がることはないと思う T です。こんばんは。

湯葉、この屈折した食物

湯葉というのは奇妙な食材である。そして、湯葉料理は屈折した料理だ。

湯葉なんか日本全国どこでも食べられるものだが、それでも京都の湯葉というと何やらブランドであるらしく、街中を歩いていると「京湯葉」なる名称で売り出されていたり、飯屋の品書きに誇らしく書いてあったりする。だが、冷静に考えて湯葉が旨いものであるとは思えない。いや、湯葉料理は好きである。好きではあるんだけれども、「湯葉って旨いか?」と問われるならば、その答えは「いや、別に」ということになるだろう。湯葉料理が旨かったとしても、それはまさしく「料理」として旨いのであって、具体的にはダシやらタレやら他の食材が旨いわけなのだ。湯葉をクチャクチャ噛んだところで旨いわけがない。

湯葉は豆乳を加熱したときに生成される乳膜である。基本的に、ホットミルクの表面の膜と変わらない。この膜はその起源が乳であるから、もちろん栄養的には優れている。昔の人にとっては貴重な種類のそれであったろう。捨てるのは「もったいない」という発想は不思議ではない。湯葉のアイデンティティは「もったいない」なのだ。見も蓋もない言い方をすれば、元はゴミである。

だが一方で、「もったいないから」捨てない・使う、というのは極めて「いやらしい」考えである、という思想も脈々とある。だから、必要以上に凝った料理にする。「捨ててしまうようなものを美味しく料理しました」というわけだ。「粋」とか「オシャレ」の感覚である。要するにエクスキューズであって、このような屈折した開き直りの方がよほどいやらしいと思うのだが、日本にはこの手の「発明」が多い。もっとも、そのレベルは非常に高いのだが。確かに湯葉料理は旨い。

このエクスキューズを再度裏返したのが、湯葉の刺身である。「生のまま食べるのが粋なんだよ」という声が聞こえてきそうだ。これも日本の伝統ではある。単なるボロボロの茶碗を、千利休が「詫び」と言った途端、それは高尚な文化的事物となってしまう。俺は、こういう胡散臭さが日本の強靱さであるとは思っている。ただ、上っ面を撫でて「ほお」「へえ」と賛嘆するのは好きでない。

だから、と勝手に結んでしまうが、嬉しそうに湯葉料理を頼むというのは、俺にとって恥ずかしい行為なのである。食べたかったら普通に注文すれば良いんじゃないか。という話を飲み屋でした (前置きが長過ぎる!)。

ほら、よくいるでしょう、メニューに湯葉があれば必ず「湯葉〜、湯葉〜」と喜び勇んで注文する女の子が。読者諸賢も絶対に見たことがあると思う。俺は彼女達を「湯葉娘」と名付けているのだが、あれは何だろう。という話で盛り上がった。以下に再現する。

謎ですね。どうして湯葉であんなにテンションが上がるんでしょうね。きっと美味しいものを食べさせてもらえなかった家の娘なんでしょうね。美味しいものを食べさせてくれるような彼氏とも付き合ったことがないんでしょうね。可哀想ですね。絶対に付き合いたくないですね。あっ彼女の所に湯葉が来ましたよ。食べてますよ。嬉しそうですね。「身体に良さそう〜」。頭は悪そうですね。

……俺達が一番いやらしい。

2006/09/12/Tue.

自民党総裁選に立候補している谷垣貞一財務大臣の字がとてもヘタクソであることに驚いた T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

来月上旬に、ボスが力を入れている学会の締め切りがある。あれもこれもと、かなり無茶な注文を受ける。8割ほどをやるとして、どう優先順位をつけて何をやるか (あるいはやらないか) をアレコレ考える。9割の案件に対して 9割の完成度で遂行したら全体として 8割になるが、それでは意味がない。まァ、一つ一つ片付けて行くしかないんだろうなあ。片付くかどうかが問題だが。

ボスは言いたいことだけをワァーッと言って次の日には忘れているような人格者である。俺のように横着な人間は適当に受け流しているのだが、可哀想に、真面目な研究員嬢は「全部できないと思うんですけど」などとうろたえている。そりゃそうだ、全部はできない。けれども、無理を承知でやってみると案外できることもあるもので、大抵の場合、レベルとはそういうふうに上昇するものでもある。

自分が本当に大変なときに「大変だよなあ」とヘラヘラ笑うことができれば大したものだが、これはなかなか難しい。できるだけそのように振る舞うことに心がけているけれども。特に俺の場合、自分のような立場の者がテンパってキーッとなってしまうと、テクニシャン嬢達との仕事もギクシャクしてグループの雰囲気が悪くなりかねない。そんなグループを幾つも見てきた。空気を保つのもまた仕事である、といえば妙なプロフェッショナル意識のようだが、それが実行できている人は大抵研究においても優秀である。見習わねばなあ。

2006/09/11/Mon.

久し振りに腹が立った T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

江橋節郎博士が今年 7月 17日に逝去されていることを今更ながらに知る。黙祷。何で知らなかったんだろう、というよりもむしろ、全く報道されていなかったというのが事実のようだ (例えば、Yahoo! のニュース検索で「江橋節郎」を検索しても何も出てこない)。聞いたこともないローカル文人の訃報を、ニュースに乏しい夕刊を埋めるためにデカデカと掲載する一方で、世界的な研究者のそれは全く報じない。新聞社の人材がいかに偏っているかということであり、若者の理系離れを憂える前に、せめて最低限の情報を提供しろと言いたい。こんなことでは、新聞の凋落は当たり前と思われても仕方がない。まァ、この一事をもって新聞を全否定するつもりはないんだけれど。

話はややズレるが、理系「離れ」とは言い訳めいた語に思える。そもそも理系の人が理系から「離れる」ということはまずなくて、むしろ今問題になっているのは、「取っ掛かりのなさ」ではなかろうか。きっかけがないから入門者が減っているのであって、そのような「取っ掛かり」こそ新聞のような一般メディアが提供するべきなのである。その責を怠けていながら「離れ」などと何をエラそうに。何でそんな高いところから発言しているのか全く理解できない。

日本で一般的な科学書の出版数が少ないのも、「売れないから」と言い訳されている。それは事実なのかもしれないが、「売れるように」努力をした上での結果なのだろうか。ネットで個人が自由に発言できるようになった今、作家自身が作品のデータを直接入稿するようになった現在、編集者という職業の存在価値はただその一点のみにある。要するにここでも (その方面での) 人材が払底しているのであろう。

俺は以前から冗談で、「理系党」という政党を作って世の中のサイエンティスト、エンジニア、アーキテクトの支持を得られれば 2大政党制なんか簡単に成立するといっているのだが、半分は本気である。田んぼや道路も大事なんだろうが、どの政党のマニフェストを読んでも、例えば科学研究費の予算を上げるのか下げるのか、そういうことは論点にすらなっていない。「郵政は国営でも民営でも良い。我々の持つ科学技術を支援・保護してくれるのはどの政党か」というような選択の仕方は、残念ながら不可能である。だから選挙にも行かない。そういう人間は我が国に膨大な数で潜在していると思うのだが。

2006/09/10/Sun.

これから、とにかく読破した本は 1行でも良いから何かを書いて記録しておくことに決めた T です。こんばんは。

昨日の日記に書いた通り、これまでに読んだ本の中から、ランキングというかベストというか、そんなものを作ってみた。やり始めてみると意外に楽しい作業で、本棚から引っ張り出して再読することもしばしばであった。おかげで寝不足である。

選抜ルールは以下の通り。

  1. 今回は、読んだときに俺が受けた「衝撃度」のみを基準に選択した。
  2. リストにバラエティーをもたせるため、1作家 1作品とした。
  3. 短編集は 1冊を 1つ、分冊のものはまとめて 1つとした。

直感で選んだ作品を紹介する。順番は適当である。繰り返しになるが、今回は「衝撃度」のみを選択基準としているため、俺が好きな作家、好きな作品が必ずしもランクインしているわけではない。また、手元にない本は極力避けた。かなり偏っているが、こんなところで格好をつけてもしょうがないしなあ。

『吾輩は猫である』夏目漱石

俺が「最も好きな本」と言い続けている作品。読み返すたびに爆笑する。そして、その爆笑する箇所が前回とは違っていたりするところが、この小説の深さでもある。大量に挿入された冗談は、明治知識人の教養が詰め込まれており、それを「笑える」ためには、こちらもそれなりの知識が必要とされる。新しい笑いを見付けることができると、「俺もちっとは成長したのかね」と思え、まァそれも漱石の掌の上なんだろうけれど、とにかく常に新鮮であるゆえに最も衝撃が大きい作品といえよう。

『姑獲鳥の夏』京極夏彦

もちろん他の京極作品も好きなんだけれど、この 1冊だけは確実に探偵小説史に残るであろうという点で群を抜いている。タネを明かしてしまえば愚かしいほどまでに下らないんだけれども、それを言いたいがために延々と書かれた前半などが異様に強固であったりするいびつさもまた魅力である。そういえば、俺はこの小説を「アンチ・ワトソン = 関口、アンチ・ホームズ = 榎木津」として読み解いた評論を書いたことがあるのだが、あれはどこに行ったのだろうか。

『敵』筒井康隆

1冊を選ぶのに難儀した。結局、彼が得意とするスラップスティック SF やブラック・ユーモアではなく、いささか文学色の強い本作を選んだ。ブラックといえば相当ブラックではある。大学教授を定年退官した老人の、悠々かつ淡々とした生活が「朝食」「病気」「預貯金」といった断章を通じてリアルに描かれる。誰の厄介にもならず、蓄えが尽きたときに自裁しようと決意している彼にとっての「敵」とは何なのか。その正体は章を追うにつれてボンヤリと見えてくるが作中ではハッキリと描かれない。しかし読者がそれに気付いたときの恐怖は、もう想像を絶するものである。ここまでしみじみと怖い小説は読んだことがない、という理由で本書を採用した。

『占星術殺人事件』島田荘司

島田荘司御大の作品からどれを選ぶのか、かなり悩んだ。『異邦の騎士』なんかが最も好まれているようだが、俺は『奇想、天を動かす』だとか、『北の夕鶴2/3の殺人』といったバリバリの機械トリックものの方がやはり好きだ。という観点から選択するのならば、やはり本作を推す以外になかろう。6人の女性から切り出された身体の一部を合成して作られる「アゾート」という謎。「難問だが答えは簡単」という、探偵小説の理想型である。御手洗潔初登場作品でもあり、訳がわからなくなるくらいにまで人物像が拡大された昨今の彼よりも、本作の御手洗は生き生きとしている。

『ノストラダムスの大予言』五島勉

これほど世の中の少年少女の心を乱した本はあるまい。本を疑うことなど知らず、充分な判断力も科学的知識も持たぬ少年に対して、五島勉が描くおどろおどろしい終末像に戦慄するなという方が無理である。あるいは本書によって「虚無」という概念を知らず植えつけられた可能性もあり、「自分と世界の死」というものを考えさせられたという意味において、我が年代の人間にとっては強烈な哲学の書であったのかもしれぬ。んなわけないか。

『哲学者の密室』笠井潔

矢吹駆シリーズで最も好きなのは『バイバイ、エンジェル』で、最も面白いと感じたのは『サマー・アボカリプス』だが、最も圧倒されたのは本作である。マルティン・ハイデガーと思しき犯人は巨大な哲学的理由から殺人を犯し、その上に粉飾を施す。矢吹駆はその哲学を粉砕するために事件を解くのであるが、探偵小説史上、ここまで「動機」が形而上学的である事件はないであろう。むしろ、その哲学を描くために「犯罪小説」という形式を採ったという、何とも胡散臭くて馬鹿げた理由と、探偵小説としての完成度のギャップが凄まじい。

『日本殺人事件』山口雅也

『生ける屍の死』「キッド・ピストルズ」シリーズなど、とにかくその世界自体がブッ飛んでいる山口雅也の探偵小説の中で、やはり一番の衝撃度を誇るのは本作であろう。舞台は、サムライが闊歩し、家々の前に鳥居が立ち、港には巨大なカンノン様が屹立する、外国人の勘違いの中にしか存在しないニッポン。父の再婚相手であったトウキョー・カズミの面影を求めてカンノン・シティを訪れた「わたし」は、奇想天外な事件に巻き込まれる。異郷の地で発生した事件を貫くニッポンの精神とは。

『家畜人ヤプー』沼正三


天下の奇書といって良い。婚約を済ませた日本人・麟一郎とドイツ人・クララは、とあることから想像を絶する未来世界へと迷い込む。そこは、「人間」である白人と、「奴隷」である黒人、そして「家畜人」である日本人・ヤプーからなる女尊男卑の大差別帝国 EHS (イース) であった。そこでは白人女性であるクララは、日本人男性である麟一郎をヤプーとして扱わねばならない。麟一郎は、肉便器・セッチンに生体改造されるなどという、屈辱的というにはあまりにも屈辱的な体験を通じ、最終的には自ら望んでクララの家畜として生まれ変わる。三島由紀夫も絶賛した異様な世界は、他の妄想小説とはあまりにもレベルが違う。

『江戸川乱歩傑作選』江戸川乱歩

乱歩作品の中では圧倒的に短編が好きなので、本書を推した。『二銭銅貨』『心理試験』といった近代探偵小説の傑作短編と並んで、『人間椅子』『屋根裏の散歩者』といった、もうどうしようもないくらいに下らないエログロが収録されているかと思えば、エログロを突き破って不条理文学の域にまで届きそうな『芋虫』など、要するに、この多様性こそが乱歩なのだが、その特徴をよく捉えた 1冊。全ての短編が同じ作者によって書かれた、というのが最も衝撃的ではあるまいか。

『麻雀放浪記』阿佐田哲也


本作ではもちろん麻雀が重要なモチーフとなっている。登場人物たちが工夫をこらしたイカサマ、息を飲むような駆け引きは、それだけで上質な探偵小説でありサスペンスでもある。が、同時に、そこで描かれた人間像の生々しさこそが本書の最たる魅力であろう。特に「青春編」の最後で描かれる出目徳の死は凄まじい。このラストを見るだけでも読む価値はある。最強の悪漢小説 (ピカレスク・ロマン)。

『たった一兆』アイザック・アシモフ

SF 小説のみならず、多数の探偵小説、科学、宗教、歴史のエッセイ、啓蒙書を残したアシモフの著作からは、科学エッセイを選んだ。本書はその中の 1冊であるが、これは俺が一番最初に読んだ彼の科学エッセイというだけで、シリーズ全体を推薦したい。サイエンスそれ自体がドラマを持つこと、それは人間の歴史と不可分であること、そして何よりも、最新の科学を厳密に語りながら同時にエンターテイメントであることの可能性を示したという意味で、その着眼点や切り口に俺は驚いたものである。

『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』麻耶雄嵩

『夏と冬の奏鳴曲』以後は全く独自の境地を切り開いている麻耶雄嵩だが、従来の探偵小説の枠組みに納まろうとしているこの処女作は、それゆえに奇怪な構造を持つ。浮世離れした今鏡家で勃発する連続殺人事件。何を考えているのかわからない、語り手の香月実朝。その友人で探偵の木更津悠也。希代の銘探偵、メルカトル鮎。二転三転する事件の真相を掴むのは誰か。それすらもわからぬまま続けられる連続殺人は、てんこ盛りの装飾が施され、一体この小説はどこに着地するのかという不安を読者にもたらす。麻耶雄嵩の作品に共通する、まるで探偵小説を馬鹿にしたかのような解決編がもたらす読後感はクセになる。

『羅生門・鼻』芥川龍之介

『羅生門』に登場する下人は、ひょっとしたら日本で最初に描かれたハード・ボイルド・ヒーローではないか。そんなことを思いながら読んだ記憶がある。教科書に載っているような「お文学」を、そのような評価から離れ、自分の自由に読めば良いという当たり前のことに気付いた 1冊であり、その意味で俺の衝撃度は大であった。そういえば、『羅生門』の有名な最後の 1行、「下人の行方は、誰も知らない。」によって、この作品は良くも悪くも「お文学」を指向してしまっている、という評論を書いたのは誰だったか。

『精神と物質』利根川進/立花隆

立花隆による、利根川進へのロング・インタビュー。読んだのは確か高校生の頃で、俺が現在、研究という仕事をしている遠因となっている 1冊である。基本的には、ノーベル賞を受賞した利根川の研究が語られているのだが、そこに至るまでの経緯も丁寧に取材されている。俺が興味を持ったのはむしろそちらであり、「基礎訓練に欠ける日本の大学院」だとか「サイエンスは肉体労働である」などという話の方が面白かった記憶がある。漠然としていた世界が身近に感じられたような気がして、興奮したものだ。

『トンデモ本の世界』と学会

本書で紹介されている数々の書物は、知らなければ一生手に取らないようなものばかりである。そこでどのような世界が展開されているのか、それを知りえたことが最も大きい。自分の知らないところで巨大な世界がポコリと口を開けている。その頃の俺は体系だった読書を心がけていたのだが、徐々にそれをやめていき、自分の読みたい本だけを買うようになるのだが、その契機となった 1冊。

『唯脳論』養老孟司

生物学を学び始めていた当時の俺にとって、「唯脳論」はそれほどエキセントリックな考え方とも思わなかったし、むしろ自明のことなのではないかという感想しかなかった。俺が衝撃を受けたのは、もっぱら養老孟司の文体にである。注意して読めばすぐに気付くことだが、彼の文章は極端に接続詞が少ない。しかしてその文章は非常に論理的である。このような書き方があるんだなあ。しかも頭が良さそうに見えるなあ。という俗な印象だったが、それは強烈であった。養老孟司が、この文体のまま書いた『身体の文学史』を読んだときに、その驚きは一層鮮明になった。やってみればすぐにわかるが、真似をするのは非常に難しい。

『獣儀式』友成純一

本当にどうしようもないスプラッター小説である。乱歩のエログロ・ナンセンスには、それでもまだ一応、筋書きというものがあった。友成純一は、そんな次元を遥かに超越している。彼によれば「人間、ただの糞袋」なのであり、「人間の尊厳って何それ?」という姿勢が徹底している。だが、いたずらにグロい描写をしているわけではない。彼の作品において、殺される者は精魂込めて殺されてはいけないのだ。それは、笠井潔がいうところの「特別な死」になってしまう。友成純一はそんなものを求めていない。ただただ糞袋が破れるだけのことなのだ。それだけ。無意味。それを追求した結果、小説からストーリーが失われてしまったのだろう。一応、本書の内容に触れておく。魔界からやって来た鬼たちが人間を殺しまくり、その肉を転がして世界を一つの肉団子にするのである。

『風博士』坂口安吾

『不連続殺人事件』とどちらを選ぶか迷った。本作は、呆れるほどオチのつまらない短編であるが、特にその前段における爆笑は保証する。このような悪ふざけとしか思えない小説が成立してしまうのが衝撃であり、それをまた坂口安吾という作家が書いていることが驚きである。安吾の文章には「アッハッハ」「ヤア」といった、どうにも緊張感のない話言葉が多用され、カタカナの擬音も極めて多く、お行儀の良い小説に読み慣れていると、それがやけに新鮮で奇妙な世界に思える。また、漢字をカタカナで開いてしまうことも多い。これには何か理由があるのではなく、「漢字を調べるのが面倒臭い」「書くのが面倒臭い」というのだから呆れる他ない。でも、そこが魅力なんだよなあ。

『ガリア戦記』ユリウス・カエサル

今回選んだ中で、最も最近になって読んだ本。要するに、これが書かれたのが 2000年前である、というのが一番の驚きである。その文章、そして描かれている世界、技術、戦争。とても 2000年前のものとは思えない。何よりも、事実だけを記しているはずなのに、そこから立ち上がってくるカエサルという人物!

『人間失格・桜桃』太宰治

こんなイタい本はない。ここまで書けるのものか、という驚きがまず一つ。太宰治の小説は、青年特有の自我を典型的に描き出しているがために共感を得る、というのが定説だが、どうも俺はそう思わない。多くの太宰ファンは、太宰の小説の中に自分を見出すらしいが、太宰の描く青年と俺は全くタイプが異なるので、そのメンタリティーがよく理解できない。にも関わらず、その人物像が圧倒的にリアルであることが凄いのではないか。あくまで俺の個人的な印象だが。小説それ自体として絶品なんだよな。

『813の謎』モーリス・ルブラン

手元に本がないのだが、ポプラ社から出版されていた南洋一郎の訳による「怪盗ルパン」シリーズの 1冊である。調べて驚いたのだが、南洋一郎は俺の生まれる 1週間前に亡くなっているのだな。このシリーズは俺の人生で最初の読書らしい読書を経験させてくれたものなので、なおさら感慨深い。最初に読んだのは『奇巌城』であったはずだが、これはルパンが前面に出て活躍する話ではなく、確かこのシリーズにおいて 3冊目である本書の方が好きだった。ダンディでスマートで、ときに侍を彷彿させる描写で描かれる根性のあるルパンが格好良かった。ホームズなんかクソだと思った。何も知らなかった小学生の俺は、これまで登場していた人物が、実はルパンの変装であることがわかるたびに驚いたものだった。恐らく今読めば「それくらいわかるだろ」というようなものばかりなのだろうが、嗚呼、あのような幸せな読書は二度と戻らぬのだなあ。それともボケたりしたら、「おやルパンだったのか」とまた驚けるようになるのだろうか。老後が楽しみである。

2006/09/09/Sat.

他人の家に行くと、そこの本棚が気になってしまう T です。こんばんは。

「書評を書くのが面倒だ」と先日の日記に書いたところ、それに関連して、「最近読んだ本よりも、これまでに読んだ本のランキングなんかを見てみたい」という御意見を頂戴した。なるほどなあ。確かに俺も、他人の本棚から選ばれた「ベスト」を見てみたいと思う。

というわけで、今夜から作業に着手した。あまり深く考えず、直感で選んだ数十冊に簡単なコメントを付けたリストを作成しようと思う。近日中に日記で発表するつもり。他の人もやってみない?

研究日記

病院 → 大学。

3日間の出張後とあって、我がデスクの上には事務的な書類やテクニシャン嬢達の実験結果がスタックされていた。もそもそと掻き分け、現状を把握。直ちに処理できるものと、週明けにならないとダメなものを分別し、片付けられるだけ片付ける。残りは明日に持ち越し。

2006/09/08/Fri.

韓国にはまた行きたいと思った T です。こんばんは。

研究日記

韓国出張 3日目。

起床してすぐに空港へ向かって帰朝。ソウル - 仁川空港、仁川空港 - 関西空港、関西空港 - 京都の道程のうち、最も所要時間が少ないのが飛行機に乗っている間、という奇妙な旅であった。

最初はソウルを見聞して感じたことを書こうと思っていたのだが、どうやっても日本との比較になってしまうので止めることにした。これまで、韓国、特にソウルの話はほとんど日本との比較に終始しており、俺はそれが不満であるとともに不思議であったのだが、実際に自分が行ってみたらよくわかる。ソウルの話を書こうとすると、どうしてもそういう切り口になってしまうんだよな。むしろ、その馬鹿馬鹿しいほどの類似性に圧倒されたのが個人的な収穫であったともいえる。

2006/09/07/Thu.

ソウルよりむしろ歌舞伎町などの方が怖くて海外っぽいのではないかと思った T です。こんばんは。

研究日記

韓国出張 2日目。

起床して、午前中は学会場やその周辺をブラブラ。ソウルとかいって、本当に東京にそっくりなので逆にそれほど面白くなかったりもする。街を歩く人々も、そもそも自分達自身が韓国人に間違われるほどなので、「外国に来た!」という印象は薄い。やたらと日本語が通じるし。

学会発表を聴講し、夜は地下鉄に乗って街中へ。飯を喰って適当に遊んでホテルに戻る。

2006/09/06/Wed.

出張は、それ自体よりもその前後の方が大変だと思う T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 関西国際空港 → 韓国。

今日からボスのお供で 2泊 3日の韓国出張。フライトが夕方なので、午前中は病院に寄り、できるだけ仕事を片付ける。関西空港からソウルへ。空港で晩飯を喰って、ホテルに着いたのが 23時。そのまま就寝。

2006/09/05/Tue.

嘔吐する夢を見た T です。こんばんは。

夢の中で酒を呑んで吐くというのだから始末に悪い。寝る前に呑んでいたわけでもないのに、何であんな夢を見たのか、不可解である。

すべからく

大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』を読んでいると、彼が「すべからく」を「全ての」の意味で誤用している箇所が散見され、妙に気にかかった。この誤用は有名であるし、何もそのことについて揚げ足を取ろうというわけではない。が、何となく大塚英志らしくないな、と思ったので。

「すべからく」の誤用について最初に論じたのは、俺が知る限りでは澁澤龍彦である。その名も『すべからく』というエッセイにおいて、「すべからく」が誤用されている例を列挙しながら、その遠因を唐十郎に求めている。彼の評論集において「すべからく」が頻繁に誤用されているのを発見した澁澤は、「やぱり唐十郎は一種の天才なのかな」「破壊というよりもネオロジスム(新造語)かな」と述べているが、誤用自体に関しては皮肉たっぷりに書いている。澁澤らしからぬ噛み付き方で、そこがまた面白いのだが。

このエッセイの正確な初出を調べることはできなかったが、このエッセイを収録する『太陽王と月の王』が出版されたのは 1980年であり、つまり俺の生まれる前から「すべからく」の誤用は広まっていたことがわかる。今では、「すべからく」の正しい用法が「すべからく〜べし」であることは有名になった感があり、「よく知られた誤用」といういささか奇妙な地雷として、日本語文章を査定する機能を負っている。

「すべからく」の誤用が有名になったのは 2ちゃんねるにおいてではないか、という印象を持っている。「すべからく」が誤用されると、かなりの確率でそのことが指摘される。「2ちゃん語」として、誤用に新しい意味を積極的に付加する傾向がある一方で、日本語に対して割と保守的な一面も 2ちゃんねるにはある。「的を射る・当を得る」「汚名挽回 (正しくは汚名返上)」なども、間違えると必ず指摘される。敬語の誤用にもうるさい。指摘のための指摘が多いけれど、地味に強い影響があるんじゃないかとも思う。

研究日記

終日病院。

エアコンや冷蔵庫の修繕だとかで、何やら騒がしい。最近、色んなモノで不具合が発生し、頻繁に修理している。基礎体力のなさを見るようで、何だかなあ、という気もするが、研究所はいまだ立ち上げ途上の部分が少なからずある。こういったことは、その都度一つ一つ潰していくしかなく、そのときサボれば必ず後でツケがやってくる。

明日からボスのお供で韓国の学会へ。百貨店で旅行用鞄を買って帰る。前日にかよ、と皆に突っ込まれた。

2006/09/04/Mon.

「新聞」というのは最早ギャグだろ、と思う T です。こんばんは。

新聞の速報性は、ネット、ラジオ、テレビなどに大きく劣る。「旧聞」に名前を変えたらどうか。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。夜はセミナー。

2006/09/03/Sun.

最後に万歳をしたのはいつだったか、忘れてしまった T です。こんばんは。

万歳三唱令

「万歳三唱令」なるものを見付けたので紹介する。

萬歳三唱令

別紙ノ通相定来明治十二年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

右奉 勅旨布告候事

施行 明治十二年四月一日太政官布告第百六十八号

朕萬歳三唱ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム此布告ハ明治十二年四月一日ヨリ施行スヘキコトヲ命ス

御名御璽

萬歳三唱ノ細部實施要領

「發聲ニ當リ音頭ヲ爲ス者氣力充實態度嚴正ヲ心掛クルヘシ」「何レノ動作ヲ爲スニモ節度持テ氣迫ヲ込メテ行フ事肝要ナリ」のくだりなどは爆笑ものである。「萬歳ノ發聲ト共ニ右足ヲ半歩踏出シ」「兩掌過チ無ク内側ニ向ク事肝要ナリ」といった、よくわからない様式もまたおかしい。

ちなみに 1990年頃の偽作である。作者は不明。

研究日記

終日病院。

思った以上に増殖していた細胞を継体。大量。来週の準備をしてから帰宅。

2006/09/02/Sat.

どうも最近は仕事の話が多くてイカンと思っている T です。こんばんは。

『不実な美女か貞淑な醜女か』という本がしばらく前から本屋に並んでいる。タイトルからは想像できないのだが、実は同時通訳の現場を描いた書物なのだという。まあ、そんなことはどうでも良い。

不貞と貞淑、美女と醜女

以下、少々意地の悪い書き方をする。

「不貞な美女か貞淑な醜女、どちらが良いか?」という質問をされた諸兄は大勢いるんじゃないかと思う。俺はこういう質問が大嫌いである。カチンとくるのだ。最初から選択肢が限定されているのが気に食わない。バカにしてるのか、と思う。こんなところで怒ってもしょうがないが。

ちなみに、上記の質問に自由回答するならば、「どっちも良くない」が俺の答えである。そもそも「不貞な美女」と「貞淑な醜女」は選択肢として等価ではない。美女は不貞であることも貞淑であることも選択できるが、醜女は不貞になろうと思っても相手がいないから貞淑であらざるを得ない。醜女による美女への攻撃は、このように巧妙な形を取ることが多い。いわく、「美人は 3日見たら飽きる」「美人は性格が悪い」などなど。ほとんど言いがかりである。美人の性格が悪かったとしても、それで醜女の性格が良くなるわけではなかろうに。

「シンデレラ」などの童話に見られる継子と、継母・連れ子の描写において、心美しい継子が容姿端麗であるのに対し、継母とその連れ子が常に意地悪な醜女であることは一考の価値がある。これら子供向けの絵本においては、性格と顔面の歪曲が必ず連動している。ミス・コンテストを批判するくらいなら、まずはこのような反動的童話を焚書にするべきではないか。

女性権の運動において、あまり美人を迫害しない方が良い。さもなければ、シンデレラが実話になってしまうぞ。

研究日記

終日病院。

軽く実験。土曜は大抵ラクなのである。日曜の方が、来週からの準備だとかで忙しい。それを土日の 2日間で均等に分ければ良さそうなものだが、なかなか上手くいかないものである。来週は韓国の学会に行く予定があるので、明日やらねばならぬ準備はいつも以上となる。……やっぱり今日はもう少し働くべきだったか。

2006/09/01/Fri.

アウトプットの量がインプットのそれを上回ることはないと思う T です。こんばんは。

本日から 9月。随分と涼しくなってきた。良い季節ではあるが、学会だ何だと、秋は何かと忙くもある。

本日は休み。先行きのことについてボンヤリと考えたが、考えたところでどうにもならんので、チビチビと呑みながら本を読むことにする。

就職活動日記

久々の就活日記である。いや、就職活動をしているわけではないのだが。

自分の就職がなかなか決まらない頃にはどうなるんだろうかと不安に思ったものだが、徐々に世の中は良くなってきているようで、今年の就職活動をイメージする漢字は「楽」だという。実際のところ、才能と野心のある若者にとって、現在は己が能力を賭けるに値するチャンスは様々なところに存在するんじゃないか。という客観的な観察ができるようになったのは最近である。余裕が出てきたというよりは、若干ながら視野が広がったというべきか。

自分を顧みても、現在就いているような仕事が存在することなんて全く知らなかったわけで。仕事を始めたら始めたで、またもや全然無知であった世界との接触があり、そこでも大勢の人が働いている。ははあ、かように膨大な職種があったか、などと、そんなことを知るだけでも勉強になる。

まァ、俺だって職場に行けば単なる「若者」に過ぎないのだが、残念なことに才能も野心も持ち合わせていない。才能は努力で補え得たとしても、野心の無さはいかんともしがたい。「野心がなければ出世できない」ということなら一向に構わないのだが、「生き残れない」となると問題だ。「業績」が「結果」としての産物ではなく、ある程度には「狙って」いかなければならないもの、という厳しい事実にも時折直面する。

考えたところでどうにもならん、とかいいながら、ついつい頭がそこに戻ってしまう。ま、考えるのを辞めたら終わりなんだろうけれど。「下手の考え休むに似たり」という言葉は含蓄がある。「似ている」けれども「休みと同じ」とまではいっていない。休んだ方がマシ、ということもあるんだが、真意はどうなんだろう。

読書日記

塩野七生『ローマ人の物語 賢帝の世紀』澁澤龍彦『太陽王と月の王』大槻ケンヂ『リンダリンダラバーソール』などを読破する。最近、またもや書評をサボっている。紹介したい本は実にたくさんあるのだが、書評を書くのが面倒なのだ。結局は書かないで終わるという現状よりも、スタイルを変えてでもとにかく記録した方が良い、とは常々思っているのだが。

要するに「書評」というネーミングが悪い。ついつい力を入れて「書評」を書いてしまう。「読破記録」にでも改めた方が良いかもしれん。