T です。こんばんは。
掃除と洗濯をして、午後から仕事。菊花賞のときほどではないが、今日も電車は競馬新聞を読む人で埋まっている。その中で、黙々とカエサルについての本を読む俺。彼は暗殺された瞬間、何を思ったのだろうか。憤怒。驚愕。落胆。悲哀。まさか安堵ではあるまい。
昨日の日記の続き。
文章の本質は情報伝達である。したがって、正確に情報の意味が伝わる文章こそ良い文章である、といえる。情報といっても千差万別だ。一般的な知識から、俺の個人的な感想まで、文に書かれてあること全てが情報であるといっても間違いではない。そこで重要なのが、情報の種類をできるだけ明確にすることである。
あくまで俺の日記における(原則的な)例だが、個人的な感想などは口語で書く。個人的な経験では「俺」という一人称を使う。私的な体験でも、それが客観的な事実であれば、別に「俺」を使わずとも良い。伝達の恣意性を廃すため、普通は常態文を使う。逆に、感謝などの個人的な感情を伝達するためには「です・ます」を使う。
改めて列挙してみると変な感じがするが、これらは「テクニック」というほど大袈裟なものではなく、ごく自然にそうなる、といった態のものである。意図的に破ることもある。マニュアル化が進めば進むほど、それを破ったときの効果は(良きにつけ悪しきにつけ)大きくなる。そこに新たな何かが生まれる可能性もある。そのような話は「誤用と正規表現」で書いた。
文章技術なんて、しょせんその程度のものであると俺は考えている。意識的に勉強と訓練をすれば、いずれ手に入る。でも、それだけじゃないところが奥深いんだな。
さて、「文章の本質は情報伝達である」ことは疑いようもない事実だが、それは機能的な側面に過ぎなかったりもする。文章には娯楽的な面もある。内容がなくとも、そのテキストを読むこと自体が愉悦である、という楽しみ方もある。前者が歌詞重視の歌曲、後者がメロディやリズム重視の楽曲と比喩するのは、誤謬が大き過ぎるだろうか。歌曲でもメロディが大切であるし、楽曲でも歌詞が素晴らしいに越したことはない。それは文でも同じである。
いかに情報の伝達精度が高くとも、それが六法全書のような書き振りでは誰も読まなくなるだろう。つまり、文章の欠くべからざる要素として、「文体」というものを考えなければならない。しかしこの話を書くと長くなりそうなので、また今度。
一つだけ忘れない内に書いておく。機能性と娯楽性は、少なくとも文章において背反ではない。その点が、一般的な道具や機械とは異なる。かといって、両者が常に正の相関関係にあるわけではない。どちらもダメダメ、という相関を示す例文ならいくらでもあるが。カエサルの文章が傑作と称えられるゆえんは、両方を最高レベルで兼ね備えているからであろう。余人あたわざる芸当である。
携帯端末用「shuraba.com Mobile」から BBS の閲覧・書き込みをできるようにした。
チェックと勉強を兼ね、ここを含めたいくつかのサイトを自分の携帯電話で利用してみたのだが、これは結構ハマる要素があるな、と今更ながらに思った。単に物珍しかっただけなのかもしれないが。携帯電話の利用法では、いまだにオッサン・レベルの俺である。
俺は携帯電話のメールが好きではないのだが、それには 2つの理由があって、
要するに「入力」がウザいからなのである。一方で、web の閲覧は受動的な行為であって、端末画面の小ささを我慢すれば(我慢できるような構成であれば)、これはこれで結構楽しめる。いやはや、食わず嫌いであったようだ。