ほろ酔い気分の T です。こんばんは。
今日で 6月も終わり。2004年も半分が過ぎた。早いなあ。
今朝も吉野家に行ってきた。昨日の日記にも書いた「牛カレー丼」だが、テーブルの上をよく見てみると、定番の紅生姜とは別に、福神漬も用意されている。カレー、本気やんけ。だからなあ、そこまでするくらいなら、素直に牛丼を復活させろというのだ。
そもそも、カレーというメニューが微妙。専門のチェーン店もあるし、牛丼のような頻度で食べるものでもない。290円という価格も半端。往時の牛丼よりも 10円だけ高いというのは、何か意図があってのことか? それに、290円あったら、安売りレトルトが 3食分も食えるわけだが。誰がわざわざ
牛カレー丼ウマー。
免疫染色したサンプルを検鏡。筋繊維は何時間見ても飽きないのだが、暗闇の中で蛍光染色像を見るのには限度がある。精神的にキツいとかではなく、純粋に肉体的な限界が来る。眼ェ痛い。
最近は毎日 3食で健康な T です。こんばんは。
ビールを飲んで寝ると、大体 4〜5時間で目覚めてしまう。暑いので二度寝もできない。そんなこんなで、ここ数日は早寝早起き。夕方に眠気が襲ってくるが、概して体調は良い。
昨日から引き続き、免疫染色を行う。操作のたびにサンプルが減少していくのが悩みの種。被害を最小限に留める努力はしているが、抜本的な解決策はないものか。ステップ数が多いため、結果的に多くのサンプルを失っている。限りある貴重なサンプルだから、惜しいのだ。
学会組がいないため、実験室は広くて快適。過疎のラボだと、いつもこんな感じなんだろうな。少し羨ましかったり。まあ、それも善し悪しだと思うが。
吉野家で朝飯を食べていると、「牛カレー丼、新登場!」という店内 POP が目に入った。
アホか。カレーに入れる牛肉があるんやったら牛丼にせえやボケが。などと思いながら食っていたら、隣の奴が「納豆定食」とか頼みやがるんですよ貴方。おいおい臭ェなあ。あァあァ、クチャクチャクチャクチャかきまぜるんじゃねえよ。臭いったらない。口元をネバネバさせながら茶を飲むな!
分煙するくらいなら、納豆を食う奴も隔離しろよ。どうして煙草はダメで、納豆は許されるんだ?
店「いらっしゃいませ。3名様ですか?」
客「はい」
店「納豆はお食べになられますか?」
客「はい」
店「ご案内します。こちらにどうぞ」
ということにはならんのかね。それが無理だったら、さっさと牛丼を復活させろ。誰も納豆定食なんて食わなくなる。牛カレー丼(290円)なんて、喜ぶ奴はいないぞ。
ようやく 2週間ぶりに洗濯をした T です。こんばんは。
昨日の天気予報は曇りだったのだが、朝から雨。昼から止んだので洗濯したのだが、干した直後に再び降るってどうよ。馬鹿らしくなって、そのまま干し続ける俺も俺だが。ようやく今日の夕方に乾いたが、雨のせいか、服が若干酸っぱい。洗濯し直すのも悔しいのだが、どうしよう。
また台風が来るそうだ。雨が降るのは大いに結構。日本は豊かな水資源と水文化を持つ国だ。国土の大半を占める山で濾過された雨水は、清流となって湧き出でる。こんな感じ。
先月 5日の日記にも書いたように、我が豪邸の裏山の裾は、コンクリートで固められている。が、大丈夫なのかコレ。堤防の決壊も蟻の一穴から、と言う。台風が来るのは構わんが、土砂崩れは困るぞ。
とある掲示板に、民法の条文が書き込まれていた。
妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。(日本国民法 第772条)
「推定」かよ! まあ、性善説で法律は作れんわな。
歴史でもよくある話だが、要するに、ずっと「母は確かめられても父は確かめられない」という時代が続いていたわけだ。それが単なる疑心暗鬼であっても、確定できない以上、疑う者にとっては大きな問題だ。それがお家騒動の原因になったりもする。斉藤道三・義龍親子しかり、豊臣秀頼にもそんな噂があった。
男にとって、妻の子が自分の子ではないかもしれないという疑惑は、これ以上ない苦痛だろう(経験ないけど)。そう考えると、DNA 鑑定って、歴史的に一石を投じる技術だよなあ。
昨夜は映画『トゥームレイダー』を観た T です。こんばんは。
『トゥームレイダー』の中に、時間を操るトライアングルというものが登場する。それを手に入れた者は神に等しい力を得る。ま、よくある設定だわな。
ところで、俺は物理に関しては全くの素人で、それゆえに、時空間に関わる研究というのは高尚なものだろうと思い込んでいる。数学ができないというコンプレックスもあるので尚更だ。
最近のニュースで、「物質のテレポーテーションが実現した」というものがあった。
NIST の実験では、トラップと呼ばれる、金の電子とレーザー光で満たされた閉領域に 3つの原子を入れる。レーザー光は原子を活性化させ、スピンと呼ばれる量子特性を変更するのに用いられる。第1と第2の原子を、「もつれ」と呼ばれる特有の形で絡み合わせる。そしてこの関係を、第1と第3の原子のもつれにコピーする。すると第1と第3の原子のもつれは、第1と第2の原子のもつれと測定上全く同一になるので、第3の原子は第2の原子の性質を帯びる、という仕組みだ。
ということらしい。よく読んでみると、物質そのものが移動したわけではない。強いて言えば、「瞬間移動」ではなく「瞬間複製」に近い。出来上がりは同じでも、材料が違うわけだ。発想としては DNA の複製に近いか。まずは鋳型が必要なのだ。
まさに目からウロコだが、瞬間移動より瞬間複製の方がよほど簡単なことに気付く。瞬間複製ができれば、それは「見かけの瞬間移動」になり得る。それが物質の特性を移すだけでできるというわけだ。
人間の身体を構成する原子は、およそ 8年間で全て入れ替わるという。つまり、「同じモノ」であるために「全く同一の原子」で構成される必要はない。炭素原子は、地球のだろうが太陽のだろうが炭素原子だ。重要なのは種類と、その組み合わせ方である。そういう情報をコピーできれば、複製は難しくない。
原理的に言えば、俺の身体を構成する全原子の座標を測定して、同種の原子を相同の座標に寄せ集めれば、もう一人の「俺」ができる。これを瞬間的にすれば「瞬間複製」となる。さらに、オリジナルの俺を消滅させると「瞬間移動」になる。
あれ、これってどこかで見たような話だな。そう思って本棚をひっくり返したら、何と鈴木光司の『ループ』で出てきているではないか。『ループ』での瞬間複製はコンピュータ上の話なんだが、アイデアは同じである。情報さえ複製できれば、実際にモノを組み立てなくても良いので、再構成の際の技術的な障壁はグンと低くなる。引用したニュースでも、この現象は量子コンピュータの開発に有用と書いてたし。
時間を操るであるとか、空間を支配するであるとか、そういった力は「秘宝」でも登場させないと話にならなかった。だからトレジャー・ハンターが、洞窟や密林などを冒険するゲームが作られてきた。しかし、サイエンスがここまで来ると、そのような力は「秘宝」が納められている洞窟にではなく、研究所の中にあると言った方が、リアリティがありはしないか。ということで、新しい企画を立ててみる。
数千年前から対立していた光と闇の勢力。彼等は時を操る力を手に入れるべく、長い抗争の歴史を歩んできた。いつしか、光の勢力は闇の勢力に壊滅寸前まで追い込まれていた。世界中の情報を操る闇の勢力は「時の力」の入手まで、あと一歩に迫っていた。そんなとき、光の勢力に救世主が誕生する。それがキミだ。闇の勢力に「時の力」を渡してはならない。一刻も早く XX大学に潜入し、時の力を手に入れろ! セキュリティ・システムを潜り抜け、警備員を倒し、パスワードを駆使してコンピュータにアクセスするのだ! 新感覚アドベンチャー『トレジャー・ハンター LABORATORY』。数千年の歴史にピリオドを打て!!
ま、ロマンはないわな。
散髪をしたらエラいことになった T です。こんばんは。
昨夜は我が豪邸でヒゲマン氏、K君と飲む。ちなみにK君と飲むのは初めて。途中、MON氏からヒゲマン氏に電話があったりと、楽しい一夜だった。またやりましょう。
ヒゲマン氏、K君とダベっていたら、いつしか「ワトソンとクリックはどちらが若いか」という話になった。ヒゲマン氏が「ワトソンの方が若い」と主張し、俺と K君は「クリックでしょう」と反論。双方、一歩も譲らないので色々と調べたところ、ワトソンの方が若いことが判明。負けた。恥ずかしい。
おかしいなあ。どこで覚え間違いをしたのかなあ。ワトソンの『二重らせん』もちゃんと読んだのだが。K君と二人がかりでヒゲマン氏に敗れたのが、非常に悔しい。こんなはずでは。
などと言いながら、今夜もヒゲマン氏と飲みながら K-1 なんかを観戦しているわけだが。ボブ・サップ、負けたな。悪い試合ではなかったが。それよりもジャパン GP の天田が良かった。嫁さんに双子の息子か。ああいうの、良いよねえ、などと話しながら二人で熱くなる。感動した。
来週から学会なのだが、自分は参加しないので蚊帳の外の T です。こんばんは。
朝、N.N.嬢とディスカッションしていたら、K先生に「うるさい!」と一喝される。あァそうですか、ということで帰宅。現在、我が豪邸でヒゲマン氏、K君とともに酒宴。
っていうか、これ、研究日記なのか。
両生類は生理的にダメだけど、昆虫は平気な T です。こんばんは。
昆虫に限らず、外骨格系は大丈夫なのだ。表面がぬめっている生物は嫌いだ。爬虫類まで来るとなんとかなるが、それでもヘビは苦手。足ないし。お前は本当に脊椎動物なのか。
昨夜はビールを飲みながら日記を書いた後、そのまま軽く寝てしまった。23時頃に目覚めて、1時間ほどツーリング。車の走らない山道を爆走してきた。港や産業道路のある海とは違い、やはり山は暗い。爆走と言っても、それほどスピードは出せない。気持ち良く流す程度。
今の季節、山は虫が多いのが難だ。しかも周りに灯火がないので、やたらとヘッドライトに突っ込んでくる。こちらだって結構なスピードで走っているから、ぶつかった虫はひとたまりもない。ペシャンコになって、車体やバイザーに張り付いている。掃除うぜえ。エンジンに激突した虫なんかは、圧死した上に熱で溶けてるし。何でこいつら、走光性なんて持ってるんだろ。夜行性の意味がない。
とは言え、昆虫の進化はメチャメチャ速い。人類が火を使うようになって数万年。その頃に比べれば、走光性を失った種の数は増えているんじゃなかろうか。なんて夢想する。
何せ昆虫は馬力が違う。種の数だって相当なものだ。進化が速いから、別種であっても遺伝的には近い。だから雑種(=新種)も生まれやすい。亜種まで含めれば、とんでもない数になる。人類が万物の霊長だなんて、おこがましいにもほどがある。昆虫様こそ、進化の極北を行く覇者なのだ。
その昆虫で、思考や学習があまり発達していない(少なくとも鳥類や哺乳類ほどではない)のは興味深いことだ。行動の規範の大部分を、遺伝的にプログラムされた走性に頼っているということは、つまり彼等は確率論的に生きているのだと言える。
「あっちが光っているけど行ってみようか、どうしようか」なんて考えない。「光があれば行く」。最初からそう決まっている。その方が生き残る確率が高いからだ。そうプログラムされた彼等が今まさに存在していること自体が、その事実を統計的に証明している。ま、楽な生き方だわな。
人間がそのような生き様を「楽だ」と思うということは、逆に言えば、「考える」という活動が生存に適していないことの証左にならないか。おいおい、エラいことになったな。俺も考えるのをやめるか。年寄りに「新人類め」などと毒づかれたら、進化したのだと喜ぼう!
「思っていたよりは優しい」という微妙な評価をよくされる T です。こんばんは。
それにしても暑い。バイクに乗ればさぞ気持ち良かろうと思うが、どうしてもビールの誘惑に勝てないのが困る。美味過ぎるよ、ビール。酒とバイクは両立できないのが悩みどころだ。
まだ面接結果のメールが来ないのだが、K先生に「返事がないのは良い報せの兆候」と言われて、何だか安心する。何の根拠もないんだが。たまには良いことを言うじゃないか。
無責任な発言は嫌いで、相手がどんなに厳しい状況でも「大丈夫だよ」などとは、なかなか気楽に言えない。本人が一番わかっていることだし。けれども、充分に空気を読んだ上で、そういった能天気な励ましができるというのは、一つのスキルなんじゃないかとも思う(今回の K先生の発言の真意が奈辺にあるかはわからないが)。それで救われる場合もあるってことだ。現実が変わるわけではないけれど。しかし、救われたことによって、現実を変える力が出てくるかもしれないのも事実。優しい人間になりたいものだ。
ラボで寝てしまった T です。こんばんは。
眠れなかったので、久々に朝 5時などという時間から活動。吉野家を含め、外食で 3食。
午前はノマルスキー、午後は偏光顕微鏡と、検鏡漬けの 1日。検鏡自体は好きな作業なんだが、さすがに食傷気味。しかも、どうあがいても偏光顕微鏡で筋肉が見えない。Dr. A もそうだったと聞いたので、俺の腕のせいではないと一安心。しかれど、原因は不明(そもそも、そんなに難しいものではない)。
今日は非常に暑かった。顕微鏡を覗いているだけで、汗がダラダラと流れてくる。周囲から見れば、さぞ気持ちの悪い人間だったに違いない。
Dr. T からラボにお中元が贈られてきた、ということで、早速お相伴に与る。自分では滅多に買わない、高級銘柄のビール。御馳走様でした。ありがとうございます。
警報で胸躍る T です。こんばんは。
起床すると、予想通り台風で大雨。天気情報を見ると、ちゃんと警報が出ている。とは言え、警報は「強風」と「波浪」で、肝心の「大雨」は注意報だったんだが。微妙。カーテンを開けて、物凄い速さで動く雲を眺めながらボーッとする。毎朝、我が豪邸の前を通って登校する小学生達が、いつまで経っても現れない。大義名分を得た気分になって、サボることに決定。二度寝する。
♪お前は怠け者で寝てばかり/金が欲しくないから働こうともしない(Deep Purple『Lazy』)
俺の大好きな Deep Purple の『Lazy』を聞いていたら、急に焦燥感が湧いてきた。学校の方ではない。もう修士論文はいつだって書ける。就職活動の方ですよ貴方。
今月 16日の日記にも書いたメールの件だが、まだ返事が来ないのである。しかも現在、そこ以外にエントリーしている企業がないのだ。普通に考えて、これは相当にヤバい。掛け持ちはあまり好きじゃない(さすがにスタートダッシュではしていたが)。だもんで、返事が来るまで新たなエントリーは思い止まっていたのだが、そんな悠長なことを言っている場合ではないと気付く。もっと早く気付けよ。
せき立てられるかのように、目星を付けていた企業にエントリー。さらに研究概要や履歴書を書きまくる。一通り作業が終わると、束の間の安堵が得られたが、別にそれで事態が好転するわけでもない。部屋でジッとしていると「ウオーッ!」と叫びたくなる。
いつの間にやら、雨は止んでいる。相変わらず凄い風だが、散歩ができないことはない。夕刻、人通りの少ない道を歩いていると、どうもセンチになるな。何してんだろ。
昨日の話だが、コンソメスープを作った。とりあえず水にコンソメを入れようとしたのだが、ビンに入った粉末のコンソメが、湿気で固まっている。スプーンで崩そうとしたが、あまりに固くて壊れない。
腹が立ったので、ビンごと鍋に放り込んでグラグラと沸かした。
コンソメが溶解した後、ビンだけ取り出して、野菜を入れる。これぞ男の料理。
自分は気が狂っているのではないかと思うことがよくある T です。こんばんは。
ネットをしながら「そういや、長らく立ち小便をしていないなあ」なんてことを思った。そこで、久し振りにしてみようと、近くの溝で実際に立ち小便をした。もちろんシラフ。狂気の沙汰である。
変なことが思い浮かぶってのは、誰にでもあることだと思う。しかし、それをそのまま(しかも立ち小便を)実行に移すのは気違いじみている。少なくとも、今年24歳の男がやるべき行為ではない。
立ち小便は軽犯罪である。俺は刑法に疎いので、真偽のほどは保証しかねるが、確かそんな話を聞いたことがある。実際に捕まった人はいないだろうが、捕まったらどうなるのか。
まず、犯罪の性質から考えて、恐らく現行犯でなければ捕まらない。とは言え、巡回中の警官に見つかる可能性もあるので安心できない。発見されたらどうなるのか。緊急性のある犯罪ではないので、まずは職務質問か。その後、任意同行を求められると考えられる。さすがに逮捕ってことはないだろう。
しかし、立ち小便で交番に拘留されるわけにもいかない。任意同行は拒否するべきだ。ここで警官が引き下がらなかったら、やはり裁判所に逮捕状を請求するのだろうか。「XX を立ち小便の容疑で逮捕したいので、逮捕令状の発行を請求する」とかいう文書を作製されても困る。
立ち小便ごときで任意同行を求められたよ、などと友人に話しているところへ、本当に刑事が逮捕状を持って押しかけてきたら驚くだろうな。ようやく、自分がしでかしたことの重大さに気付く。泡を食いながら警察署へ。取調室にて、過酷な尋問が始まる。
だが、ここで立ち小便を認めるわけにはいかない。そんなことで、逮捕>起訴>有罪、とされたら身の破滅だ。必至になって抵抗する。「やってません」。しかし刑事は頑として信じない。朝から晩まで、ひたすら立ち小便の夜のことを、繰り返し繰り返し尋ねられる。寝不足で頭は朦朧となり、最後には「解放されたい」という一心から、ついに犯罪を認めてしまう。
「……私がやりました」
自白が取られたので、書類が作成されて起訴される。今度は量刑を決めるための裁判だ。既に犯行を認める供述をしている。裁判官の心証を良くするためにも、ここは無実を主張せず、素直に刑に服すべきだ。なに、どうせ軽犯罪。罰金で済むはずだ。
裁「……以上の起訴事実に間違いありませんか」
俺「はい」
裁「犯行の動機は?」
俺「……」
まさか「最近、立ち小便をしていなかったので、久し振りにやってやろうと思った」なんて言えるわけがない。精神鑑定ものだ。それだけは何としても避けたい。酔っていた、とでも言うか。いや、職務質問をした警官が証言すれば嘘だとバレる。どうする、どうする……。
見かねた弁護人が助け船を出す。
弁「被告人には精神鑑定の必要があると思……」
俺「違う、違う違う違う! その必要はない!」
裁「(カン、カン!)静粛に。では被告人、犯行の動機を述べて下さい」
俺「……その、あの、犯行当時、しばらく、その、立ち小便を、その、していなかったので……」
裁「やってみようと思ったのですか?」
俺「……はい」
ダメじゃん。
日本を愛してやまない T です。こんばんは。
今朝、ラボに行く途中で紫陽花を見かけた。今度はカメラを持って行こうかと思うくらい見事だった。正直、20歳くらいまでは花なんかに興味はなかったのだが、ここ数年、なぜか目に留まることが多くなった気がする。年の功か。爺むさい話だ。良いことだとは思うけれど。
キリンの「氷結果汁」に、期間限定で新しく「パイナップル・クーラー」というのが出たので飲んでみる。旨いのだが、かなり甘い。パイナップルは好きなんだが、果汁にしたものはやや苦手だ。
チューハイといえば、ついにアサヒが「ドライ・クーラー」で殴り込みをかけてきた。とりあえず飲んでみる。あまり甘くなく、ラムということもあって刺激は強め。スーパードライのチューハイ版といった飲み口か。しかし、同じ飲み口だったらスーパードライを飲むと思うんだが。ビールが嫌いで、甘いのも苦手という人には良いかもしれない。ニッチな市場だな。鳴り物入りで登場したが、あまり売れない気がする。
一昨日の日記で「梅干は好きじゃない」と書いたが、俺自身、これを非常に残念なことだと思っている。梅干は日本三大珍味の一つなのだ。好きになれないのが悲しい。
ちなみに、日本三大珍味とは「梅干、蕨(わらび)、海月(くらげ)」である。世界三大珍味(フォアグラ、トリュフ、キャビア)と比べて、実に奥床しくて上品だと思う。並べて書いてみると、世界三大珍味なんて、ただのゲテモノにしか見えない。日本の文化程度の高さが如実に示されている。しかも、庶民でも容易に食せるのが素晴らしい。万葉集のお国柄だろうか。
梅干、蕨、海月。珍味とはいえ、どれも日本人にとって珍しいものではない。珍味の「珍」という字には「珍しい」以外の意味がある。
【珍】尊く珍しいこと。尊厳。高貴。(大辞林)
ありふれているものを珍味として誇る、あるいは、珍味がありふれたものであるという事実は、日本文化の性格を端的に物語っていると思う。万葉集しかり、西洋の紋章学が完敗した日本の家紋しかり、本朝の文化は、常に下層まで浸透する。偉大なことだ。
漢字の話に戻る。「珍」以外にも、昔ながらの意味が忘れかけられている文字がある。例えば「悪」。
【悪】畏敬の念を抱かせるほど荒々しく強い意。(大辞林)
中世の「悪党」が典型的な例だろう。また、源義朝(頼朝の父)の長男・義平の渾名は「悪源太」という。「悪い」という意味よりは、むしろ尊称に近い。
気取って使うつもりはないが、漢字の持つ多様な意味合いは、オプションとしてできるだけ知っておきたいと思う。せっかくこうして、日本語で文章を書いてるんだし。
部屋の整理をした T です。こんばんは。
ついに本棚がオーバーフロー。もうこれ以上、本棚を増やしたくないのだが。というか、俺の希望に関わらず、本棚を置くスペースがない。本を捨てたり売ったりするのは考えられないし、実家に強制送還するのも嫌だ。本は常に手元に置いておきたい。いつでも参照できるから価値がある。死蔵ともいうが。
1年に 1、2度発症する「学校行きたくない病」に罹患中。深夜徘徊を繰り返しているとはいえ、まだ引きこもりには至っていない。ここが踏ん張りどころか。
誰だって、学校や会社に「行きたくない」と思うことはあるはずだ。問題なのは、「行きたくないから行かない」という無茶が、大学生は(あくまで比較的だが)許されるということだ。
許されるなら、俺だって許してほしい。それが人情というものですよ貴方。そんなわけで、ついついサボりそうになる。困ったものだ。奮い立て、我が理性よ!
昨夜は、観察した線虫の蛍光染色写真の処理。写真といってもデジタルデータなので、Photoshop でサクサクと補正。簡単にレポートをまとめる。土曜日に発表しようと思うが、今の昼夜逆転の生活では、午前中に登校できるか不安。
で、今日は徹昼をしようと頑張ったのだが、12時頃にダウン。16時に目覚める。微妙。とりあえずラボに行って、レポートのコピーでもしようかと考え中。玄関から出ないと、マジで引きこもりそう。
イカナゴで飯を2合ほど。最近こんなのばっか。金はかからなくて良いが、せめて飯以外に 品は欲しいとも思ったり。さすがに単品だと飽きる。
今週は一滴もアルコールを呑まなかった。酒に関しては、なかったらなかったで平気なのだ。あればあったで呑むんだが。それにしても、酒を買うときは、どうして財布のヒモが異常にゆるくなるんだろう?
完全に昼夜が逆転してしまった T です。こんばんは。
最近、どうも日記が長くなりがちなので、気分転換もかねて、小見出しを入れることにした。
無目的な文章というものはあり得ない。この日記のように、最初から特化した目的が設定されていないテキストは、とかく自己言及に行き着きやすい。最も身近にある題材だからだ。近代、我が国に西洋文学が流入してきたとき、「さあ文学をやりましょう」となると、多くの小説が自己言及に至った。私小説である。「文学をやる」というのは、目的のようで目的でないから、それが自然な流れだったとは思う。褒められたものではないけれど。
自己言及が長くなる、というのは、あまり良い傾向ではない。案外、短い日記が続くようなときの方が、調子は良かったりする。
気合いを入れ直すために、久々に実験日記を再開。今朝方まで、ラボでダラダラと過ごしていたので、帰宅して目覚めると 19時! この日記をアップしたらラボに行きます。ダメダメや……。
今やっている実験では、とある処理をした線虫と、ネイティブなままの線虫の形態比較をしている。残念ながら、全体的な形態から細胞組織に至るまで、両者に違いが見られない。つまり、実験計画自体がスカだった可能性が濃厚。おまけにサンプルがクソだし。
実験結果がネガティブだった、というのはよくあることで、そんなものを恐れていたら研究なんかできない。頭を切り替えて、次の実験をすれば良い。こうして捨て去られたデータなんか、いっぱいある。
ただ、今のプロジェクトは共同研究であり、お金を頂いてやっている実験でもある。「アカンかったから、もうやめる」とは言えないのだ。ネガティブとはいえ、データはデータ。ちゃんとまとめて報告しなければならない。当然の義務なのだが、やはりダルい。モチベーション回復への道は遠い。
漬物だけで飯を 2合くらい食う。もう少し食べれそうだったが、虚しくなったのでやめた。
実のところ、漬物はあまり好きではない。食って食えないことはないのだが、柔らかいのか歯応えがあるのかはっきりしない、あの中途半端な食感がイマイチなのだ。好んで食べる漬物といえば、壬生菜、塩昆布、沢庵、福神漬くらいのものか。ポピュラーなものばかりである。が、梅干もダメ。しそが好きになれない。とは言え、青じそは大丈夫なんだが。勝手なものである。
モチベーションは低めで安定の T です。こんばんは。
全く日記には書かなくなったが、細々と自炊は続けている。で、今日の夕食なんだが、いくら安売りだったとはいえ、餃子 20個はキツ過ぎる。っていうか、一度に全部を焼いてしまう俺が悪いんだが。焼く前は食えそうな気がしたんだよ。
5月の半ばにプレゼンテーションに行ったことは書いた。そこからの返事が、先週中には届くはずだったのだが、いまだに来ない。まあ、ここは書類審査のときもノンビリしていたので、焦らずに待とうと思ってはいるのだが、宙ぶらりんの状況は辛いというのもまた人情。無意識では凄く気にしているらしく、またもや夢を見た。
ようやく待望のメールが届く。だが、その文面は驚くべきものだった。
T様
先日は研究発表をどうもありがとうございました。
審査に厳正を期すべく、T様の研究内容を精査いたしましたところ、
T様の結果として発表されたデータの中に、実に多くの他人のデータを発見いたしました。
当社はこれを、採用審査を有利にすべく発動された、高度に政治的な悪意と見なします。
当社は社会正義に鑑み、T様を採用いたしかねます。
当社はこの審査に関する、一切の問い合わせに応じかねます
ちょっと待て。
当たり前のことだが、今のサイエンスの世界で、一人でシコシコ研究している奴なんていない。そんなものは 19世紀以前の話。現在、恐らく 99% 以上の論文が連名で発表されていると思う。俺の研究だって、それは同じ。ベースにあるのは前任者の Dr. T の研究だし、俺の仮説を支えてくれるのは、N大学との共同研究の結果。その事実を俺は恥じてはいないし、そんな必要もない。
確かに研究発表では、俺以外の方がされた研究にも触れた。でもそれは当然だろう? そうしないと話が進まないのだ。当たり前だが、発表するときは「この結果は XX の XXさんが出した」と明言する。その上で、「自分はアレをした、コレをした」とプレゼンテーションするわけだ。そうしないと詐欺になるし、何よりも結果を出した人の名誉を著しく損なう。
それをなんだ、「高度に政治的な悪意」だと? ふざけるな!
……とキレたところで目が覚めた。毎度おなじみのパターンだが、覚醒するまで夢だとわからない。寝汗をかいてしまうから嫌なんだよ、就職関係の夢は。正夢にならないことを祈る。祈りながら、新たにエントリーする会社をストックしておこうと、就職情報を探し回った今日の俺。鬱。
セミナー発表だった T です。こんばんは。
ひょんなことから、「SM 診断」というページにジャンプした。アンケートに答えれば、自分がサディスト(マゾヒスト)かどうか、そしてその度合いがどれくらいなのかがわかるという代物である。とりあえずやってみた結果、
あなたの心には「サディスト」が潜在しております。サディスト度・67%。
ということらしい。詳しい解説が続く。
あなたはご自分が「サディスト」であるという事をうすうす感じているか、「マゾヒスト」だと思ってませんか? あなたは「サディスト」の心を生まれもっております。あなたと共にする運命の「マゾヒスト」との出会い、それがあなたの潜在する心を開花する時でしょう。
前半はよく当たっている。俺は自分がマゾヒスティックであると信じていた。長距離陸上や登山など、興味がない人から見れば、単なる苦痛でしかないスポーツを、俺は愛好している。のみならず、それで快感を得ることができる。立派なマゾだ。そう思っていたのだが、どうも違うらしい。
しかし、俺の中のサディストも、どうやらそれは潜在的なものであるらしく、開放するにはマゾヒストのパートナーが必要らしい。開花したらどうなるのか。
あなたは「本当の SM」に興味を持つでしょう。「支配と服従」について色々調べてみては……。
だそうだ。アドバイスまでしてくれている。おせっかいなことに、
あなたの理想の「奴隷」のイニシャルは、「N」・「I」・「S」・「Z」さんです。
なんてことまで教えてくれた。ありがたいことだが、「Zさん」はちょっと厳しいだろ。
明日からは日記を短めにしようと思った T です。こんばんは。
(前回のあらすじ)
ネットワークを「リアル」と感じる、今どきの小学生。彼等が、ネットワークの「向こう」に、殺意という激烈な感情を抱く、そのメカニズムとは?
長崎の小学生殺害事件には、俺なりに衝撃を受けたり考えさせられたりしたので、そのことについて思っていることを書こうとしているのだが、いたずらに文章が長くなるばかりで、どうもうまくまとめられん。論旨があちこち飛ぶかもしれないが、まあ、今思っていることを書くということで。
まず気になるなのが、ネットワークの「向こう」に対して、自分と同じような存在、等身大レベルの存在感を感じているのだろうかという疑問である。個人のサイトや掲示板は、TV 番組のように流されている(更新されている)わけではない。個人、あるいは、かなり個人の資質に近い「誰か」が、制作するなり発言するなり書き込んでいるわけである。自分が発信したものも、同じように「誰か」が見ている。恐らく、こういう感覚がホモ世代には希薄なのではないか。そういう印象を受ける。
問題になるのは、このような希薄な意識が、彼等の世代に特有のものなのか、それとも、彼等の幼さから来る、対人関係のスキルの不足に起因しているのかだ。後者なら、それほどの心配はないと思う(とは言え、既に殺人事件が起こっているわけだが)。解決策は一つだけ。対人関係の教育をしっかりとすれば良い。教育、といっても、それは恐ろしいほどに巨大な問題なわけだが、とりあえず、ネットワーク固有の問題ではないことになる。
まあ、それでは話が続かない。だから、というわけでは決してないのだが、やはりネットワークの「向こう」に対する感覚には、彼等の世代特有のものがあると思う。加害者が、ネットワーク上でのやりとりが原因で「殺意を抱いた」ということばかりが取り上げられているが、裏を返せば、被害者はネットワーク上で「殺意を抱かせ得る」発言をした、ということにもなる。もしも、ネットワークの「向こう」に対して、もう少し意識的であれば、その発言はなかったかもしれない。
ネットワーク上の発言が過激になりがちなのは事実である。ネットワークを「ヴァーチャル」だなんて思い込んでいる人間が、「仮想だから」と、無責任な発言をまき散らしているのも、一つの現実だ。しかし、そういった記録は、サーバのハードディスクに「現実に」存在しているわけだし、ありとあらゆるサイトのバックナンバーは、アーカイブとして記録されつつある。そこには他の「誰か」もアクセスできるし、クリック一つで、いくらでもコピーしてネットワーク上に展開できる。
ネットワークに対して、こういったある種の不信感を持つヘテロ世代は、当然、ネットワークの「向こう」にも、同種の人間がいることを想定する。自分がやろうと思えば、どれだけのことがネットワーク上でできるかを知っているだけに、ネットワークの「向こう」を警戒する。自分がそれを行わないのは、自分のモラルに殉じているから(あるいはリスクを知っているから)であって、「向こう」が良心を持っているとは限らない。自然と、「向こう」を意識せざるを得ない、ということになる。
さて、ここまでは発信した被害者側の視点に立った問題提起。発言を受信し、殺意を抱いた加害者の方はどうなのだろうか。加害者を中傷した(とされる)発言は、加害者にとって全く予期せぬものだったのではないか、というのが俺の印象なのだが、どうだろうか。ネットワーク上で交わされる会話が何であれ、「向こう」を意識したことがなかった加害者にとって、それは長らく「風景」でしかなかったのではないか。その「風景」が、突如「人格」を持って自分を攻撃した、その事実に加害者は逆上してしまったんじゃないかな、と思う。
恥ずかしい話だが、俺はゲームで本気になるタイプの人間である。アクションゲームなどでコンピュータに負けると、腹が立ってコントローラーを投げつけてしまうこともある。コンピュータは、ただプログラミングされたアルゴリズムに従って攻撃しているだけであり、それは俺も知っている。そして、そんな小手先のテクノロジーに負けるのが悔しいのだ。その上、コンピュータ側が「弱いですね。ププ」などと言ったらどうなるか。俺だったら、テレビ画面を叩き割るかもしれんな。
もしも、加害者がネットワークの「向こう」を、ゲーム・キャラクターくらいにしか認識できていなかったとしたら、どうだろう。腹が立つのも、わからないでもない。だけれど、やっぱりそれは間違いなんじゃないかな。
長い日記を書いていると、段々と何を書きたかったのかを忘れていく T です。こんばんは。
(前回のあらすじ)
コンピュータやゲーム、ネットワークといったもの(粗っぽいまとめだが)は、果たしてヴァーチャルなものなのか? 少なくとも今の小学生にとって、それらは「リアル」でしかない。だって、それらもテクノロジーの産物でしかないんだから。でも、ネットワークの「向こう」は、また違うものなのではないのか?
このような問題に対して、世代論が有効かどうかはよくわからない。しかし、長崎の小学生殺害事件の加害者、事件の背後に滑稽なほど巨大なヴァーチャルの幻影を見る大人達、そして、その双方に対して、自分の価値観との違和感を感じる俺、この三者の間には確実にジェネレーション・ギャップが存在すると思う。
「コンピュータ遺伝子」や「ネットワーク遺伝子」というものが、仮にあったとすると、TVゲームすらしたことがないような大人達は「ヌル世代」(null; 遺伝子がない) と言えるだろうし、生まれたときから家庭の中にネットワーク端末があったような小学生は、明らかに「ホモ世代」(homo; 遺伝子を二つ持つ) だろう。
俺のようなファミコン世代はどうか。コンピュータなるものを知ったとき、それはまだ特別な存在だった。時が経つにつれ、それは段々と普及していったが、今度は「ネットワークに接続されたコンピュータ」が特権的な時代があった。今となっては、どちらも当たり前のように使い倒しているが、そういう体験が下地にある。生物学的に言えば「獲得形質」に近いが、便宜的に「ヘテロ世代」(hetero; 遺伝子を一つ持つ) と呼ぶことにする。
どうして遺伝子に例えたかというと、「X歳以上はヌル世代」といった区切りができないからだ。バリバリとコンピュータを使って仕事をされている中高年の方もおられるだろうし、逆に、俺と同年代でも「ゲームはしたことがない。パソコンも全然ダメ」という奴が存在するからだ。結構、個体差が激しい。単純な世代論にはならないと思う(勿論、俺が分類した三つ以外のタイプもいるだろう)。
さて、ここからはネットワークに話を絞る。ネットワークの発展とともに成長してきた俺のようなヘテロ世代が、恐らくは潜在的に意識している点が二つある。
最初の認識は、技術的な側面である。インターネットやパソコンは、既に生活の一部として使いこなしている。しかし、テレビやラジカセのような「枯れた技術」とは思っていない。故に、諸々の新技術やアップデートには敏感で、積極的な行動も取る。ネットワークなどに対しては、やはり「特別なもの」という感覚があるが、同時に、充分な理解もある。技術的な未成熟さから予想されるリスクに対策を立てつつ、自分で必要なものを選んで、システムを構成・運用することができる。これが、俺のイメージするヘテロ世代である。「軽い特別視と充分な理解」がキーワード。
ヌル世代だと逆になって、「過度の特別視と不十分な理解」となる。まず、システムを特別視するあまり、彼のシステム、というか、彼のネットワーク上などでの行動から、可塑性が失われる。あまりに特別と思い込むため、テクノロジーに自分を適応させようとする傾向も希薄になる。当然、理解も不十分なままだ。ウイルス・メールが1通来ただけで大騒ぎするくせに、パスワードを書いたポスト・イットをモニタに貼り付けたりする。
最後にホモ世代である。彼等は、ネットワークに特別な感情を持ってはいない。ブラウザを起動することは、テレビの電源を入れるのと同じような意味しかない。技術的にも、同様の安心感がある。だから、ネットワーク・サーバは落ちるものであるとか、ハードディスクはクラッシュするものであるとか、そういう意識がない。しかし、これはあまり問題ではない。こういった問題が起こるのは、ホモ世代がまだ幼く、経験も知識も不足しているからだ。学べば済む。
ここまでは技術論だ。そして技術論とは、概ね解決されることになっている。CD にどうやって音楽が記録されているのかを知る必要がないように、いずれ何の問題もなく、コンポで音楽を聴くようにネットワークへ接続できる時代は必ず来る。しかし、ネットワークの「向こう」に対する認識、これは誰かが教育するか、さもなければ自分で意識的に感覚を養っていくしかない。
ネットワークの「向こう」となると、これは一種の社会論になってくる。まず、「ネットワークはヴァーチャル」などと発言するホモ世代は論外だ。ネットワークに接続しているのは、人格のある個人であり、確固として存在する組織であり、誰かが作ったシステムだ。ホモ世代がヴァーチャルと叫んでいるその相手は、自分の子供かもしれない。そういった現実感があるか?
犯罪の責任をネットワークに帰するのは、思考放棄であり、その行き着く先はネットワーク差別でしかない(とはいえ、すぐにネットワークを差別する方が圧倒的に少なくなるだろう。となると今度は、彼等はネットワーク賎民として、反対に差別される対象となる。皮肉ではなく、本気で彼等を心配してしまう)。
今回の事件では、加害者が小学生ということもあるが、やはり、犯罪の責任はネットワークにはない。酷なようでも、全て個人の責任であるはずだ。
長崎の事件は、加害者にとってネットワークの「向こう」の存在が、同時に現実世界の級友でもあるという二面性が、話をややこしくしている。だが、一番肝心の部分は「ネットワークの『向こう』に殺意を持った」という点である。それがたまたま身近な人物であったから、実際に犯行を行ったというだけなのではないか。俺はそう思っている。どうしてネットワークの「向こう」に、殺したくなるほどの感情が湧くのか。それがキーである。
……長くなるので、次回に続く。
他人の日記というものは、それだけで面白いと思う T です。こんばんは。
最近、日本でも Blog が流行しているらしい。確かに、俺自身も Blog を見かける機会が多くなった。単なる一過性のファッションかもしれないが、流行るには流行るだけの理由があるのだろう。簡単な操作で洒落たサイトができるのも、それはそれで魅力的だし、頻繁にテキストを書くような人にとっては、管理作業の大半が自動化されている点に食指が動くかもしれない。コメントやトラックパッドなど、簡便なコミュニケーションツールも搭載されている。
特に俺が「欲しい」と思うのは、テキストをカテゴリごとに分類して、特定のジャンルについて書かれた文章だけをまとめて読む機能だ。あれは良い。一読者としても、あのカテゴリ機能は重宝している。例えば、俺が「Diary」として更新しているテキスト群も、明らかに幾つかのサブ・カテゴリに分類できる。大きく分けて、「日常生活」「時事問題」「サイエンス」「バイク」「歴史」といったところか。Blog を使えば、バイクについて書かれた文章だけを流し読みできる。「ここ 3ヶ月のツーリング頻度」といったものも、容易に把握できるわけだ。これは便利である。
現在、俺は自分で HTML ファイルを作ってサイトを管理している。Blog にも興味はあるが、しかし、どうしても「自分で 100% 管理できない」という点に引っ掛かりを覚える。いや、何も Blog ばかりではない。いつも我が掲示板に書き込んで頂いている方々には申し訳ないのだが、俺は他人が管理する掲示板に、滅多に書き込みをしない。自分が管理することのできない場に、自分の発言を残すという行為が、俺に軽い違和感を惹起させるのだ。
こう書くと、「何でも自分で管理できないと嫌なのか」と言われそうだが、そうではない。上の例で共通しているのは、それが「ネットワーク上にある」という点である。平たく言えば、ネットワークの「向こう」にいる存在(あるいはネットワークそのもの)を、俺は完全に信頼できないのである。
前置きが長くなったが、本題は長崎の小学 6年生殺害事件である。事件の内容も驚きだが、事件に至る経緯にも、色々とビックリさせられた。まず、加害者・被害者とも、小学 6年生で自分のサイトを持ち、そして、そこの掲示板で交わされたやり取りが事件の動機になっている。ここでもう、俺には驚きである。いわんや、中年の方々においてはどのような反応があったことやら。
このような事件が起こった場合、必ず議論されるのが、「今の子供たちは仮想と現実の区別がついていないのではないか?」という問題である。が、俺から言わせれば、これは愚問である。ハッキリ言って、子供をバカにしているとしか思えない。
現代の子供たちは非常に賢い。これは、俺がボーイスカウトで小学生を指導した経験からも言えるのだが、今の小学生は、もの凄く「リアル」ということに敏感である。彼等にとっては、テレビゲームごときが提供する「リアル」のクオリティーなど、お笑い草でしかない。「ゲームがリアルになった」と喜んでいるのは、ファミコン世代、つまり俺の年代のオッサンである。
1980年生まれ、今年 24歳の俺でも、小学生とはこれだけのギャップがある。白黒テレビを正座しながら観賞した御老体には、とてもじゃないが扱いきれない問題だ。そもそも、問題の設定自体がおかしい。この事件でクローズアップするべきは、「コンピュータ、ゲーム、ネットワーク、これらは果たして本当にヴァーチャルなのか?」という問題である。何をもって「現実」とするか、そして何が「仮想」なのか。リアル/ヴァーチャルを規定するパラダイムは、大きく転換しつつある。
素朴な疑問を投げ掛ける。コンピュータ、ゲーム、ネットワーク、これらは「現実に」存在する。それのどこが「ヴァーチャル」なわけ?「ヴァーチャル」は、それを「ヴァーチャル」と認識する人の頭の中にしか存在しない。だからこそヴァーチャルなわけなんだが。
今の小学生にとって、携帯電話でネットワークに接続することは、冷蔵庫で食品を冷却するのと同じくらいに「当たり前」なことだ。まさか冷蔵庫をヴァーチャルという人はいないだろう。彼等にとって、大人が「ヴァーチャル」と言うものは、実はその程度のヴォリュームの「リアル」でしかない。
我々が冷蔵庫に寄せるレベルの信頼を、彼等は無意識にネットワークの「向こう」にも寄せる。しかし、やはりこれは間違いだ。ネットワークも、コンピュータも、ゲームも、それはテクノロジーの産物で、「リアル」であるのかもしれない。だけど、ネットワークの「向こう」は、そうじゃない。
……長くなるので、次回に続く。
「理系」「文系」とうるさい世の中だ、と思っている T です。こんばんは。
「理系」を自認する人間に顕著な傾向として、「抽象度の高い概念への深い感情移入」があると思う。数学者が数式を「エレガントか否か」で語る場面は、半ばギャグとしてだが、その典型的な例として広く知られている。ま、そのような感覚だ。
生物学者なら、好きなタンパク質や嫌いな遺伝子があると思うし、化学者なら、元素に好き嫌いがあると想像する。この手の感覚がない人には、全くわからないかもしれないが、そういった理不尽な好き嫌いというものは、確かに存在する。論理的な根拠はない。異性の容姿に対して、それぞれ好みがあるようなものだ。
そういうわけで今日は、アミノ酸に対する俺の好き嫌いを書く。マニアックな話で申し訳ない。
電荷を持つアミノ酸が好きである。中でもアスパラギン酸 (Asp; D) とグルタミン酸 (Glu; E) が群を抜いている。グルタミン酸の「E」など、最高だ。電荷を持っているとは言え、リジン (Lys; K) やアルギニン (Arg; R) は側鎖が長くて気持ち悪い。名前としては、アルギニンの「R」は格好良いのだが。その点、ヒスチジン (His; H) は構造式が良い。
小さいアミノ酸も好きだ。グリシン (Gly; G)、アラニン (Ala; A)、バリン (Val; V) など、どれも可愛らしい。しかし、ロイシン (Leu; L) ほど側鎖が伸びてくると嫌だ。イソロイシン (Ile; I) なんか「死ねよ」とすら思う。ロイシンの「Leu」は、良い味を出しているだけに残念。その意味では、メチオニン (Met; M) も側鎖が長いのだが、途中に入っている硫黄 (S) が絶妙。許す。プロリン (Pro; P) には、「オマエ、本当にアミノ酸か?」と問いたい。キモイよ。
構造式は好きではないのだが、フェニルアラニン (Phe; F) とトリプトファン (Trp; W) は、どちらも名前が素晴らしい。フルネーム、3文字表記、1文字表記、全てが完璧だ。
セリン (Ser; S) とシステイン (Cys; C) も好きだ。構造式、名前とも「優」を付けても良い。特にシステインの「Cys」は高得点。アスパラギン (Asn; N) とグルタミン (Gln; Q) は電荷がないだけに、アスパラギン酸やグルタミン酸に劣る。名前もそれほど良くはない。グルタミンの「Q」は、なかなかチャーミングなんだけどな。
スレオニン (Thr; T) も今一つ。チロシン (Tyr; Y) はイイ線なんだが、構造式が酷似しているフェニルアラニンの評価が高いだけに、どうしても見劣りしてしまう。
……何を書いているんだ、俺よ。
セミナーのための論文を読んでいる T です。こんばんは。
略語が最も頻繁に使われている文章、それはもう生物系の論文をおいて他にないんじゃないか。そう思えるくらいに略語が多い。例えば、今日読んだ論文の abstract には、
ERp57 doesn't affect the activity of SERCA 2b mutant lacking CRT binding site.(13語 78文字)
という文章があるのだが、これを略さずに書くと、
Endoplasmic reticulum protein 57 doesn't affect the activity of sarco endoplasmic reticulum calcium adenosine triphosphatase 2b mutant lacking calreticulin binding site.(21語 169文字)
となる。読みにくいことこの上ない。例を挙げるとキリがない。この論文にも出てくる「IP3R」というタンパク質は「inositol 1,4,5-trisphosphate receptor」の略だし、「どんだけ縮めてんねん!」という物質名は、他にも山ほどある。
略語だけではない。混乱させるために付けたとしか思えない、紛らわしい名前もよく目にする。上の例文にも出てくる「calreticulin」はカルシウム結合タンパク質の一つだが、カルシウムシグナルに関わるタンパク質の多くは、名前が「cal-」で始まる。思い付くままに挙げると、
calreticulin、calmodulin、calsequestrin、calseneurin、calbindin、caldendrin、calretinin、calsenilin、etc...
創造性のカケラも感じられんな。特に何だ、「calbindin」て。そのまんまじゃないか。
このようなタンパク質のうち、ある程度メジャーになると、やはり略号が与えられる。上の「cal-」シリーズで最も有名なのは calmodulin だが、こいつの略号は「CaM」である。この CaM を脱リン酸化する酵素がある。リン酸化酵素は kinase で、これは「K」と略される。故に、CaM のリン酸化酵素は「CaMK」となる。さらに、この CaMK をリン酸化する酵素がある。勿論、名前は「CaMKK」だ。これは冗談ではない。
ショウジョウバエの対立遺伝子や表現型には、ふざけた名前のものが多い。B氏が好んでネタにするのが「Satori」という表現型。この対立遺伝子があると、その雄は雌に興味を示さなくなる。それで表現型の名前が「Satori = 悟り」と名付けられた。人をバカにしているとしか思えない。ちなみにこの Satori の雄、雌ではなく雄には興味を示すらしい。悟りどころではない。ただのホモである。そんなオチまでついている。
最近俺が読んだものでは、「Samba」という表現型がバカらしかった。ショウジョウバエの間接飛翔筋に関する遺伝子に変異が落ちると、そのハエは飛べなくなる。その中には、飛べないまでも、羽をバタバタ動かせるくらいには軽度な表現型もある。それがどうやら踊っているように見えるらしく、「Swing」や「Breakdance」などと、これまた人を食った名前が付けられている。
Samba の場合、動作自体は Breakdance とよく似ている。何が違うのかと言うと、この Samba、温度感受性変異体なのである。暑くなると踊りだす。で、Samba = サンバ。
ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。
そろそろ散髪に行こうかと考えている T です。こんばんは。
それにしても、どうして頭髪だけがこうも伸び続けるのか。「腋毛を放っておいたら伸び過ぎた。もうすぐ袖口から出ちゃうよ!」なんてことには決してならない。しかもこの現象は、どうもヒト固有のようだ。長髪の猿や犬なんて見たことがない。何故に人間の頭髪だけが伸び続けるのか。興味深い話ではある。
先月は実家に帰省していたのだが、ちょうど愛犬の毛が、冬毛から夏毛に生え変わっていく最中であった。この「生え変わり」は、やはり温度依存的なプログラムなんだろうか。例えば、明日から我が愛犬をオーストラリアに連れて行ったらどうなるのだろう? しばらくすると、またすぐに冬毛が生えてくるのだろうか。
哺乳類の「毛」には 2種類ある。一般的に「毛」と言われているのは「体毛」である。人間には体毛しかない。もう一つが「洞毛」である。体毛とは違い、毛の中に神経が走っているのが特徴だ。いわゆる猫の「ヒゲ」などは、典型的な洞毛の例である。神経が走っているから、切断すると実際に「痛い」。また、一般に神経は再生しないから、切断された洞毛が再び生えてくることもない。
何が言いたいのかというと、猫にイタズラをするのは構わんが、ヒゲの切断だけは可哀想だからやめてあげよう、ということである。
日焼けのし過ぎで、肩がヒリヒリしている T です。こんばんは。
昨日はプログレスレポート終了後、またもやヒゲマン氏とドライブ&ツーリング。あまりにも暑かったので、水着持参でS海岸へ。まだ水温は低かったのだが、海の家や屋台もチラホラと開かれており、雰囲気はまさに夏。午後はまるまる、思いっきり身体を焼く。
夜もそのまま、二人で居酒屋へ。なんかずっと一緒にいるなあ。で、呑んでいる最中、ヒゲマン氏の携帯電話に MON氏から着信があり、俺も少し話をさせてもらった。お元気そうで何より。
遊び過ぎた反動で、今日は何もする気が起きない。取り敢えず洗濯をしたのだが、昼寝から起きると雨が降ってるし。梅雨であることに腹を立てはしないが、天気予報が外れるのがムカつく。
ある人からは「偽善家」と呼ばれ、また別の人には「偽悪家」と呼ばれる T です。こんばんは。
「偽善」と「偽悪」、二つの一見矛盾した評価が、同時かつ別々に下される対象とは、一体どういう性質を持つのであろうか? と、すぐさま自分を棚上げし、一般論に逃げ込むのは俺の悪い癖である。とはいえ、直す気は毛頭ない。このまま話を続ける。で、ヒマ潰しに考えてみた。
このロジックに従うと、俺が「偽善家のフリをしている」のであれば、「フリ」を見抜けない人からは「偽善家」と呼ばれ、「フリ」を見抜いた人からは「偽悪家」と呼ばれるということになる。両方の評価を得ることが可能だ。
逆に言えば、両方の評価を得た時点で、本質的に「偽悪家」であることが確定している。ま、「実は偽悪のフリをしている」という可能性も残されてはいるが。しかし、そんなことを言い始めるとキリがない。言葉遊びは、ほどほどのところで止めておくのが良い。
……偽善にせよ偽悪にせよ、「偽る」時点で「悪」に違いないわな。
T です。こんばんは。
現在、とある研究プロジェクトに参加させて頂いているのだが、なかなか実験がうまくいかず、少々困っている。問題点はわかっている。どうしようもなくサンプルが悪いのだ。が、そのサンプル、自前で用意できないどころか、再び手に入れることすらできないという性質のものなのである。こちらは与えられたサンプルだけで、何とか実験をこなして結果を出さなければならない。自分の工夫や努力だけでは、何ともしようのないところだけに、モチベーションも下がり気味。早めに帰宅の日々が続いている。
これではイカンなあ、とは思っているのだが。こういう形の仕事も、ちゃんとできるようにならねば。
昨夜はヒゲマン氏と、最寄りの港までドライブ&ツーリング。夜風が気持ち良い季節になってきた。人影のない港。満ちつつある潮と、満月に近い月を見ながら、ヒゲマン氏が一言。
「やっぱり満月になると引力が強くなるのかなあ」
……月の満ち欠けっていうのは、地球から見える範囲が変化しているだけで、物理的に月の体積(=引力)が増減しているわけではないのだが……。
我家でヒゲマン氏と呑んでいる T です。こんばんは。
またもや就職関係の夢を見た。とはいえ、今度は既に就職して働いている夢である。勤務先は5階建てのビル。オフィス・スペースは 1〜3階までで、4階は自販機や喫煙コーナーもある社員の憩いの場。就業時間を迎えた俺は、エレベーターで4階に上がり、缶コーヒーを買って喫煙スペースのソファにドカッと座る。仕事の後の一服、最高だ。同じように仕事を終えた上司や同僚も、三々五々、4階に集ってくる。皆、楽しそうだ。
ふと、俺は 5階へと登るエレベーターに目をやる。女子社員の集団が、談笑しながら上の階へと吸い込まれていった。そういや、俺は 5階に行ったことがないなあ。どうなってるんだろ。
早速、俺もエレベーターに乗って 5階へ。そこで俺が目にしたのは、社員用のスーバーマーケット。新鮮な野菜や肉が、信じられない安値で売られている。何なのだ、これは。社員厚生にも程があるぞ。
明らかに 4階より床面積の広い5階のスーパーマーケット。溢れんばかりの商品が陳列された棚は、どこまでもどこまでも続いている。果てしなく続く店内を見回しながら、棚から棚へと歩いていく俺。こんなにいたっけ、と驚くくらいの社員が、買い物カゴを手に、ショッピングを楽しんでいる。
どうなっているんだろう、俺の会社。と思ったところで目が覚めた。
文庫版『ゴルゴ13』が、月の変わり目の楽しみである T です。こんばんは。
『ゴルゴ13』を読むとスカッとするね。小さなことでウジウジとしている自分がバカらしくなる。何て狭い世界の中で暮らしているんだろうと思う。
何せゴルゴ、どん底の娼婦街で、売笑婦を相手にズコバコやりながら情報を仕入れたかと思えば、次の日には最高級のホテルで、何億もの契約をキャッシュで成立させてしまう。気に入らないことは絶対にせず、立ちふさがる敵はブチのめし、仕事は常に完璧。北に復讐を願う人あれば、行って仇をブッ殺し、南にマフィアの抗争あれば、行って両者を壊滅する。妨害にも負けず、裏切りにも負けず、雨の日も、風の日も、必ず狙撃を成功する。そういう人に俺は……なれるわけないだろ!
ま、いかにリアルと言えども劇画、虚構である。実際にゴルゴのような人間はいない。しかしこう、何と言うか、気分が高揚する類の漫画なんだな。読み終わった後、すごく自分がゴルゴな気分というか。こういう漫画って、タマにある。例えば『北斗の拳』を読めば、どうしても「ほわたあっ!」とかやりたくなるし。秘孔を突いてみたり。
影響力の強さ。ある漫画が、傑作であるための条件なんだろうな。
おい、俺の後ろに立つなよ。