生きるだけで精一杯の T です。こんばんは。
教師であるとか警察官であるとか、あるいは僧侶や神父といった宗教者、それから医者もそうだな。これらの職業に就いた人は、職場や勤務時間を離れた時と所でも、その職業の人であることを求められる。休日に出会っても学生にとって先生は「先生」であるし、医療器具の全くない状況で病人が出ても医者は「医者」であらねばならない。また、周囲の人間がそうであることを求める。冒頭で述べた職種は職業であって、同時に生き方でもある。
つまり、死ぬまでその職業の人なのだ。元労働者の犯罪はいっぱいあるが、元警察官に限ってわざわざ「元警察官」と書かれる。教師の葬式では教え子が弔辞で「先生」と呼びかける。十字架を背負ったようなもんだ、というのは言い過ぎか。
研究者というのは、ややそちら方面の職業であるように思われる。「研究者らしく」という外部からの要求があまり強くないのは、単に世間的な認知が低いからであって、内輪や自己意識というレベルでの職業に対する自覚という点では、かなりの線を行っているのではないか(良くも悪くも)。実際、多くの人が「生き方」という観点からこの職業を選んでいるとように感じる。
以上は、決して美談でも何でもない。職業が即生き方であるということは、常に仕事が私生活を簒奪する、少なくとも簒奪しがちであり周囲もそれが当たり前だと思っている、ということでもある。仲間意識が強い反面、生き方の変更は「変節」「挫折」ととらえられがちになる。そもそも変更すること自体が難しくなっている場合もあろう。ま、大袈裟にいえば、だけれど。
逆にいえば、「生き方を選ぶ」とはそのようなことを意味するのかもしれない。