- 刊行宣言に見る文庫小史

2005/11/21/Mon.刊行宣言に見る文庫小史

人が見ないものは大抵面白いものだと思っている T です。こんばんは。

文庫の最後の方に、経営者もしくは発刊者による「刊行に際して」といった類いの文章が掲載されている。俺はこれらの宣言が好きであり、ときどき興味深く読んでいる。各社とも堅牢たる文章をもって、自社文庫の意義を高らかに謳い上げている。幾つかの文庫から、それぞれキモになりそうな部分を抜粋して比較してみよう。

文庫小史

まずは最も古い岩波文庫から。

読書子に寄す -岩波文庫発刊に際して- 岩波茂雄

真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。(昭和二年七月)

まことに格調高い。ときに昭和 2年。このようなアカい主張を堂々とするあたり、さすが岩波である。彼らの志は、戦争を通じてどうなったのであろう。戦後まもなく刊行された角川文庫には、こうある。

角川文庫発刊に際して 角川源義

第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。(中略)角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき豊富と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。(一九四九年五月三日)

何ということだ、「単なるあだ花」だったのか。日本人は深い反省を抱きつつ、戦後の歩みを始める。高度経済成長を遂げた日本の「若い文化力」は、果たして成熟に向かったのだろうか。

講談社文庫刊行の辞 野間省一

二十一世紀の到来を目睫に望みながら、われわれはいま、人類史上かつて例を見ない巨大な転換期をむかえようとしている。(中略)激動の転換期はまた断絶の時代である。われわれは戦後二十五年間の出版文化のありかたへの深い反省をこめて、この断絶の時代にあえて人間的な持続を求めようとする。いたずらに浮薄な商業主義のあだ花を追い求めることなく、長期にわたって良書に生命をあたえようとつとめるところにしか、今後の出版文化の真の繁栄はあり得ないと信じるからである。(一九七一年七月)

またしても「あだ花」! 深い反省に立った日本人は、「人間的な持続」によって「出版文化の真の繁栄」を目指す旅に出た。そして二〇〇〇年、岩波からその名も「岩波現代文庫」が発刊される。

岩波現代文庫の発足に際して

新しい世紀が目前に迫っている。しかし二〇世紀は、戦争、貧困、差別と抑圧、民族間の憎悪等に対して本質的な解決策を見いだすことができなかったばかりか、文明の名による自然破壊は人類の存続を脅かすまでに拡大した。一方、第二次大戦後より半世紀余の間、ひたすら追い求めてきた物質的豊かさが必ずしも真の幸福に直結せず、むしろ社会のありかたを歪め、人間精神の荒廃をもたらすという逆接を、われわれは人類史上はじめて痛切に体験した。(中略)いまや、次々に生起する大小の悲喜劇に対してわれわれは傍観者であることは許されない。一人ひとりが生活と思想を再構築すべき時である。(二〇〇〇年一月)

連綿と続いた日本人の歩みは、「社会のありかたを歪め」「人間精神の荒廃をもたらす」という結果に終わった。さあ、我々はまたしても深い反省に立ち、自らの生活と思想を再構築だ!

……疲れるっちうねん。