- 文化と式、あるいは行動原理

2005/11/03/Thu.文化と式、あるいは行動原理

これから今月のゴルゴ13 を読むつもりの T です。こんばんは。

文化の日

午後からラボへ。今日は休日だが週末ではないので、掃除洗濯などの諸々の家業もせず、昼前まで眠る。幸せ、などと感じる自分が少し可愛そうではある。

今日、11月 3日は文化の日であり、戦前は明治節と呼ばれていた。明治大帝の生誕日である。文化の日は明治節と関係なく定められた、とものの本には書いてあるが、それは嘘である。文化の日がハッピー・マンデーになっていないことがその証拠だ。文化の日には文化勲章その他の叙勲があるけれど、もちろん勲章は天皇陛下によって授与される。本当に明治節と関係がないのなら、勲章ではなく賞状にでもして政府が与えれば良い。

俺は叙勲自体に反対しているわけではない。この国最高の名誉の一つとして、これからも続けていってもらいたい。ただ、やるならやるで筋を通さねばならない。誰に遠慮しているのか知らないが、変な気遣いは叙勲される人々、勲章、そして天皇陛下に失礼であろう。授与するからには最大限の価値を付加しないと。いらない人は辞退すれば良いんだから。日本のセレモニーは、こういうところが下手である。自然、権威も発生しない。

式というのは、それに参加する人々が一定の枠組みに入ることを確認するためのものである。したがって、主催者は毅然としていなければならない。逆をいえば、参加者のことを考える必要はない。参加したいのならば従え、従いたくなければ参加せずとも良い。これだけなのである。これがわかっていないから、成人式が無茶苦茶になる。式は、開催しても開放してはならない。多くの式は、選抜が終わった後に開かれるものであることを思い起こすべきだろう。成人式をするのなら、その前に成人選抜試験でもやればどうか。

「文明」がグローバルなものであるのに対し、「文化」はローカルなものである。文化を共有するためには共同体の一員にならねばなるまい。その通過儀礼が式である。大した話ではない。例えば神社という文化を本当に感得したいなら、まずは手水で手を清めろというだけのことだ。こんな些細なことで、目に見えるものが違ってくる。無論、手を洗わなくても神社は拝観できるが、そういう問題じゃないんだな。わからない人には一生わからないかもしれないが。

行動原理

暖房の電源を入れるたびにパソコンが再起動する。一時的に過負荷になるからだろうか。それほど大量の電気を使っているわけではないけれど、住まいとしている建物が古いので、あるいはそのせいかもしれない。

このアパートは築何年だったか、とにかく俺が生まれる以前から建っている。内装は今風に整えられているが、外観はそれなりに古色を帯びている。故に家賃が安いのだと不動産屋は言っていた。中がいくら綺麗でも、外見が劣っていると、特に女性からは敬遠されるという。そんなものかと思いながら、俺は契約書にサインをしたのだった。

似たような話がパソコンでもある。価格以外で男が重視するのは性能、女性が検討するのはデザインだという。数字で定量化できるかどうかを考えたとき、性能は文明であり、デザインは文化である。言葉の遊びだが、ある傾向を表してはいると思う。一般的に敷衍するつもりはないけれど。

「車を運転している間、自分は車体を見ることができない。だから車のボディは何色でも良い」という台詞が、確か森博嗣の小説にあった。住まいに関してはその考えに賛同する俺だが、果たして車も同じように選ぶかと問うてみれば、はなはだ疑問である。あらゆる選択の基準は、ほとんどの場合ゆるやかなグラデーションを描く。そんなことを思うとき、「行動原理」という言葉のリアリティを疑わずにはいられない。極めて仮想的なものであるからこそ、原理を持つ人間の行動は共感を呼び起こすのだろうな。