T の姉です。こんばんは。
という書き出しで、あたかも姉が書いたような日記をアップしたら面白いだろうかと考えたが、断念することにした。俺に姉がいないと知っている人は楽しめるかもしれないが、そうでなければ全くの意味不明である。本当に姉がいると思われても困る。
「〜な T です。こんばんは」という書き出しにも飽きてきて、どうしようかと思案中である。そんなわけで、今日はマンネリズムについて考えてみた。
マンネリズムには 2種類ある。ただのマンネリズムと、偉大なマンネリズムである。「サザエさん」などは、後者の典型的な例だろう。この場合、読者がマンネリズムに求めているのは「安心」である。極端に言うと、面白いかどうかすら関係がない。「つまらない」ことこそが安心となり得るケースもある。
マンネリズムの現れ方にも2種類がある。結果としてのマンネリズムと、意図したマンネリズムである。「サザエさん」も、初期では月日とともに作中人物達も歳を取っていた。少なくとも、連載当初はマンネリズムを目指してはいなかったのである。「サザエさん」の成功を受けた後発には、最初から意図したマンネリズムを発揮している作品が多い。「ちびまる子ちゃん」なんかが良い例だと思う。
俺が日記の一番最初に「〜な T です。こんばんは」と毎回書いているのは、意識的なことである。かといって「偉大なマンネリズム」を目指しているわけではない。では「ただのマンネリズム」と堕すことになっても良いのか、と問われると返答に困る。何となくイヤな気がするのだ。
俺が書き出しを固定しているのは、それが楽だからである。あらかじめ決まっているフォーマットを埋める方が、白紙状態から始めるよりは容易なのだ。形式が決まっているからこそ、それを破る楽しみというのも出てくる。俳句というものがなければ、「咳をしても一人」なんてのはただの独り言だ。
こういう悩みと葛藤しつつ、それでも繰り返し続けていると、いつしかそれは「偉大なマンネリズム」として昇華するのではないか、という楽観的な期待もある。ことマンネリズムに限れば、「継続だけが力」なのだ。こんなサイトに力をつけてどうするのか、という疑問はさておき。