クソポエムは斬新な表現の宝庫と、ごくたまに重宝している T です。こんばんは。
どうも詩歌が苦手である。まどろっこしい。言いたいことをハッキリ言えんのかと思ったりする。もっとも、これは俺の感受性に問題があるのであって、詩歌の良さがわかる人を羨ましいとも思う。
言語を「情報伝達の手段」として考えたとき、詩歌による伝達の精度は、受け手によって大きく左右されるという特徴を持つ。伝わる人には 200% で通じるが、わからない人には一向わからない。まともな日本語であれば誰にでも 80% くらいは通じるであろう散文とは、ここが決定的に違う。
したがって、俺は詩歌を作ることもない。作るとしたら、何故かいつもパロディになってしまう。同じようなことを筒井康隆も書いていた。何となく理由はわかる。詩歌によって伝えたいものがないため、題材が常に他者になってしまうからだろう。
クリスマス 我泣き濡れて まらを慰む
上記は、通勤途中に作った川柳。アホである。こんなものならいくらでも作れるが、何の自慢にもならない。大学生の頃は、サークルの部誌に冷やかしやパロディを書き連ねていた。あいだみつをなんかは、もう何回ネタにしたことか。パロディとは、斜めから物事に接する態度のことである。したがって、対象が真っすぐであればあるほど、角度が鋭くなる。鋭利過ぎて、ここでは公表しかねるが。
もう少し詩歌について考えてみる。大衆から圧倒的に支持される詩人、というのはあり得るのだろうか。小説家ならばあり得るし、実例もある。今はその流れが映画となっていて、例えばハリウッドの娯楽超大作であれば、まァ誰が見ても面白いものだし、そのように計算して作られてもいる。それが詩歌で可能か?
この問題を考えるには、まず「詩」を定義しなければならないが、ちょっと手に余る。またいずれ、機会を改めて論じてみよう。問題提起だけしておく。