- 観念を捨てよ、町へ出よう

2004/07/14/Wed.観念を捨てよ、町へ出よう

引きこもりつつある T です。こんばんは。

「事故る」という言い方は機能的ではない。「事故」に対する動詞は、「事故を起こす」(加害側)と「事故に遭う」(被害側)の2種類の視点が存在する。しかし「X氏が事故った」という文章では、X氏が事故を「起こした」のか、事故に「遭った」のかがわからない。

意味合いが保全されるのならば、略すのも良いだろう。しかし「事故る」のように、略した結果、問い直す必要が出てくるのであれば、そもそも略す意味がない。合理性に欠ける。

就職活動日記

昨日の日記で「どうしようか」と書いた面接結果の催促メールだが、思い切って出してやった。いくら文面を練ったところで、しょせん催促は催促、もらって嬉しいものになるわけではない。「3週間の内には返事をする」と言明したのは先方だ。丁重に礼は尽くしつつ、しっかりとこちらの事情も書いて送ってやった。すっきりしたが、あるいはここらへんが俺の就職活動における限界なのかもしれない。

それとは別に、他の仕事も探してみる。これは自分でも逃避だとわかっているのだが、膨大な就職情報を見ていると、何かしら「やった」という気持ちになれる。何も前進してはいないんだが。

観念を捨てよ、町へ出よう

「♪職業選択の自由/アハハ〜ン」。懐かしい響きだなあ。

選択肢が多いことは、絶対的な「善」である。しかし「善」が「幸福」に結びつくかは、また別問題だ。選択肢は未来の可能性であると同時に、後悔の候補にもなり得る。全ては俺の責任において決断されることなのだが、それでも、あまりの情報の多さに「助けてくれ」と叫びたくもなる。

とまあ、このように観念へと逃げ込むのは俺の悪い癖だ。こんなことをしていても、内定が貰えるわけではない。実効性こそ尊ぶべきだ(という書き方が観念的なのだ)。