- 多忙論

2005/11/18/Fri.多忙論

いもけんぴを食べている T です。こんばんは。

「いもけんぴ」は漢字で「芋堅干」と書くんだなあ。なるほど、と感心する。

忙しさ自慢

今日は休み。土日返上の代償である。何日ぶりの休日かを考えると気が遠くなるので、過去ログの検索はやめる。しかし少なくとも、今月に入ってからは初めて、である。

なんてことを書くと「忙しさ自慢」になってしまうので、少し話をずらす。塩野七生『男たちへ』中で、次のように述べている。

男というのはオカシな動物で、自分が才能豊かな男であることと忙しいことは、比例の関係にあると思いこんでいる。私などは、そんなことはないと確信しているけれど、男のほうはなぜか、とくに日本の男の場合はほとんどといってよいくらい、忙しければ忙しいほどたいした男であり、それを女に誇示する傾向から無縁でいられない。

(『男の色気について (その三)』)

ここまで書かれると笑うしかない。もちろん大当たりである。男、それも俺のような自信過剰気味の男には耳の痛い忠告だろう。

俺自身、「忙しい、疲れた、などと自慢気にする人間は好きではない」だの、「あまり『忙しい』とは言いたくない。言い訳になっちまうんだよな」だのと書いているが、これは全く裏返しの現象であって、つまり、これほどまでに自分で抑制しなければ、すぐに「忙しい」と言ってしまいそうになる、ということでもある。かように「忙しさ自慢」の誘惑から逃れることは難しい。

忙しがってはいけない

では、「忙しい」と思ってしまうことは悪なのか。この問いに対しては、明確に「否」と答えることができる。「忙しい」という感情の中には、現状への不満や愚痴と同時に、自信や矜持も含まれる。忙しいのが本当にイヤであれば、人員削減のこの御時世、ヒマになることは非常に簡単だ。それでも忙しい毎日を送るのは理由があるからで、そのためにはモチベーションの確保やガス抜きも大切である。「ああ忙しい」と大いに誇る(愚痴る)べきだ、自分に向かっては。人間性を超越したストイックさを、俺は拒否する。忙しいものは忙しい。

であるからこそ、他者に対してその感情を抑制するときに、人間的な美が顕現する。要するに「忙しがってはいけない」ということ。多忙に幸あれ。

本屋日記

本屋に行く。ついにユリウス・カエサル『ガリア戦記』を買ってきた。「カエサル著」という文字列が笑える。神君だからな。日本でいえば「応神天皇著」みたいなものか。

購入した『ガリア戦記』は、近山金次の訳による岩波文庫版である。ネットで調べたところ、近山訳がなかなかの評判だったからだ。ところで、この『ガリア戦記』の近くにニーチェの本もあったのだが、その題名が『ツァラトゥストラはこう言った』となっていて愕然とした。何だそれは。『Thus Spake Zarathustra』の邦訳は、『ツァラトゥストラかく語りき』で長い間統一されていたはずだ。これはもう、固有名詞である。だいたい、『ツァラトゥストラはこう言った』というタイトル、目茶苦茶つまらなさそうじゃないか。頭が悪過ぎる。何を考えているのか、岩波。アホか。

一方、角川文庫からは鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』というものが出ていた。京極夏彦や水木しげるのブームに便乗した商品なのだろうが、なかなか凝った造りの本である。良い世の中になったなあ。解説は多田克己。巻末には索引も付いている。

その他にも数冊を購入。今日の本屋は俺にとって「当たり」だったようで、面白そうな本が次から次へと見付かる。年に何度かある、幸福な機会である。おかげで散財してしまったけれど。