ここ数年、正月の帰省が隔年になっている T です。こんばんは。
去年は帰省していなかったので、今年は帰省する。3日の夜には戻ってくる予定。
とにかく何にせよ、最初に考えて実行した人間はスゴい。物事には必ず「初めて」がある。原初に思いを巡らすことは、柔軟な思考を養う。何故ならば、それは常識の懐疑であるからだ。今では常識となっていることでも、最初にはそれが「なかった」わけで、すなわち常識以前の世界との境界を見ることになる。その境に立った人の心理に思いを馳せるとき、鮮やかに人物が浮かび上がる。
よく、「ナマコを最初に食べた人はスゴイ」といわれる。確かにスゴいかもしれないが、その人の心理という点では、あまり面白みがない。「腹が減っていたんだろう」という感想くらいしか湧かない。
それよりも、例えば「指輪の内側に自分の名前を彫り込んで恋人に贈る」という心理を考える方が、はるかに興味深い。今では誰でも気軽に行い、世間からもロマンティックな行為として認知されているけれども、これを「最初に実行した人間」の心理を深く考えると、ちょっと背筋が寒くなってくる。自分の名前が常に恋人の肌に密着している、その愉悦を思いながら指輪の内側に文字を刻み込む男(女性かもしれないが、やはり男であったろう、という確信的な何かがこの妄想にはある)。怖いよなあ。もはや江戸川乱歩の世界だ。
江戸川乱歩といえば、彼もスゴい。乱歩の小説というのは、もう本当に、どうしようもないくらいにどうしようもない。「天井裏を這っていって隣室を覗く男」(『屋根裏の散歩者』)であるとか、「椅子の中にもぐりこんで愛する夫人に座ってもらう男」(『人間椅子』)とか。よくこんなバカげたワン・アイデアを小説にしたな、と呆れるくらいである。こんなアホのような思い付きは、人々のバカ話の中で数限りなく出てきたであろう。しかし乱歩は、それを実際に小説として書いてしまった。そういう意味では、やはり乱歩も「最初のスゴい人」なのである。
バカげた発想をバカげた発想として切り捨てず、時間を置いてから再点検することの意義は、「着想の獲得」に書いた。この姿勢は筒井康隆に学んだ部分が大きい。筒井も、あらすじを書いただけでは非常にバカバカしいとしか思えない小説を多く発表している。
さて、今年の更新もこれで終わる。皆様、良いお年を。来年もよろしくお願い致します。
『グインサーガ』のあとがきだけは欠かさず立ち読みしている T です。こんばんは。
年末回顧の最後は私事編である。この 1年は「時間」についてよく考えた。忙しくて時間がないとか、そんな下らない話ではない。以下、抽象的な話から始める。
「量的」とは「粒子的」という意味ではないか。粒子の最大の特徴はその均一性、すなわち交換可能性にある。したがって、粒子は集合として捉えることができる。これが量だ。量の多寡とは、集合の大きさのことである。ゆえに、量は単位で表現できる。これが定量である。そもそも、ここでいう「単位」と「粒子」は、ほとんど同じものを指している。「粒子的」をさらに言い換えるならば、「還元的」となろう。科学の歩んできた道でもある。
時間というものは、どうもこの枠外にあるらしい。もっともらしい単位は存在するが、連続的かつ不可逆的であるから、交換可能とはいい難い。しかし「誰も捕らえることができない」という点において、平等性を持つ。だからこそ、志ある人は時間に対して厳しい。
「平等」は、称うべき真理的概念と思われがちだが、一方で、自分が丸裸にされる大変に厳しいものでもある。言い訳ができない。これと同じ厳格さが、時間にもある。平等や時間というものに自覚がなければ、全く理解できないやもしれんが。
来年は、より時間を大切にしたい。もう人生の 1/3 が終わっているからなあ。とか考えたら怖くなってきた。
「毒薬」という言葉がある。毒なのか薬なのか、どっちなんだ。と思うのは早計であって、「ヤク」と「クスリ」は違う。ヤクは反応性のある物質一般のことをいい、例えば「試薬」なんかもそうである。毒もクスリもヤクに含まれるわけだ。
「毒性」というのは、いざ説明しようとすると難しい概念であるが、「反応性」という観点から見れば、割合すっきりする。酸素や一酸化炭素の毒性の高さは、これらの分子の反応性の高さが原因となっている。したがって、金のように安定している物質は毒になり得ない。反応性がないということは、クスリにもならないということでもある。金箔入りの酒や食事なんかがあるが、あれは純粋に視覚的な効果しかない。無味無臭だしね。
生体反応に介在するという点では、毒もクスリも本質的な違いはない。副作用はその典型例だ。さて、ヤクに身体が反応するということは、また一方で、細胞というものの反応性もまた高いことを意味する。金にいくら酸素をかけても酸化しない。双方に反応性があって初めて、毒性や薬効は成立する。
反応性がある、熱エネルギーが高い位置にある、不安定である。何と言い換えても良いが、どうして細胞はそのような状態にあるのだろう。DNA が比較的安定した物質だからか。2重鎖をベリベリと剥がすためだけに我々はこのような熱っぽい身体を持っているとしたら、ちょっと哀しいものがある。毒にも薬にもならない考えだが。
マスターから年末年始の挨拶状が来ていたので、これからバーに出向くつもりの T です。こんばんは。
今年最後の実験も終えたので、年末回顧・仕事編を。その前に、少しだけ。
一昨日に書いた研究員の件だが、あの話は最初、先輩の方に回ってきたらしい。ところが来年、先輩は旦那様の留学に伴って渡米することが決まっている。ゆえに辞退されて、俺の方にお鉢が回ってきたのだ。問題なのは、彼女の退職をボスが知らなかったことである(先生や俺、テクニシャンの方々は知っていた。別に隠していたわけではないのだが)。
来年といえば、先生も留学されることが決まっている。一部で誤解があったようなので解説しておくと、日記に登場する「ボス」と「先生」は別人である。先生はポスドクで、例えば年齢は Dr. A と同じである。「先生」と呼んでいるのは、彼が医師だからという理由による。その他にも、大学院生の先生が 1人、卒業される。中堅層がゴソッと抜けるわけだ。
そんな状況において、昨夜はボスから、「アナタにはますます頑張ってもらわないと」とハッパをかけられる始末。頑張るのは頑張るけれど、今以上に「ますます」と言われても、それほど余地はないんだけどなあ、というのが俺の正直なところである。言えないけどさ。そんなこんなで、来年からの修羅場の歯車は、もう既に回り始めている。
さて、今年である。初出勤が 6月。爾来、ラボの立ち上げから結果が出始めるまで、およそ半年。本当にアッという間であった。「この 1年」という形でまとめ上げるには、まだまだ自分の中での整理が追い付いていない。2005年という年は、数年経ってから、「そういえばあの年」というふうに思い出されるような 1年なのだろう。それほどの巨大な転換点を迎えることができた。とりあえず今は、その事実を素直に喜ぶことで良しとする。
回顧できるようになるには、己の成長が必要である。すなわち、これは宿題でもある。来年以降の課題としたい。
帰宅してから、我が豪邸の大掃除。来年はベッドでも買うか、なんてことを考えながら部屋を清める。単純に部屋数が増えたこと、引っ越す際に様々なモノを処分したこと、現在ではほとんどモノの増える生活をしていないこと、などなどの理由で、たまに片付けると部屋がスカスカになってしまい、特に今の季節は寒々しく目に映る。書斎の方はだいぶ充実してきたので、次は生活空間だな。床に置きっ放しのテレビと、敷きっ放しの布団をどうにかしたい。
「快適な生活なんてクソ喰らえ」と、学生の頃は思っていた。当時は親の脛を齧っていたわけで、この考え方は間違っていないと今でも思っている。が、仕事を始めてから少し発想が変わった。条件が許す限り、快適な生活を求めるべきではないか。これは安穏への逃避ではなく、むしろ明日の仕事への、つまり自分への「投資」である、というわけだ。
この発想、ちょっと見方を変えると結婚願望に転化しそうだな。俺は割と 1人で何でも楽しむことができる性分だから、今のところそっちの方面に心が動くことはなさそうだけれど、同年代の連中が「結婚したい」と言っている気分は何となくわかる。家事をしてくれる「嫁さん」ならいつでも欲しいけれど、それと「結婚」ってのは、また微妙に違うんだよなあ。
京都牛なるものを初めて食した T です。こんばんは。
山を登るたびに気になることがある。
麓A と山頂B があり、麓A に「山頂まで x km」という標識が立っていたとする。この x はいったいどこからどこまでの距離なのか。仮に、麓A の標高を 0、山頂B の標高を 3、AB の距離を 5 とする。山頂B から地球の中心に降ろした線が地表と交わる点、つまり山頂B と緯度経度が同じで標高が 0 の地点を C とすると、AC の距離は 4 となる。
我々が実際に歩く道は AB であるから、x = 5 のはずである。が、一方で、標識作成者はわざわざ歩いて距離を測ったのか、という素朴な疑問もある。距離の勘定には、地図なり航空写真なりを使うのが普通のような気もする。その場合、x = AC = 4 となり、標識が後者の方法で作られているのならば、我々は常に、思っているよりも長い距離を歩くことになる。
この関係を一般化してみる。AB = AC/cosA であるから、距離 x が地図から算出されていた場合 (x = AC の場合)、実際に歩く距離 AB は x/cosA (cosA ≤ 1) となる。おい、これって大いなる欺瞞じゃないか。そう思って計算してみたのだが、勾配 10度の山道でも、AB = 1.015 × AC でしかなかった。1% しか違わないのか。誤差やん。気にしていた俺がアホだった。
俺は明日も半日ほど実験があるのだけれど、一応、職場は今日で仕事納めということになっている。ボスに連れられて、テクニシャン嬢と共にすき焼きを頂く。どこかで聞いた店の名前だなあ、と考えていたら、ときどき司馬遼太郎が随筆に書いていた店だった。少しリッチ(死語)な気分。
そのすき焼き屋は独自の牧場を持っているらしい。そこでは、とにかく牛に旨い餌を与え、運動させずに育てているという。「メタボリック・シンドロームだな」というボスの言葉に笑った。
ゴミを出し忘れた T です。こんばんは。
年内にワン・チャンス。
そろそろ 1年の回顧を始めようかと思う。まずはこのサイトから。
最近、細切れの時間をなるだけ読書に費やすためか、知らず、対談集・短編集・随筆集・評論集の類ばかりを読んでいる。冊数を稼げるのは良いが、今度は「Book Review」の更新が追い付かない。無理をして書く必要はないのだが、紹介したい本は多いし、何より自分のために書いておきたい。近頃は本当に本の内容を覚えられなくて、本を閉じた瞬間から主人公の名前を思い出せなくなったりする。書物の中身を反芻し、自分の言葉で書き留めておくという作業は、できるだけ行いたい。そのためには、より一層の効率化が求められる。
10ヶ月ほど前から「なんちゃって blog」と銘打ち、自前のプログラムでもって、サイトの更新を少しずつ自動化してきた。最初は日記から始め、最近では「Photo Album」というものも作った。これらの恩恵は絶大で、たとえば「Photo Album」の全ページを自分で作製することを思うとゾッとする……、とかいう以前に、やろうという気も起こらないだろう。本来なら発生しないコンテンツが、プログラムのおかげで閾値に達し、実際に現れたわけである。
というものの、これらの進歩は非連続的にゴテゴテと付け加えていった結果でしかない。近頃では、より統一的なフォーマットと、さらにモジュール化されたプログラム群の必要を感じている。議論がそこまでいくと、「既存のサービスを利用すれば?」という問いが頭に浮かぶ。しかし俺の答えは「No」だ。
プログラムを組むことの目的が「効率化」のみにあるならば、最上の選択は「他人のプログラムを拝借する」ことである。だが、俺がこの一連の試みの中で獲得しようとしているものは他にもあって、例えば非常に手垢の付いた言葉だけど、「情報処理技術」もその一つである。実はこの「技術」の極意(と俺が勝手に思っていること)は「技術」以前にあり、それは「情報の一次記録のされ方」である。とかまぁ、上記はあくまで例なんだけど、そんなことに気付くんだな。
このような意識の変化は日常にも及び、例えば仕事でも、これから膨大に増えること確実な書類群を、どのような形式で記述し、いかなる方法で整理し、いかにして目的の部分をできるだけ素早く抽出するか、そんなことに応用が効くように、少なくとも応用を考えて情報を処理しようとする癖が身に付いたように思う。
と同時に、フォーマットを整えることによって自分の思考が無意識に制限されてしまうのではないかという被害妄想的な懸念も俺は強く持っている。このことは「言説を自動化する仕組み (2)」で書いた。形式を極限まで限定すれば、サイト更新の負担はまだまだ軽減できるだろうが、それでつまらなくなってしまっては何の意味もない。
来年も試行錯誤を繰り返しつつ、より面白い「修羅場、どっと混む」になれば、と考えている。
今度ボスが応募しようとしている研究費には、研究員 1人分の給料が付いてくるらしい。「アナタになってほしいんだけど」とか言われる。申請が通るかどうかわからないので、何とも応えようがない。
「これが申請書」と書類を渡される。A4用紙 10枚以上あるんだけど、コレ。オエッという俺の顔を見たボスは、「給料上がるからさ」と悪魔の囁き。再度、俺の表情が一瞬だけ変化したのを捕まえて、「じゃ、年内に」と話を打ち切る。おい、待て。
このオッサンにはいつも騙されている気がする。……書くか、書類。
今年最後のセミナーを終えてきた T です。こんばんは。
この連休はよく遊んだ。22日は慌ただしく仕事をやっつけて、何とか夜の新幹線に乗れた。実はこの日、京都一帯は吹雪となっていたのだが、案の定、大阪-名古屋間で新幹線が遅れている。新大阪のホームが電車で溢れているので京都を出発できないとか、この日は全国的に寒かったようだ。
24日の夜には、Dr. B、M女史、ヒゲマン氏、O君、K.N.嬢、K君、S君らと呑む。S君とは初対面。その後、カフェでまったり。この間、話題はずっと Milli-Q。あれだけネタにしておいてなんだが、ウチのラボでは Milli-Q を使ってないんだよな。ゴメン。
年末年始の予定がだいたい決まったので書いておく。29日までは仕事。30日に我が豪邸の大掃除などをして、31日から帰省。正月 3日には京都に戻ってきて、4日から仕事。書いてしまいたいことも幾つかあるので、年内は毎日更新したいと思っている。
雪が降っていたので傘を差したが、あまり役に立たなかった T です。こんばんは。
今日も雪。これまでの人生で過ごしてきた瀬戸内地方では、雪を見ない年も珍しくない。連日雪が降る、というのは驚異である。
ボスとディスカッション。「立ち上げるのは大変だから」とかいって、これまでは実験についてロクに尋ねてこなかったのだけれど、結果が出始めたと知るや、怒濤のように進捗状況を聞いてくる。そんなに毎日 result は出ないから。ボスは盛り上がってきているのだが、あいにくと年末を控えて、こちらは各種実験の店仕舞いを始めている。ま、年が明けてからだな。
セミナー後、今日は直帰する。寒いと皆、飲みに行こうという雰囲気にならないので健全なことだ。
定期を買ってから、年が明けてから買った方が得だったのではと気付いた T です。こんばんは。
仕事に行こうと外に出たら、結構な雪が積もっていた。焦る。そんな必要はないのだが。
寒いのが苦手な俺だが、それは気合いが入るまでに時間がかかるからであって、寒いこと自体はそこまで嫌いじゃない。高校生のときは、寒風の中を水着のようなユニフォームで走りまくる長距離陸上野郎でもあった。気合いが入った後の寒さは、むしろ心地よい。
年末年始を迎えるにあたり、細胞を徐々に凍結保存していく。線虫も凍結保存できるんだよね、なんてことを先生と話す。年末年始くらいなら、放置していても線虫は生き延びてくれるから、細胞よりはよほど楽ではある。ただ、復活率という点では、細胞の方が確実によろしい(大腸菌の competent cell なんかもそうだ)。ま、線虫は細胞の集まり、つまり個体であるから当たり前なんだけど。
個々の細胞が生きていることと、それらの細胞でできている個体が生きていること、この間には大きな距離がある。例えば、臨床的に死亡が確認された瞬間の死体。このとき、(ヘンな表現だが)細胞的に死んでいる細胞というのは、ほとんどないのではないか。でも個体としてはやっぱり死んでいる。しかしそこにも落とし穴があって、では死とは何なのかは、まだ明示的に定義されていない。存在するのはいくつかの指標だけであり、それらを満たせばとりあえず「死んだ」とみなされる。
Aging(老化)の細胞生物学的研究は盛んに行われているが、細胞死と個体死の関係に似て、細胞の老化と個体の老化が直接に結びつく証拠は特にない(関係がないとまでは言わないが)。そもそも「老化」という現象も非常に抽象的かつ主観的な表現であって、結局は代謝がどこそこのレベルまで落ちただとか、そういう基準でしか判断できない。サイエンスだからそのようにするのは当然なんだけど、単純な減少曲線の途中にラインを引いて、「ここから向こうは老化」といわれても、ちと違うんでないかい、という気もする。
そんな疑問を語っていたら遅くなってしまった。帰る頃には、また雪が降っていた。
「バイオハザード 4」を買ってきた T です。こんばんは。
今週は土曜が休み。ようやく「ゲームでもやろうかな」という余裕が出てきた。これまでは忙しいとかいう以前に、「ゲームをしたい」とすら思わなかったから、良いことだと勝手に解釈する。
さて、「バイオハザード 4」だが、かなりの良作である。まだ途中だけど。難易度を easy にしたら 1日でクリアできるかと思ったけどダメだった。久し振りにゲームをすると、目がショボショボする。衰えたなあ。でも頑張って 15時間くらいやったら、さすがに疲れた。寝る!
酒代になるかな、という程度のボーナスが出ていた T です。こんばんは。
ボーナスがあるとは聞いていなかったので、少し驚いた。
先生、俺、臨床検査技師嬢、テクニシャン嬢、それに春から採用される新人テクニシャン嬢を加えて、歓迎会のような忘年会のような飲み会。職場近くのカフェ・レストランみたいなところで、思いもかけずにピアノとベースの生ジャズを聞けたり(毎日やっているわけではないらしい)と、楽しい時間であった。
給料が出る。これまでずっとゴタゴタとしていて、当初約束されていた額に満たない状態が続いていたのだが、ようやくそれも改善された。額の多寡ではなく、出るといったものが出ていなかったのが問題で、それなりに貰っている(払っている)のにしこりがあるという微妙な状況だったのだ。ボスの名誉のために断っておくと、彼は常に満額を払う意志があり、金もあったのだが、それが書類的事務的手続きに阻まれていたのである。ともかく、年内にケリがついて良かった。
今年は本当に色々なことがあって、例えば 1年前、俺はまだ仕事も決まっておらず、ちょうど修士論文を書いていたのだった。……と思って昨年の日記を開いたら、しっかりと「ドラゴンクエスト VIII」をプレイしていた。ま、実際の日常なんてそんなもんだよなあ。自分の苦労を大袈裟に語るのは老人になってからで良い。厳に戒め、前を見て歩くことにする。
Wikipedia 愛好家の T です。こんばんは。
小栗虫太郎によれば、「辞書は読むもの」らしい。辞書の楽しみ方については、最近、赤瀬川原平『新解さんの謎』、夏石鈴子『新解さんの読み方』および『新解さんリターンズ』、アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』などを読んだり、俺の感想を述べたりしている。俺自身、資料集などを目的なく開くことはよくある。大抵は暇潰しだが、そういうときに得た知識の方が何故か頭によく残る(こともある)、という現象については「閑話論」に書いた。
さて、俺がネット上でブラブラとする場所は Wikipedia である。辞典ばかりではなく、様々な写真や絵画などもアップされていて、読み所、見所は多い。俺のようなユーザは相当いるらしく、Wikipedia には「おまかせ表示」という機能がある。ランダムに用語解説を表示してくれるので、暇潰しをするためにわざわざ検索する必要がない。辞書をパラパラとめくる感覚に似ている。
今日の傑作頁は「枕投げ」。一種のパロディだが、それは Wikipedia が成熟している証でもある。
生活のリズムは整っている T です。こんばんは。
しかし、規則正しいのと、規則が正しいのとは、少し違う。
今月の電気代が 1万円を越えていた T です。こんばんは。
1人暮らしで、しかも夜中から朝にかけてしか家にいないのに……。暖房が原因である。寒がりだから、遠慮会釈なくつけまくっている。京都は寒く、また、俺の家は底冷えのする造りであるから、同じ設定温度を保つためにも余分な電力を消費している可能性はある。けれども、金を払ってでも快適な環境は維持すべきである。寒いからといって家で縮こまっていては、動物と変わらないではないか。1日 24時間。なるべく多くの時間、自分の肉体・精神を良好に保たなければもったいない。
とかいって、今日は実験でしょうもないミスが続いた。こういう日はある。ヤル気がどうとか、体調がどうとか、そういうこととは無関係に襲ってくることがあって、これはもうしょうがない。諦める。投げているわけではなくて、それが最も被害を少なく抑える方法なのだ、と勝手に思っている。心静かに雑用を片付ければ、溜まっていた下らない仕事が随分と減った。こんな 1日もアリだよな。
カレンダーのプログラムを作っている T です。こんばんは。
単純なカレンダーなら容易に作ることができる。というか、もうできている。カレンダーを作る上で最初の障壁は閏月であるが、簡単な公式から、X年の 2月が閏月であるかどうかがわかる。
次に問題となるのが、 X年 Y月 Z日の曜日である。これには、特定の日の曜日がわかるツェラー の公式 (Zeller's fomula) というものがある。
ちなみに、ツェラーの公式の有効範囲は 1583年から 3999年まで。歴史か、よほど未来の SF でも書かない限り、不自由はしない。
さて、ここまでは簡単にできた。しかしそれだけでは芸がないので、やはり祝祭日も特定したい。ここで頭を悩ますのがハッピー・マンデーである。ハッピー・マンデー以前なら、祝祭日は固定だったので難しくはない。祝祭日のリストと対応させれば事は済む。
祝祭日を直近の月曜日に移動させること自体は、それほど難儀ではない。が、祝祭日ごとに、ハッピー・マンデーが適用される年が違ったりするのでややこしい。例えば、成人の日は 2000年から、海の日は 2003年からである。そもそも、海の日が実施されたのは 1996年からであって、全てを計算だけで済ませるのはおよそ不可能である。
全てが自動的に行われなければ、もはやプログラムの意味がない。祝祭日の表示は諦めようかという気分になりつつある。
最近は休日が来るたびにプログラムをいじっている気がするが、それはさておき。
「Search」で全文検索ができるようにしてみた。「Diary」「Book Review」「NCBl Diary」の全文から目的の文字列を拾ってこれる。スクリプト自体は、思ったよりもあっさりと組めた。それよりも検索速度の方が心配だったのだが、多数のファイルにも関わらず、意外にサクサクと動く。試しに「.」で検索してみたが、8,222件の結果が 1秒以内に出てきた(正確には内部処理が 1秒以内で、表示されるまでの時間は接続速度に依存する)。
and/or 検索の実現など、まだまだやりたいことはあるけれど、自分が日記を書く分には充分な機能が達成されたんじゃなかろうか。
試みに「Search」という機能を付けてみた。文字通りの検索機能だが、今はまだ日記のタイトルしか、それも 1単語でしか検索ができない。とはいえ、それで充分という気もする。豊富な検索オプションや、複雑なプログラムによる全文検索が必要であれば、Google でも使えば良い。
それよりも、「Sat.」と入力すれば土曜日の日記だけがズラズラと出てくる、といった実にくだらない現象の方が、サイトの運営者にとっては重要だったりする。「2003」と打てば、一昨年は 197回も日記を書いたんだなあ、ということもわかる。こういうことが楽しい。ほとんど俺にしか恩恵がないが、便利ではある。
過去を積んでいるだけではただの蓄積である。参照しないと生きてこない。その枠組みを、少しずつ用意していきたい。もう少し充実させるつもりでいる。
病院の売店が閉店間際に半額で叩き売る弁当が貴重な栄養源となっている T です。こんばんは。
培養室のエアコンのフィルターを掃除していたら、「私がやります」などとテクニシャン嬢に恐縮される。「こういうのは気付いた人がやる仕事だから」と爽やかに応えたが、もちろんウソである。実験がダルかったので、気分転換をしていたのだ。(少なくともその瞬間の俺にとって)大事な仕事を奪われるわけにはいかない。
彼女から色んな噂話を聞く。あるラボでは、雑用はもっぱらテクニシャンの仕事であるらしい。その是非は論じない。給料を貰っている以上、仕事は仕事であって、問題があったとしても、それは当人たちが解決すべきものである。ケッサクなのは、そのラボの研究員から、「T君のところのテクニシャンはよく働くねえ」と言われたことで、これには失笑した。
(あくまで立場上の話だが)下の人間を働かせるのは非常に簡単なことであって、要するに上の者がより以上に働けば良いのである。自然と下の者も働く。テクニシャン諸氏よりも質量ともに働かねば、クビにされても文句はいえないと思って俺は働いているし、やはり先生は俺の及ばぬ仕事のされ方をしている。それでも働かないような奴だったら、そのときは解雇にでも何でもすれば良い。
昨日に引き続き、double-luciferase assay。某遺伝子の推定機能部位に変異を入れるたところ、転写活性が減少していた。勤め出してから初めての結果らしい結果であり、まことに喜ばしい。エチブロを買うところから始めて、よくぞここまで来た。いやホント。
それにしても、luciferase 単独の発光って、サンプルごとにかなりブレるな。もちろんそのための "double"-luciferase なんだけど、そうなると、それ以前の "single"-luciferase assay の結果は信用できるのだろうか? 恐ろしい話である。
恥ずかしい話だが、しばらく前から妙に涙もろくなっていて、さすがに泣くことはないけれど、鼻にツンと来ることならしばしばある。あからさまに感動を狙ったものであるとか、あるいは日本的な「イイ話」には反応しない(というか、以前からバカにしている)のだが、いわゆる「熱血」に涙を誘われるんだな。
深夜のコンビニに寄っての立ち読みは、今や俺にとって貴重な娯楽となっているが、あろうことかこんなところで涙腺がゆるみそうになり、俺は病気じゃなかろうかと不安になったりする。傍から見れば、ただのアホである。どうもポイントは「仕事帰りの立ち読み」にあるらしく、購入して家で読んでもさっぱり感興がない。また不思議なことに、文字では無理なのだ。なぜか漫画でないと涙もろくなれない。なる必要はないんだけど。
絶対にどこかおかしい。明日はゆっくり寝て、晩飯には鍋でも作ろうかと思う。
「ゴルフに行くか」とボスに誘われた T です。こんばんは。
行かないから。
マウスの皮下注射に初めて挑戦する。腹腔の方が容易だが、何でも腹腔にブチ込めば良いわけでもない。効くか効かないかだけではなく、「薬効」というものを考えねばならないのが医学系の実験であり、俺の思考パターンにないものでもある。ボチボチと動物実験も扱わせてもらえるようになり、勉強になる。
Double-luciferase assay の立ち上げ。上手くいってホッとする。サンプルのタンパク質と発光基質を混ぜて光量を測定するだけ、とはいえ、最初の最初の実験ってのは、追及不明な理由で失敗することも多い。すんなりと立ち上がる系が増えてきのは、実験環境の基礎体力が充実してきた証なんだろう。この半年間、様々な系を立ち上げながら実験を進めてきたが、それも大体終わった。大変だったが、貴重な経験だったと思えるようになった今日この頃である。
セミナー後、飲み会。さすがに 3日連続で午前様はキツい。土曜日から働いているので、体力的にはもう週末なんだよな。逆にいうと、明日さえ乗り切れば金曜は休みなのだが。やっぱりまだリズムに慣れていない。無休の 100倍はマシだけど。
少し愚痴っぽいな。ゆっくり休んで、年末まで突っ走ることにしたい。
衣と脂と肉が 1: 1: 1 の割合のとんかつを食った T です。こんばんは。
昨日からめっきり寒くなった。昨夜に降り始めた雨は、深夜には雪に変わったようで、朝の路面にはうっすらと雪が積もっていた。
複数のベクターを作ることになり、ATGC と睨み合いをしている内に日が暮れる。慌てて実験をすると、日付が変わりそうになる。寝不足気味。ひどく寒い。本当に年が越せるのだろうか。
鍋を食った T です。こんばんは。
ラボの忘年会。ちょっと早い気もするが、もうそんな季節なんだなあ。忘年どころか、今年は一生忘れることができない年の 1つだろうけれど、総括はまた年末にでも行いたい。
今月のゴルゴ13 を楽しんだ T です。こんばんは。
先生と「年内にやらなければならないことリスト」を作る。
先生「どう、できそう?」
俺 「無理だと思います」
先生「俺もそう思う」
腰は低く、理想は高く。我々は相田みつをを応援します。できなくたっていいじゃない、人間だもの。
電車で通勤するようになって半年。最近になり、ようやく出勤にも飽きてきた。俺はこれまでの人生で、公共交通機関を用いた通勤・通学を経験したことがない。だから何となくカッコイイと思っていたのだ、電車通勤を。毎日毎日、満員だろうが何だろうが、同じ列車に揺られて職場に行くその姿はストイックであるし、そうまでして仕事を全うしなければならないという責任感を思わせるのだな。俺が勝手に感じていただけだが。
通勤歴 40年、のべ通勤時間は数万時間を数えるという人が聞いたら、さぞ笑われることだろう。まあ、小学生が骨折に憧れるようなものである。不自由を強いられるということは、子供にとって、ある意味では大人の証なのだ。
1ヶ月もすれば現実に洗われて、いい加減に飽きてきそうなものだが、俺は数ヶ月もの間、退屈することなく通勤電車を堪能していたわけだ。俺、電車で通勤しているよ、スゲーとか。アホである。研究者とはヤクザな職業であるから、こういう堅気っぽいのが嬉しいんだな。俺、今日は学会だからピシッとスーツ着てるぜ、とか。ホントにアホだな。みんな毎日着てるっちゅうねん。
で、そういうことにも段々飽きてきて、最近は車内で本を読んでいるのだが、たった 3週間ほどそうしただけで、今度は駅の名前を全く忘れてしまった。あんなに盛り上がっていたのに、もう駅名すら言えない。頭がオカシイのではないかと思った貴様! 貴方は正しい。
たこ焼きが好きな T です。こんばんは。
間食の習慣がない俺だが、たこ焼きだけは、売っているのを見付けると反射的に買ってしまう。今日も買ってしまった。
たこ焼きは可哀想である。以下、類似食品であるお好み焼きと比較する。
お好み焼きは「お好み焼き」と名付けられた瞬間に無限の可能性を手に入れた。豚だろうが牛だろうがイカだろうが何だろうが、とにかくお好み焼きのベースにからめて鉄板で焼けば「お好み焼き」として成立する。お好み焼き屋のメニューの豊富さが、その事実を物語っている。
たこ焼きは「たこ焼き」と名付けられた瞬間に多くの可能性を失った。お好み焼きの味から推測するに、たこ焼きにイカを入れても旨いと思うが、しかしそれは既に「たこ焼き」ではない。「たこ焼き」というラベルを貼ったことによって、我々はたこ焼きにタコしか入れられなくなってしまった。差別化や進歩を図ったところで、しょせんはトッピングなどの表層的な部分しか触れない。
もし仮に、たこ焼きが誕生したときに「お好みボール」とでも名付けておけば、もっと多様なたこ焼き、否、お好みボールを楽しむことができただろう。残念でならない。今からでも遅くはないから、誰か「お好みボール」を流行させてみないか?
それにしても、何でタコだったんだろうな。
「休みがほしい」と言っていた割には、休日になると何をしようかと迷ってしまう T です。こんばんは。
休日にしたいことがない、というのは、色んなことの前駆症状のような気がする。今のところ、俺を粗大ゴミ扱いにする同居人もいないから良いものの。
休日。平日に休みをもらうようになってから 3週間目。まだリズムの取り方が上手くつかめていない。ダラダラしている内に 1日が終わってしまった。ま、それでこその休みという気もするんだけど。
グループとしての実験効率は、有意に上がったんじゃないかと思う。誰か(この場合は俺)が納得ずくで土日祝日も全力投球できるようになると、結局、グループとして 1週間がフルに使えることになる。曜日を気にせずに実験できるのはデカい。1回の解析に 2〜3日かかるような実験では効果覿面で、2週間で 1〜2回、n を上積みすることができる。グループで実験をしているのだから、全員が同じ日に休んだり働いたりするのは、考えてみればバカバカしいことだ。
もっとも、どんなグループの仕事にも適用できるわけではないだろうし、効率的になるからといって、誰もがこのような生活サイクルを肯んじるか、という問題もある。家族を持っている人なんかは難しいかもしれない。俺のような独身男ならば使いやすいだろうけれど。そういう意味では、「休日の予定なんてねえよ」というのも、一つの財産であるように思える。負け惜しみっぽいが。
「Photo Album」に写真を追加した。
ついでにプログラムの方もイジる。ページのナビゲーションに加え、簡単な検索モードを作ってみた。写真が何百枚というオーダーになってくれば、威力を発揮してくるのではないかと思う。
また、最新の写真をサイドバーの下に表示するようにした。我がサイトは鬼のように文字が並んで殺伐としているから、まァこういうのも良いだろう。
自分の街に警察があってほしいのと同じ意味で、自分が生きる国に軍隊がいてほしいと思う T です。こんばんは。
そもそも「軍事力」という言葉がイカンのだ。断っておくが、何も言葉狩りや言い換えによる逃避を図っているわけではない。「軍事」という言葉が意味する範囲はあまりにも広い。もう少し明確な意味付けを与えるべきである。国防軍や防衛軍で良いじゃないか。「自衛隊」という言葉を文字通り解釈するならば、隊員が自らを守るという意味合いしかなく、国家や国民を守護するというニュアンスがない。さっさと憲法 9条を改正し、即刻国防軍を作るべきだ。
軍隊というと、すぐに戦前を思い出し、「いつか軍が暴走するのではないか」という人がいる。その認識はおかしい。そんなことはあり得ない、というつもりはない。可能性としては、ある。しかしそこを乗り越えないと、日本は次のステップに踏み出せない。今日の本題はそこである。政治の話ではなく、歴史の話。
「軍が暴走する」という事態は、つまり「シビリアン・コントロールの崩壊」である。少なくとも、近代国家ではそういう意味になる。ところが、いまだかつて日本にシビリアン・コントロールが存在したことはない。存在しないものはコントロールできないし、崩壊もしない。
シビリアン・コントロールの邦訳は「文民統制」である。したがって、シビリアン・コントロールの実現には、「文治政権」と「正規軍」が必須となる。ウソだと思うかもしれないが、これまで日本には、両者が併存した期間はない。
鎌倉幕府に至るまで、日本の中央政府には正規軍が存在しなかった。あるのは私兵ばかりである。鎌倉幕府以降は、政府公認の正規軍が常に存在したが、彼らを統治するのは武家政権、つまり軍事政権であり、トップは文官(シビリアン)でない。明治に至り、軍の統帥権を握る天皇が、行政・司法・立法の枠外に君臨した。戦後、日本で初めて文治政権が誕生したが、自衛隊は憲法違反の存在である。
シビリアン・コントロールを云々する以前に、これまで日本は、まだ 1回もその制度を樹立したことがないのである。これがどういう意味だかわかっているのか。ビビっている場合ではない。失敗の確率は常にある。だが、ここはどうしても乗り越えておかなければならないんじゃないのか。歴史ある国として。
日本は最も早い時期から政教分離を実現した希有な国である。シビリアン・コントロールにも自信を持って踏み出せば良い。出でよ、国防軍!
Opera を褒めたと思ったら、今度は Firefox が version 1.5 に。目立った変化はないけれど、セキュリティとスピードが改善されたらしい。オープンソースの何がスゴいって、律義に Mac 版も作ってくれるところだよな。差別もないし。
マウスの某遺伝子の配列を調べる必要があった。……イントロン、長っ! この遺伝子はかなりおかしいのか、あるいは実験的にエクソンが決まっておらず、プログラムのアルゴリズムが間違えているのかと思った(注:線虫のイントロンが短いだけ)。ひたすらイントロンが続くゲノムを眺め、線虫の良さをまた一つ思い知るのであった。