長年、自分だけが考えていた (と信じていた) ことに対する同志を見付けたときほど盛り上がることはないと思う T です。こんばんは。
湯葉というのは奇妙な食材である。そして、湯葉料理は屈折した料理だ。
湯葉なんか日本全国どこでも食べられるものだが、それでも京都の湯葉というと何やらブランドであるらしく、街中を歩いていると「京湯葉」なる名称で売り出されていたり、飯屋の品書きに誇らしく書いてあったりする。だが、冷静に考えて湯葉が旨いものであるとは思えない。いや、湯葉料理は好きである。好きではあるんだけれども、「湯葉って旨いか?」と問われるならば、その答えは「いや、別に」ということになるだろう。湯葉料理が旨かったとしても、それはまさしく「料理」として旨いのであって、具体的にはダシやらタレやら他の食材が旨いわけなのだ。湯葉をクチャクチャ噛んだところで旨いわけがない。
湯葉は豆乳を加熱したときに生成される乳膜である。基本的に、ホットミルクの表面の膜と変わらない。この膜はその起源が乳であるから、もちろん栄養的には優れている。昔の人にとっては貴重な種類のそれであったろう。捨てるのは「もったいない」という発想は不思議ではない。湯葉のアイデンティティは「もったいない」なのだ。見も蓋もない言い方をすれば、元はゴミである。
だが一方で、「もったいないから」捨てない・使う、というのは極めて「いやらしい」考えである、という思想も脈々とある。だから、必要以上に凝った料理にする。「捨ててしまうようなものを美味しく料理しました」というわけだ。「粋」とか「オシャレ」の感覚である。要するにエクスキューズであって、このような屈折した開き直りの方がよほどいやらしいと思うのだが、日本にはこの手の「発明」が多い。もっとも、そのレベルは非常に高いのだが。確かに湯葉料理は旨い。
このエクスキューズを再度裏返したのが、湯葉の刺身である。「生のまま食べるのが粋なんだよ」という声が聞こえてきそうだ。これも日本の伝統ではある。単なるボロボロの茶碗を、千利休が「詫び」と言った途端、それは高尚な文化的事物となってしまう。俺は、こういう胡散臭さが日本の強靱さであるとは思っている。ただ、上っ面を撫でて「ほお」「へえ」と賛嘆するのは好きでない。
だから、と勝手に結んでしまうが、嬉しそうに湯葉料理を頼むというのは、俺にとって恥ずかしい行為なのである。食べたかったら普通に注文すれば良いんじゃないか。という話を飲み屋でした (前置きが長過ぎる!)。
ほら、よくいるでしょう、メニューに湯葉があれば必ず「湯葉〜、湯葉〜」と喜び勇んで注文する女の子が。読者諸賢も絶対に見たことがあると思う。俺は彼女達を「湯葉娘」と名付けているのだが、あれは何だろう。という話で盛り上がった。以下に再現する。
謎ですね。どうして湯葉であんなにテンションが上がるんでしょうね。きっと美味しいものを食べさせてもらえなかった家の娘なんでしょうね。美味しいものを食べさせてくれるような彼氏とも付き合ったことがないんでしょうね。可哀想ですね。絶対に付き合いたくないですね。あっ彼女の所に湯葉が来ましたよ。食べてますよ。嬉しそうですね。「身体に良さそう〜」。頭は悪そうですね。
……俺達が一番いやらしい。