- Diary 2006/08

2006/08/30/Wed.

今月のゴルゴ13 を精読した T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学。

Invitrogen に頼んだプライマーが届かない。理由は前回と同様で、合成ミス。1回ならともかく、立て続けに 2回ともなると、不信感が募る。アンチセンス・プライマーだけが届いたところで、PCR はかけられない。そういえば前回、再合成されたプライマーに添付されていたデータ・シートが、他人のサンプルのものであったというトンデモないオマケまで付いていた。ちょっと考えられんのだが。

ようやく micro RNA が正確に定量できるところまで漕ぎ着けた。やればできる。

「American」の最後の 4文字は「I can」なんだ、という良い話があるけれど、Mexican や African もそうだよな。

2006/08/28/Mon.

大学院の願書を書いた T です。こんばんは。

応用とは原理を知って初めてできることであり、応用化されたものを利用するのは単なる消費でしかない。それが悪いというわけではないが。

研究日記

病院 → 大学。

てこずっていた micro RNA の RT-PCR が、どうやら系として使えそうなくらいには確立できた。予備的に行った今日の実験では、充分に定量化できそうな感じだったので、明日は一つトライしてやろうかと思っている。メーカーからマニュアルを取り寄せるなどして勉強した甲斐があった。キットばかりに頼っていてはいかん、やっぱ基本が大事だよ基本が。などと誰に言っているのだ俺は。

科学の基本というのは原理であって、これは頭を使えば必ず理解できる (はずの) 事柄である。それゆえに爆発的な進歩があるわけだが、その爆風に吹き飛ばされて理屈の勉強を怠ると、しばしばドツボにはまる。例えば、ある程度以上に美しい写真を撮影しようとすれば、カメラの機構に対する知識がどうしても必要になる。倍率を高くし焦点を絞れば視野は暗くなるが、だからといって光度を上げればディティールは彼方へと消えてしまう。ならばここは暗めに抑え、Photoshop でコントラストをつけるか。というようなトータルな判断は、写真、カメラ、デジタルな画像処理といった各工程の基礎的な仕組みを理解せねば不可能である。

なんて、たまたま俺が顕微鏡写真の撮影が好きだからエラそうに書いているが、他の場面ではトンデモない間違いをしでかすことも多い。襟を正さねば。

そういえば先日、テクニシャン嬢にキットを使った PCR を頼んだところ、「dNTP を入れなくても良いのか」と確認された。そのキットのバッファーにはあらかじめ dNTP がミックスされているのでその必要はないのだが、それはまた別問題である。プロトコルを見て「アレ?」と思った彼女の中には、確実に原理が生きている。同じ仕事を頼まれて、何の疑問も覚えずに作業を始める人もいる。別にそれを否定するつもりはないが、そのような状況を「見て」しまった俺はまた、誰かに「見られている」はずの俺、というものも再認識したのだった。

何というか、今の仕事では色々と気付かされることが多くて勉強になる。感謝。

2006/08/25/Fri.

久し振りに出歩いた T です。こんばんは。

慈照寺吉田神社平安神宮を回ってきた。新しく買ったデジタルカメラを存分に使う機会がようやく訪れたこともあって、大いに楽しむ。かなり暑かったが。

ファンタジーと造語

ファンタジーに関する議論の続き。

異世界を描く上で最後の困難は、言語に関するものであろう。作者は、その異世界で使われている言語を創造することは可能だが、その言語で小説を書くことはできない。書いたとしても、もはや誰も読めない。したがって、何とか母語で異世界の言語を表現せねばならない。

この問題を考えるとき、「ロボットの話す言葉はカタカナで表現する」というルールを確立した人間のことが思い浮かぶ。「ワタシハ、ろぼっとデス」という表現方法を思い付いたとき、彼はまさしく翻訳の神様であったろう。もっとも、この方法は原書からインスパイアされたものかもしれない。英語圏では、しばしば大文字のみ (あるいは小文字のみ) のセリフ表記が見られるからだ。仮にそうだとしても、やはり最初に考え出した人間の天才には変わりがない。

日本語においては、言語を異化する 2つの有力な手法が存在する。漢字とルビである。表意文字という漢字の性質上、「読めないけれど何となく意味がわかる」という奇妙な表現が成立する。実際、筒井康隆『驚愕の曠野』中村誠一『幻の戦士・鈴唐毛の馬慣れ』という作例が存在する。また、ルビを使用することによって、表意と表音の分離が可能となる。非漢字文化圏では、例えばラヴクラフトのように、「『Cthulhu』は人間には発音できない」というような説明をしなければならず、いささか大変である。

このように、ファンタジーと造語には密接な関係がある。既存の神話や世界観を引用したようなファンタジーに俺が魅力を感じないのは、小説言語として面白くないからである。むしろ、哲学や宗教のように、精神世界という別世界を記述しなければならない分野において、魅力的な用語が頻繁に見られる。他の学問分野でもそうだが、よく定義された事柄を誤解ないよう伝達するために、日々新たなタームが創造され、その内のいくつかは言葉として非常に興味深いものとなる。新たなタームが必要とされるということは、その言葉で表される概念や事象が全く新奇なものだからであり、それはつまり、広い意味でのファンタジーでもある。

2006/08/23/Wed.

安易なファンタジー小説は嫌いな T です。こんばんは。

今日から夏休み。掃除、洗濯、買い物、散髪など。寝たり起きたり。

作られた世界

かなり以前から、「ファンタジー度」の高い小説を読みたいと熱望しているのだが、なかなか叶うことがない。「ファンタジー度」というのは我が造語なのだが、要するに、「異世界を描く作品」としてファンタジーを定義したとき、その「異世界」がどこまで「作られたもの」であるかを示す度合いである。

あくまでも別世界を描こうとするならば、作者はその世界の言語、政治、宗教、歴史、経済、社会、自然、物理、技術その他、とにかく世界を構成するものを何から何までを想像・創造せねばならぬ。が、それは大変なので、作品と深く関係しない部分は、暗黙の了解として現実世界あるいは既存のファンタジーのコードをそのまま引用する。作品の構成上、または実際の創作問題として、全ての世界事象を作者が描写する必要はない。したがって、「ファンタジー度」と作品の質は全く別問題である。その点を踏まえ、もう少し議論を進める。

ファンタジー度とヴィジュアル化

ファンタジー度は、世界観あるいは設定の多寡で便宜上定量化することができる。「世界観」というタームについては、大塚英志『定本 物語消費論』で詳しく述べられており、なかなか面白い。世界観という概念は漫画やアニメといったメディアでよく発達している。それは恐らく、これらのメディアが視覚表現だからであろう。例えば小説なら、「主人公は街に出た」と一行書けば済むような描写でも、漫画やアニメでは実際に「街」を「絵」にしなければならない。当然そこに現れる建物、人間、都市、商品などは異世界のものであり、それをヴィジュアル化するには何らかの指針が必要である。それが世界設定となる。漫画やアニメは複数の人間によって制作される (ことが多い) という現状が、この傾向に更なる拍車をかける。世界観は矛盾しないよう厳密に構築され、あらゆる場面を想定した膨大な細かい設定が与えられる。つまり、ファンタジー度が高くなる。近年ではゲームも同様であり、いわゆる完全攻略本では世界観の解説に一章が割かれる。

世界観は多人数が参照することを前提としているため、その解読には消費者も参加できる。結果として、世界観を引用した 2次創作の発生、もしくは消費者による世界設定の追加という現象がこのメディアでは発生しやすい。

一方で、小説はどうか。俺が最もファンタジー度の高いと思った作品は沼正三『家畜人ヤプー』だが、この作品が石森章太郎と江川達也の手で漫画化されているのは興味深い。古典的なファンタジー、例えばドラキュラやタイムマシンが様々な亜流を生んでいるのも、やはりルールがきちんと整備されているからである。縛りが大きいほど、どうもこの傾向は強いらしい。

次回は、小説に絞ってファンタジーを考えてみたい。

2006/08/22/Tue.

休日前夜に目覚まし時計をオフにするのが楽しみな T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。明日から夏休み。

大学で院試の願書をもらってくる。とりあえず机の引き出しに仕舞う。休暇中にゆっくり考えるとしよう。

今日の夕立は雷を伴っていたのだが、落雷でまたもや停電。10日前にも停電したところだろ。いくら何でも、ちょっとヤワ過ぎる。

仕事を早めに切り上げて、研究員嬢、テクニシャン嬢 2人と晩飯。

2006/08/21/Mon.

「26歳でそんな仕事のやり方をしている奴はいないよ」と言われた T です。こんばんは。

俺もそう思う。普通なら、博士課程の 2年生だもんなあ。

研究日記

大学 → 病院。夜はセミナー。

我らがグループは明後日から夏休みを取るので、病院での細胞培養も打ち止め。クローニングなどを進めながら、積日の課題であったサンプル整理に乗り出す。テクニシャン嬢達は、俺が要不要の判断を下さない限り、全てのサンプルを保管する。捨てることはないため、時間が経つにつれて保管場所は圧迫される。定期的に点検して大掃除をしなければならないのだが、こういう仕事はついつい後回しになってしまう。今日は皆で確認しながら、かなりの量を廃棄した。

同じく数が増えて混乱しがちになってきた、ベクターとプライマーの整理も敢行する。この 1年で作ったベクターが数十、プライマーは以前からあったものを含めて 100を越える。わかりやすい一覧表を作って整理を進める。例えば RT-PCR 用の GAPDH プライマーだけでも、ヒト特異的な GAPDH、マウス特異的な GAPDH、ヒトにもマウスにもかかる GAPDH など、数種類が混在している。俺だけが理解していても何の意味もなく、なかなかに細やかな配慮が必要とされる。このような気遣いが評価されることは少ないが、これを怠る研究員は例外なくテクニシャン諸氏から酷評を買っている。こんな影の努力が男の背中を広くするんだよなあ、などとニヤニヤしていたら、「思い出し笑いをしないで下さい」とたしなめられた。こんな立場、マゾ気質じゃないとやってられんよなあ。

micro RNA の実験は微速前進といったところ。これは俺のテーマではなく、新人研究員嬢に対するヘルプなのだが、何にせよ実験が進むのは喜ばしい。このように、今のラボでは、複数のテーマを複数の人間がクロスオーバーしながら進めている。頭がパンクしそうになることもあるが、色々な研究に関われるので勉強になる。と思わないとやっていられない。こういう体制下では、仕事の分担がしばしば不均等になる。俺が背負い込むのは何ら構わないが、我らがテクニシャン嬢達の仕事が、他のグループの諸氏に比べて多くなるのは好ましくない。ときには政治的配慮も求められ、それに応えるのもまた我が仕事である。

新しい培養室に導入する機器の見積もりが届き始める。論文読み、学会の準備などを少し。勤務時間に対する実験時間の割合がどんどん減りつつある。こんなことで良いのか、と不安に思うこともあるが、とりあえず今は突き進むしかない。明日は大学に院試の願書を取りに行く。ま、貰うのはタダだし。

ホント、どうするのが一番良いんだろうな。

2006/08/20/Sun.

「夏休み、どこか行ったの?」と訊かれた T です。こんばんは。

日焼けをしているのでそう思われたのだろうが、あくまで通勤焼けである。特に、自宅 - 大学間は歩くことにしている (20分弱)。最近は大学に寄ることが多くなったので、その影響だろう。

研究日記

大学でウイルスの作成。ウイルスは実験毎に作っている。感染に使えるまでには 2日を要するので、面倒だと思うこともある。

ウイルスは、ウイルスの遺伝子を形質転換したパッケージング細胞によって作られる。パッケージング細胞は、自らが産生したウイルスに再感染される。したがって、このパッケージング細胞を継体培養すれば、いつでもウイルスが使える状態を維持できる。毎回ウイルスを作る必要がなくなるわけだ。しかし、そういうふうにはしていない。ウイルスがヘタってくるのか、それとも法的な規制で必要量以外のウイルスの廃棄が義務づけられているのか。きちんと調べてはいないが、恐らく後者だろう。

基本的に、実験用のウイルスは危険なものではない。遺伝子改変作物などに関してもそうなのだが、法を作る人は、そのへんがちゃんとわかっているのかな、といつも思う。規制するための規制であるならば、それは不要であるどころか全くの害である。とはいえ、「万一のことがあったらどうするんだ」と問われれば答えることはできない。生物自体が「万一」のシステムであり、極めて例外の多い系だからである。「絶対にそんなことはない」と言い切れることは少ない。だからこそ「進化」もするわけだが。進化というのは、つまり変化に他ならない。

2006/08/19/Sat.

宇宙に想いを馳せる T です。こんばんは。

この 2週間ほどで、天文学の本を数冊読んだ。今読んでいるのはエドウィン・ハッブルの著作。これは非常に面白いので、また紹介したい。

天文学、というのは少々古典的な意味合いを帯びた言葉で、現在なされているそれは、宇宙物理学とでもいった方が現状をよく反映しているかもしれない。俺が興味を持つのもその点で、星や星座といったものにはあまり興味がない。

宇宙は、物理法則を調べる上で、極めて理想に近い状態にある。数十億光年という彼方にある天体について、決して豊富とはいえない観測データから、非常に蓋然性の高い推測が得られるのも、このような宇宙の性質による。地球上では、ただ地球上であるというだけで、既に重力の影響を考えねばならない。生物なんかを扱っていると、宇宙のようなシンプルな「場」が、ときに羨ましく思えたりする。

一方で、宇宙に対して行えるのは唯一「観測」だけなのだが、これは歯痒いだろうなあ、とも思う。生物学的な比喩を使うなら、それはただ 1つの個体を観察しているに過ぎない。それがいわゆる正常な個体なのか、それとも特別な個体なのかもわからない。「実験」もできない。細胞に遺伝子を入れるように、「じゃあ、あの辺に銀河を 1つ」というのも不可能だ。銀河といっても、物質としてのそれは直径 10万光年にも及ぶ。

全く関係ないが、「天之川銀河」(あまのがわ・ぎんが) という名前を思い付いた。少年ジャンプの主人公とかに使えそうと思うのだが、どうだろう。

研究日記

大学で培養細胞の用意。

2006/08/18/Fri.

ゴキブリ・ハンターの T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学。

今朝一番の仕事は、実験室にうろついていたゴキブリの退治。男が少ないため、こういう仕事がよく回ってくる。俺の専門技量と思われている技術には、下のようなものがある。

お茶入れをさせられる社会人女性の気持ちもわからんではない。「てめえ男だろ。虫くらい殺せよ」というわけである。これらの巧妙なところは、一応「お願い」という立場が採られている点である。断るのは非常に難しい (別に断る理由もないが、本当に手が放せないときもあり、それが困る)。

ちなみに、ゴキブリにはクロロホルムがよく効く。キシレンやアセトンも効く。アルコールは効かない。そんな有機溶媒マメ知識は増えた。

2006/08/17/Thu.

T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学。

3週間ほどかかって培養した細胞の移植実験。分取できた細胞数が予想の下限の半分以下……。切腹。

2006/08/16/Wed.

財布を変えて 1ヶ月が経った T です。こんばんは。

新しい財布は札入れに仕切りがあり、空間が 2分割されている。以前の財布には仕切りがなかった。元より俺は、紙幣の方向を揃えて財布に入れるタイプの人間である。したがって、仕切りがあればキチンと分類収納するべきだ、と思ってしまう。しかし、これが厄介だ。

札入れが 2分割されている。一方に千円札を入れ、片方に一万円札を入れる。だが、さて、五千円札はどちらに入れるべきか。気になってしょうがない。例えば、五千円札を千円札の方に入れている。そういうときに限って、今では珍しい二千円札などが舞い込んで来る。では、ということで二千円札を千円札側に仕舞い、五千円札を一万円札の方に移す。そんなことばかりしている。バカじゃなかろうか。

研究日記

病院 → 大学。

最近は色んなプロジェクトに関わっていて、micro RNA などにも手を染めている。miRNA というだけあって、なかなか扱いが難しい。何度かの失敗を繰り返し、今日、ようやくポジコンの RT-PCR に成功した。微妙な定量を正確に行うには、まだまだ道程は遠いが、まァ一歩ずつ。

今夜は大文字焼き。ボスに連れられて、研究員嬢、テクニシャン嬢 2人とともに晩飯 → 大文字観賞。

2006/08/15/Tue.

最近は忘れる一方の T です。こんばんは。

覚えることは全て覚えなくても良いことだが覚えた方が良い

覚えなくても良いようなことに限って、強烈に頭に残ったりする、という話を以前に書いた。以下は、あくまで生存レベルでの話。

生存に必須な情報は誰もが必ず記憶する。それをわざわざ「覚えよう」として記憶しなければならない生物は、すぐに地上から姿を消すであろう。最重要な情報は、そもそも記憶するとかいう以前に、遺伝情報あるいは神経ネットワークの配線として「書き込まれている」場合すらある。昆虫の走性などはその典型だろう。そこに、覚えたり考えたりする余地はない。

したがって、「覚える」という行為の対象は、全て「覚えなくても良いこと」だという極論も成り立つ。よくよく考えてみれば、「覚えなくても良いこと」というのは、いまだ価値が不定であるというに過ぎない。「余分な」情報ストックの多寡が、未経験の有事の際における生存率を左右する (こともあろう)。したがって、「覚えなくても良いこと」に対して強烈な記憶作用が働くというのは、個体の生存を図るために備わったメカニズムなのかもしれない。覚えなくても良いことだが、覚えた方が良い

上で「個体の」とわざわざ断ったのは、記憶は遺伝しないからだ。生存に有利になるならば、記憶も遺伝させればよろしい。原則だけを述べれば、確かにそうなる。しかしそのような機能は生物に実装されなかった。機構的に無理だったのだろうか? 現生生物を見ればそのように考えてしまいがちだが、進化の単位は数十億年である。「本当に」それが有利であるならば、全く不可能だったとは誰にも言えまい。抽象的な議論になるが、記憶が遺伝しないのは、「良い記憶とは何か」を自然が選択できないからだろう、と思う。記憶はあくまで、「個人的な体験」なのだ。

研究日記

終日病院。クローニングがなかなか進まない。

2006/08/14/Mon.

ロッテリアとマクドナルドを交互に訪れている T です。こんばんは。

やはり、ロッテリアの方が日本人の口をよく考えていると思う (どっちが旨い、という話ではなく)。ところで、自動販売機で売られているコーラよりも、ハンバーガー屋で出てくるような、氷で若干薄まったコーラの方が旨いと感じるのは俺だけか。

世間はお盆休み。通勤途中の電車の中で、『津山三十人殺し』などというノンフィクションを読んでいる俺は明らかに勝ち組。むしろ一人勝ち。入道雲が眩しい。嗚呼。

研究日記

病院 → 大学。

職場のネットが不通。一昨日の落雷が原因らしい。ホンマか? 真実だとしたら、ちょっとヤワ過ぎないか。デスクワークがまともにできないので、実験三昧で過ごす。ま、たまにはこういうのも良い。

5月に出した学会の抄録が査定をパスした。秋に米国で発表することになる。しかも oral session。英語の口頭発表は初めてである。気が重い。ボスは喜んでいたが。

Invitrogen に頼んでいたプライマーが届かない。代わりに、「製品を検査したら配列ミスがあったので、再度作り直している」という連絡が来た。ちゃんとチェックしてるんだなあ、とヘンに関心する。ただ、結果としてお盆を挟んでしまったのがイタい。

2006/08/13/Sun.

今月はよく本を買っている T です。こんばんは。

本屋に行く。9月 9日、その本屋で島田荘司御大のサイン会があるらしい。『UFO大通り』という頭の湧きそうなタイトルの本に、御大が直々に署名して下さるという、何ともファンタスティックなイベントだ。詳細はこちら。何とか都合をつけて駆けつけたい。

研究日記

病院にて培養作業。

2006/08/12/Sat.

つげ義春の『別離』を読んで、いやあな気分になった T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。先日から、BamH I の調子がおかしい、なぜか余分にバンドが現れる。配列が確実なものを含む複数のベクターで再現性がある。酵素がヘタって切れなくなる、というならわかるんだけど。立体構造がゆるくなって特異性が甘くなっているのだろうか。いや、イメージだけで書いているんだが、そんなことがあるのだろうか。

落雷を伴う夕立が来たと思ったら、停電。十数分後に復帰。

2006/08/11/Fri.

免許を更新してきた T です。こんばんは。

本日は休み。出勤するより早く起き、電車とバスを乗り継いで免許センターへ。バイクに乗っていた頃の違反が残っていたので、 2時間の講習を受け、3年期限の新しい免許を受け取る。昼には全て終了。

電車を途中で降りて街中へ。本屋で大量に購入。最近は、「読むかも」という基準さえ満たせば、目に付く本は全て購入することにしている。数少ない我が道楽だ。害もないし、大した金もかからぬという、まことに道楽らしからぬ道楽ではあるが。そろそろ新しい本棚が欲しくなってきた。書斎にはまだ充分なスペースがある。本が溢れ返ってきたので引っ越し、となると、多少は道楽の風格が漂ってくる。それにはまだ数年の時間が必要だ。買った本を読んでる内はダメなんだろうなあ。読まない本まで買い出せば立派な道楽になるが、まァ別に道楽を目指しているわけでもないので。

2006/08/10/Thu.

今週はほとんど実験ができなかった T です。こんばんは。

Web 日記

検索ノイズの大きさが問題になっている。我がサイトも、あらゆる検索ワードで引っ掛かる。毎日、たくさんの人がサーチ・エンジンから飛んでくる。それはそれで結構なのだが、あまり関係のないページがヒットしていると、こちらとしては申し訳なく思う。

情報発信が容易になり、それが過多の領域にまで発展すると、一昔前とは違って、むしろ「不要な情報は隠す」ということが重要になってくる。不要にも様々なレベルがある。例えば、我がサイトの全ページ左側には、新着情報が表示されている。定期的に閲覧してくれる人には何らかの役に立っていると思われ、その意味では決して「不要」ではない。しかし、この左サイドの情報が検索で引っかかるのは、明らかに「不要」である。『ガリア戦記』の書評を書けば、サイエンスのページにも写真のページにも、「ガリア戦記」の文字列が躍り出る。これはノイズだろう。

ということで、人間の目・ロボットの目に映る情報を任意に選択できるような仕組みを試みた。技術的な側面は気が向いたら書くことにするが、テクニカルなことよりも意識の方が大切だろう。

原作がないとダメなのかね

週間少年マガジンで、『巨人の星』の花形満を主人公にした連載が開始。初回を読んでみたが、何だ、あの花形は。ただのさわやか少年ではないか。つまらん。

以前から読みたいと思っていた『のだめカンタービレ』がドラマ化。どうせ見ないけど、原作は読みたい。

例えば、女の子は平気でジャンプのコミックを買えるのに、男がりぼんのコミックを買うには大変な心理的葛藤を要する。こういう逆差別って結構ある。

一般的にセクハラは女性差別だが、「セクハラの認定」は男性差別である。同じ言動でも、それがセクハラと糾弾される男と、そうでない男がいる。そういう話。別に怒っているわけではないが。

研究日記

終日病院。

新しい培養室の立ち上げ話が進んでいる。各種機器の見積もりを任されるが、どれもこれも金額のデカいものばかり。クリーンベンチ、インキュベーター、液体窒素タンク、顕微鏡、遠心機……、このへんが 10〜100万円。その他、ガスバーナー、吸引ポンプ、冷蔵庫なども地味に値が張る。実際に実験ができるようにするには、さらに各種ピペッターや小物が必要になる。こういったものは現場に出てこない人の計算からは抜けがちになるのだが、積もり積もってそれなりの金額になる。

イスがいる、エアコンがいる、机がいる、恒温槽がいる、殺菌灯がいる。実際の実験を考えたこのようなリスト・アップには想像力が必要とされるが、それは実体験に基づくものでもある。ボスが賢明なのは、現場のことは現場の人に任せるという主義を明確に採っているところで、その点でストレスはない (放任主義という噂もあるが)。大変だけれど、勉強にもなる。

まァ、おエライさんの「鳴り物入り」よりは随分とマシである。アホみたいにデカいクリーンベンチだけを据え置いて、「さあ培養だ!(< 本人だけはウザいくらいにヤル気)」 という苦笑いな話は色んなラボで聞く。こういう愚かな場面は、今のところない。これって結構幸せなんじゃないか。

2006/08/08/Tue.

寝不足気味の T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。実験は可もなく不可もなく。

ラボの某メンバーについて、ボスとディープな話をする。その後、秘書女史を交えて晩飯。昨年末に連れて行ってもらったすき焼き屋へ。ここの肉を食うと、当分は他の肉を食べる気にならない。なんて、贅沢だよなあ。恭謹。

今回、初めて川床 (ゆか) で食事をした。川床というのは、鴨川に向かって突き出された屋外の座敷で、涼をとるための風情溢れる空間である。川からの風で思ったよりも涼しく、蚊もいない。ビールを飲みながら旨い肉をつついて良い気分だった。ボスからは、「大変だろうけど頑張ってくれ」と慰労される始末。俺もそんな台詞を言ってみたいよ。

2006/08/07/Mon.

免許の更新にいかねばならない T です。こんばんは。

読破とその達成感

「原稿用紙何枚」という数え方は日本独自のものであろうか。という疑問を覚えるが、まァどうでも良い。とにかく、本は長ければ長いほどよろしい。少なくとも、そういう一群が確かにある。このことは「終わらない物語」で触れた。もちろん、短ければ短いほど良いものもある。「探偵小説は短ければ短いほど良い」。これは江戸川乱歩の言葉である。実際、彼の「探偵小説」のほとんどは短編だ。

さて。長い本は、中身はともかく「読了した」というその事実だけでも達成感に浸れる。自己満足である。この満足は、その本が難解であるほど、高価であるほど、重たいほど、読みにくいほど大きくなる。筒井康隆も、『あこがれのハードカバー』という文章で似たようなことを書いていた。

このうち、最も内容と関係ないのは、「本そのものの読みにくさ」である。つまり、劣悪な活字、紙質、レイアウトによるものであり、これらはもう、全く外部的な要因としか言い様がない。一昔前の岩波文庫やハヤカワ文庫はまさしく最強、否、最凶である。仮に京極夏彦の長大な小説が 5分冊で岩波文庫から出ていれば、などと妄想すると頭がクラクラする。読んでみたい。

ハヤカワの古い翻訳物は玉石混交であるのだが、何となく「読んだ」気にさせられるのは、たとえ新書であっても古書めいた、あの独特の風貌によるのではないか。どうしようもないクソ本でも、何となく納得させられるのは俺だけか。何に納得しているのかわからないが。

文庫のシンボル・マーク

よくわからないものといえば、背表紙や扉にチョコンと飾られるマークも由来や意味が不明である。ハヤカワ・ミステリの「h」や、集英社文庫の「S」は、まだわかる。しかし、大抵はよくわからない。目に付くものをリスト・アップしてみよう。

とまあ、色々と奇っ怪なシンボルが多い。よく見ると不気味なものさえある。どういう由来があるのか、調査してまとめてみるのも面白いかもしれない。

研究日記

病院 → 大学。

細胞の大量培養も佳境。2週間かけて増やした細胞が予定の枚数に達したので、培養法を変えて分化誘導をかける。約10日後に、分化した細胞のみを分取して移植するわけだ。気の長い話である。と思うのは、俺が線虫をやっていたからだろうか。

2006/08/05/Sat.

汗だくでの細胞培養はヤバいと思う T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。細胞の培養、組織の免疫染色など。

休日は建物のエアコンが切られているので、物凄く暑い (冬は大変に寒い。このおかげで何度体調を悪くしたことか)。もちろん培養室や低温室などは別電源の空調が入っているのだけれど、普段よく使う実験室がとんでもない暑さになっている。大丈夫なのか、試薬。心配なので、冷やさずとも良いものまで冷蔵庫に放りこんでいる。そういう意味では、冬の寒さの方がまだマシかもしれない。

SDS の溶液ってのは大抵 10% の濃度でストックされていると思うのだが、これは少し気温が下がっただけですぐに析出する。ところが別のラボでは 20% という高濃度でストックしてあって、昨冬はとんでもないことになっていた。もはや析出というレベルではなく、瓶の中身全体がガチガチに固まっている。

ストックというものは高濃度で作れば作るほど、作り替える手間が減るわけだが、賞味期限と使用頻度の兼ね合いもあって、研究室ごとに微妙にレシピが異なる。今のラボでは Western 関係のバッファーは 10 x であるが、学生の頃は確か 5 x だった。ちなみに「5 x PBS」と書いて「5 かけ PBS」と読む (これもラボによって違うかもしれない)。日常生活で「5 かけ〜」などと言い出したら立派な職業病である。

例えば 5 x PBS を 1 x PBS にするには、5 x PBS: 水を 1: 4 の割合で混ぜるのだが、こんなことは常識以前の話である。ところがたまに、料理や通信販売の番組において、5倍濃縮の原液 1 に対して水 5 で割っている場合がある。それは 6倍希釈だ。薄く割ったものを「美味しいですね〜」とかってアホか。6倍希釈というプロトコル自体は正しくて、5倍濃縮という表記が誤りという可能性もあるが、どちらにせよ笑える。

2006/08/04/Fri.

カラオケに行ってきた T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。細胞の大量培養は佳境を迎えている。あんまり状態が良くないのが不安であるが……。やっぱり胃が痛い。

夜は、先月いっぱいで退職された先輩研究員女史と臨床検査技師嬢の送別会。幹事の研究員嬢がセレクトしてくれた韓国料理風の店で飲む。技師嬢とつながりの深かった別のラボの方々がサプライズ出席。そこのアルバイト君に抱きつくなど、2時間ほど御乱心。2次会はカラオケ。

帰りは研究員女史とタクシーを乗り合わせる。俺が今の研究室に入った頃、病院には女史と技師嬢しかいなかったんだよなあ。彼女達が辞め、立ち上げ前のラボを記憶しているのはもはや俺しかおらぬ。先輩の退職によって、病院では俺が最年長になってしまうという事実がますます不安を煽る。2人とも、いわゆる御栄転だから喜ばしいことではあるのだが。

2006/08/01/Tue.

日記の更新が滞っていた T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学 → 病院。

朝早くから病院で認証式。今月から、退職された研究員女史の肩書きを拝命する。本当に書類上だけのことで、仕事や給料は変わらず。就職してから 1年余り、これで頂いた辞令が 3枚になった。せわしないことである。

大学に行って、初代培養細胞にウイルス感染。Primary culture は実験毎に細胞のクオリティが微妙に異なり、ウイルスもまた、その都度作製するものなので、なかなか難しい。実験系は安定していて、結果の傾向もしっかり出ているのだが、グラフにするとエラーバーが大きくなる。最も簡単な解決策は n を増やすことなんだが、この実験は 1週間に 1度しかできなかったりする。細胞の供給は大学のテクニシャン嬢に頼っており、無理も言えない。まァ、ボチボチ。というか、俺は焦っていないのだけど、ボスが急かしてくる。

病院に戻って、凍結組織の免疫染色。学生時分に線虫を whole mount で蛍光染色していたときから、免疫染色は好きな実験である。(抗原や抗体にもよるが) 難易度がやや高めで時間がかかる実験だけれど、その分、上手く染まったときは最高だ。その点では Western も同じだが、最後に得られるヴィジュアルが黒いバンドだけなので、やはり組織や細胞の染色の方が楽しい。

先週から、細胞を大量に培養している。今月中旬に、某大型動物に移植するための細胞である。操作は単純だが、数が膨大なので時間がかかる。コンタミなどしたら被害は甚大だし、培養スケジュールの遅れは、移植実験をして下さる共同研究の先生にも迷惑がかかる。実験動物にも細胞にも多額の費用がかかっており、時間も人出もかかる。毎日胃が痛い。予備実験だったとはいえ、前回は想定していた細胞数が集まらなかったという苦い経験もある。

大型動物で移植実験をするということは、既に細胞レベルあるいはマウスなどの小型動物で何らかの報告がなされていることを意味する (だから金をかけて大型動物で行うという計画が申請され、許可される)。したがって、そこに新しい知見は期待されておらず、むしろ「予想通り」の結果を出すことが使命となる。そのために大量の細胞を培養するなんてことは、理学部的にいえば「頭の悪い」「つまらない」「力押しの」「金と人さえあれば誰にでもできる」実験、ということになる。確かにそう思う。

translational research
臨床利用を目指す探索的な基礎研究 (WebLSD)

無論、俺は給料を貰ってこの仕事をしているわけで、不満があるわけではない。また、このようなステップを踏まないと、実際の治療には応用できない。応用されない基礎研究は、図書館の肥しでしかない。そう思ったからこそ、俺は進学せずに就職したわけでもある。結局、translational research という、まさに希望していた仕事をさせてもらえるようになったのだが、この領域は本当に難しくて面白い。Translational research については、またいずれ書こうと思う。