佐藤が雑誌等に発表した短文をまとめた一冊。雑駁ではあるが、通読すると、著者が標榜する「自由主義的保守主義」の輪郭が浮かび上がってくる。
大川周明『米英東亜侵略史』の解説は読み応えがあった。福田和也『地ひらく』を読了したときにも思ったが、大川周明の思想や思索はもっと広く語られても良い。
マルクス経済学者の宇野弘蔵については何度も触れられている。
宇野の『恐慌論』の論理構成について何度も考えてみたが、結局、マルクスは資本主義社会が資本家、労働者、地主の三大階級から成り立ち、それ以外の要素については捨象していることがわかった。
マルクス経済学に課税の論理がないことは、国家を捨象しているからだ。しかし、現実には国家は存在するし、予見可能な未来において国家が消滅することもないであろう。国家が官僚によって運営されていることを考えるならば、官僚は三大階級と対峙しつつ共生するもう一つの階級なのである。官僚階級が自己保全のためだけに画策していることが現下日本の閉塞感をもたらしているのだと思う。
(「獄中で何を読み、何を思ったか」)
官僚は階級である、という理論はよく腑に落ちる。ここから様々の論が発生するのだが、各論については実際に本書を読んでほしい。
「神」についても語られているが、佐藤が自らの信仰を披瀝しているというわけではない。述べられているのは信仰の在り方である。「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある」というのが、佐藤のいう「自由主義的保守主義」の要諦である。すなわち、自分にとってキリスト教が絶対的であるのと同様、イスラム教徒にとってイスラム教が絶対であることを我々は理解し、受容せねばならぬ。佐藤はこれを「寛容」といい、我々日本人には古くから寛容の精神があったと説く。
宗教を含むイデオロギーの押し付け、他者に対する不寛容は、すなわち帝国主義につながる。これを乗り越えることが二十一世紀の課題であろう。この問題に対処する(佐藤の)キーワードが、タイトルにもある「国家、神、マルクス」である。彼の思想的源泉がよくわかる一冊となっている。
筆者である堀栄三については、保阪正康の『瀬島龍三』や『大本営発表という権力』で何度か触れている。
昭和十八年十月、陸大出の堀は大本営陸軍参謀部の情報参謀に命じられた。堀は何度も、自らのことを「若輩参謀」と記している。これは謙遜ではない。陸大を含め、日本軍・政府には情報のエキスパートを養成する組織が存在しなかった(わずかに陸軍中野学校があるが、どちらかといえば諜報機関である)。誰もが情報に対して若輩であり新米であった。「若輩参謀」には、かような状況への複雑な想いが込められている。
堀は最初、ドイツ課に勤務するが、これは組織改編で間もなく解散し、続いてソ連課に回され、最終的に米英課に配属される。この間、一ヶ月。しかも米英課は、昭和十七年四月までは欧米課という大ざっぱなものであったというのだから驚く。真珠湾攻撃は昭和十六年十二月である。敵国専門の情報課が、この時点に至るまで存在しなかった一事を見ても、情報に対する日本の取り組みの甘さが理解できよう。
このような環境に放り込まれた堀に情報の心構えを説いたのは、父・堀丈夫(陸軍中将、元陸軍航空本部長・第一師団長)と土肥原賢二(陸軍大将、戦後 A 級戦犯として死刑)であった。この二人の言葉は、本書で何度も繰り返される。また、堀がニューギニアを訪れた際には、第四航空軍司令官(当時)寺本熊市(陸軍中将、終戦日に自決)から、航空戦力の必要性を存分に聞かされた。
大本営に戻った堀は、米軍の戦法研究を開始する。どのような情報の断片から、どのように推理し、米軍の戦術を再現していったかが、詳細かつ具体的に述べられている。そこからわかるのは、日本軍と米軍の戦略思想の隔絶であり、圧倒的な彼我の戦力格差であった。
陸軍を主力とする日本軍は、広大な太平洋上の島々を「点」として占拠している。これに対し米軍は、一方的ともいえる航空戦力をもって「面」として制空権を握り、粛々と作戦を遂行していく。米軍は、文字通り点々と存在する日本軍を、莫大な火力で各個撃破する。得られた飛行場から新たに航空機を飛ばし、前線を押し上げる。航続距離が許す範囲において、これを繰り返す(いわゆる飛び石作戦)。補給と情報の途絶えた日本軍は、ただ盲目的に玉砕を行うばかりであった。
しかし、この基本的な理解さえも、堀が戦術研究を行うまでは大本営に存在しなかった。もはや当事者能力を失っていたといっても良い。
ともかく堀は、自らの米軍研究を『敵軍戦法早わかり』という冊子にまとめ、これを普及せしめるべく、フィリピン第十四方面軍(司令官・山下奉文陸軍大将)へ赴くことになる。この途上、台湾沖航空戦の戦果を誤報と看破し、大本営にも報告するが、堀の電報は無視された(作戦参謀・瀬島龍三によって握り潰されたといわれる)。結果、大本営はレイテ決戦を命じ、ルソン島での決戦を期していた山下は、虎の子の師団をレイテ島に散らすことになる。
レイテ戦後、山下方面軍は絶望的な状態で、ルソン島に上陸する米軍と戦闘することになった。被害を最小限に抑え、米軍をできるだけ長くフィリピンに釘付けにするには、その上陸を正確に予測しなければならない。山下の情報参謀となった堀は、各種の情報から、米軍の上陸地点、時期、兵力をほぼ完璧に割り出すことに成功する(米軍は、あまりの正確さに内部情報の漏洩を疑ったという)。山下は堀に信を置き、その作戦をよく理解し実行した。
結果的に、第十四方面軍は終戦まで米軍をフィリピンに引きつけることに成功する。米軍の沖縄方面への増援は遅滞し、計画されていた九州南部上陸作戦はその発動を見ることなく終わった(この作戦についても堀は精確に看破している)。
山下と堀が戦った比島決戦は本書の白眉であり、上質な戦記としても読める。と同時に、日本軍の情報力不足が、痛烈な批判や痛切な反省とともに記されている。本質的に足りなかったのは、情報そのものではなく情報に対する認識であった。これは、現在の日本にも通じる警句であろう。
本書に収められているのは以下の六章である。
『天皇が十九人いた』は、戦後に現れた自称天皇を追ったレポートである。自称天皇の中で最も有名なのは熊沢天皇だが、彼以外にも様々な「天皇」が名乗りを上げた。彼らの多くは、自らを南朝系天皇の末裔と主張する。実は、幾人かの自称天皇は、共通の「プロデューサー」に理論指導を仰いでいた。彼は在野の南朝研究家なのだが、それぞれの思惑と世相が絡み、一時期、自称天皇の世界は知られざる奇妙な拡大を遂げている。
『外務省の癒されぬ五十年前の過失』は、真珠湾攻撃に際して米国への開戦通告が遅れ、結果として「騙し討ち」になってしまった問題を扱っている。"Remember Pearl Harbor" は、開戦後七十年を経た今でもなお、日本叩きの合言葉になっている。この失態の責任は外務省にあるが、一九九四年になって「昭和十六年十二月七日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」が公表されるまで、正式な報告書は一切発表されていない(この「記録」とて充分なものとはいえない)。その間に日本が失った信頼はいかばかりか。外務省に限った話ではないが、どうして歴史的な総括がなされなかったのか。
その答えの一つが『「東條英機」と東條家の戦後』にある。極東軍事裁判において、東條英機は A 級戦犯として裁かれ、絞首刑に処された。色々の問題があるとはいえ、東條の責任はこの時点で果たされたといえる。しだが、残された東條一家への迫害は執拗に続いた。当時小学生だった東條の孫は、教師から罵詈雑言を叩き付けられ、教室を追い出されるという日々が続いた。GHQ のプロパガンダがあってにせよ、一夜にして「国民は悪くない。東條一人が悪かった」という構図に甘んじてしまう我が国において、冷静な記録を残すにはよほどの努力が要る。
『沖縄戦「白い旗の少女」の歳月』は、図らずも歴史の証人になってしまった庶民が、自らの記憶と記録を残すための歩みでもある。在日米軍の問題が再燃している昨今、その原点である沖縄戦の実態はよく知っておく必要があるだろう。
本書で採り上げられているのは、以下の二十一話である。
何となくわかっているようで、指摘されるまではそれが問題とも思っていなかったような問題が提起されているのが面白い。
「石油はどの程度不足していたのか」「真珠湾攻撃を事前に知っていたのは誰か」「軍人恩給の計算はどうなっているのか」などは特に興味深く読んだ。
シベリア抑留に関して、『沈黙のファイル —「瀬島龍三」とは何だったのか—』では以下の記述がある。
つまり関東軍の狙いは「民族再興」のため、満州にできるだけ多くの軍人・居留民を残すことだ。その背景について元大本営対ソ作戦参謀、朝枝繁春が言う。
「日本の四つの島に押し込められては経済再建ができない。再起には資源がある大陸に、たとえ国籍を変えてもかじりついていることが大事だと考えた。邦人が残れば、拠点にして盛り返せると思った」
(「第四章 スターリンの虜囚たち」)
本書第十七話「大本営参謀は在満邦人をソ連に売ったのか」では、モスクワで発見された、朝枝による公文書「関東軍方面停戦状況ニ関スル実施報告」が紹介されている。
この文書は四部構成になっているが、「今後ノ処置」という項があり、その「一般方針」の中に次のように書いてある。きわめて重大な事実である。
「内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於テハ在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』連側ニ依頼スルモ可トス」
そして「方法」の第二項には、
「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」
これは何を意味するか。対ソ戦の停戦後は軍人、軍属、民間人は「ソ連の庇護下に」そのまま満州や朝鮮に土着してもいい、日本国籍を離れてもいい、と大本営参謀の朝枝繁春の名で出されていたのである。
(「大本営参謀は在満邦人をソ連に売ったのか」)
その後、朝枝の遺稿で、この命令が「作戦課長、作戦部長、参謀次長、参謀総長の諒解を得て関東軍総司令官に伝えられた」ことが明らかにされる。したがって、保阪はこの指令が「国家意思」であったと断ずる。書類上は、確かにそうであろう(無論、内閣や昭和天皇の意思とは異なるが。統帥権の問題がここにもある)。
なぜ関東軍は「満鮮ニ土着」しなければならなかったのか。保阪は、「大本営参謀のなかにソ連と手を結び、さらに中国の国民政府と終戦にもちこみ、満州国や朝鮮に日本軍将兵や民間人を移し、対米英百年戦争を企図する一派がいたという説」を紹介している。「複数の関東軍や大本営の参謀たちから、なんどもこの話を聞かされ」たという。もし本当だとするなら、朝枝がいうところの「経済再建」とは目的が異なる。
もっとも、ソ連が侵攻してくる混乱の中で出された朝枝指令が、関東軍の動向にどれほどの影響を与えたかはわからない。「関東軍総司令官の山田乙三がこの大陸指どおりに極東ソ連軍と停戦交渉したか否かは不明である」。
重要なのは、ソ連軍の満州侵攻が迅速だったため、関東軍は機密書類を処分できず、様々な文書がソ連側に押収されてしまったという事実である。一説によれば、モスクワに運ばれた書類は「貨車二十八両」分だったという。その中に、後に発見される朝枝指令も含まれていた。これらの秘密文書を、ソ連が有効に活用したという可能性はあるだろう。
本書で採り上げられているのは、以下の七話である。
附録に、保阪と原武史の対談『宮中祭祀というブラックボックス』が収録されている。
この内、第二話の大本営発表については保阪の『大本営発表という権力』に詳しい。
第一話のゾルゲ事件は、論者によって評価が様々になる不思議な事件である。ゾルゲ最大の功績は、日本軍は南進し北進はしない、という情報をモスクワにもたらしたことである。したがってゾルゲ事件の評価は、この情報が本当に機密であったかどうかという、情報の評価と相関する。
本書におけるゾルゲ事件の位置付けは、これら既存の論とは異なった地点にある。
なぜ昭和十六年十月十八日だったのか。あえてそこに仮説をもちこんで考えていくことにするが、このゾルゲ逮捕の日こそ、実は第三次近衛文麿内閣倒壊、そして東條英機内閣誕生の日なのである。
(略)
この事実を踏まえたうえで、大胆な仮説をいえば、第三次近衛内閣はゾルゲ事件(当時日本の政治・軍事指導者の間では「尾崎事件」といった)によって脅かされ、内閣を投げだしたのではなかったか、ということである。誰によってか。むろん陸軍の政治将校によってである。こうした仮説は、当時も一部の人に囁かれていた節もあるし、今でも近衛内閣の退陣を疑問に思う論者もいないわけではない。だが表だって論じられたことはない。
(「東條英機に利用されたゾルゲ事件」)
この推測を進めると、ゾルゲ事件を利用して権力を掌握した東條は、「第二のゾルゲ事件」を恐れるようになったのではないか、という想像が立ち上がってくる。クーデターによって権勢を得た者が、今度は自らの暗殺を恐怖するのと似ている。
東條は特高や憲兵を重用し、吉田茂を監視するなど、行き過ぎた警察国家を現出させたが、それは上記のような彼の心理を反映した結果ではなかったか。
ゾルゲ事件は、戦時下を担った最高指導者東條英機の平衡感覚を失わせた。それが東條の人望を失わせ、そして国民の離反を招いた。そう思えば、日本の敗戦の因にゾルゲや尾崎の証言や手記もあげられるのではないか。彼らはそのような意思をもって獄中闘争を続けたという見方さえできるかもしれない。いやそう見ることで、いくつかの疑念は晴れていくのである。
(「東條英機に利用されたゾルゲ事件」)
本書で採り上げられているのは、以下の七話である。
附録に、保阪と原武史の対談『昭和天皇の「謎」』が収録されている。
第四話で、シベリア抑留に関する推測が述べられており、興味深く読んだ。
終戦前後におけるソ連の動きは不可解である。
ソ連による日ソ中立条約の破棄、および八月十五日から九月二日までの戦闘行為には色々の解釈もあるが、少なくとも降伏文書調印以降の歯舞諸島制圧は完全に違法である。火事場泥棒といって良い。
スターリンが日本北部の占領を強引に押し進めたのは、「ロシア革命後のシベリア出兵に対する報復という意味」(保阪正康『昭和陸軍の研究』、孫引)があったからである。そして「報復」には北海道の占領も含まれていた。
しかし北海道占領というソ連の悲願は、トルーマンに一蹴された。これが二十一日の待機命令の背景となる。結果、ソ連による北海道の占領は免れたが、代わりにシベリア抑留という悲劇が発生する。
こうしてスターリンの北海道占領という希望は消えた。前述のようにワシレフスキーがくだした命令は、そのあきらめを正直に語っている。トルーマンとスターリンはその後も日本占領をめぐって意見の調整を行うが、北海道占領はその後は論じられていない。こうして北海道占領はなくなったかわりに、極東ソ連軍内部では別な動きが起こっている。八月二十二日にスターリンは最終的にあきらめたわけだが、その翌日に国家保安省政治部がスターリンの命令を受けて、ワシレフスキーに「日本軍の捕虜を千人単位でシベリアに送りこめ」と命じているのである。こうして関東軍の将兵およそ六十万人が、この日以後、次々とシベリアに送られることになる。
(<東日本社会主義人民共和国>は、誕生しえたか?)
この前後の経緯については、『瀬島龍三 参謀の昭和史』『沈黙のファイル —「瀬島龍三」とは何だったのか—』に詳しい。
シベリア抑留は北海道占領の代償である、そして北海道占領はシベリア出兵に対する報復である、という指摘は一考の価値がある。日本のシベリア出兵は英仏に促され、連合国とともに行ったことではある。しかし無駄に駐留を長引かせ、ロシアはおろか連合各国からも不興を買い、しかも何ら利益を上げることができなかった。このような愚かな戦略の復讐としてシベリア抑留が生じたのであれば、もはや悲劇を通り越して滑稽ですらある。シベリア抑留におけるソ連の無法は弾劾されるべきだが、我々は、この滑稽さについての反省も真面目にせねばなるまい。
松本清張の対談集。
対談の狭間狭間に、編集者の書いた雑文が結構な頻度で挿入されており、はなはだ興を削がれる。編集者がしゃしゃり出てくる本は、男優がうるさいアダルトビデオのようなものである。「お前を見るために金を払ったのではない」。感想はそれが全てである。
本文中に顔を出す編集者は何がしたいのか。職人としては不徹底であり、かといって演者としてはクソ未満である。笑点における山田隆夫のごとき存在である。黙って座布団を運べ。
山田隆夫がかつて所属したバンド名が「ずうとるび」であることは一考を要する。創造という行為を、およそまともに考えたことがないのだろう。
司馬遼太郎の対談集。相手は以下の通り。
「近代日本を創った宗教人一〇人を選ぶ」に関連して、司馬の「清沢満之と明治の知識人」も収録されている。
司馬遼太郎の対談・鼎談集。相手は以下の十一人。
司馬遼太郎の対談集。対談相手は以下の八人。
副題に「戦後金融犯罪の真実と闇」とある。
終戦後、都市部には闇金融が跋扈しており、「東京国税局管内にしぼればヤミ金融業者は大小合わせ三千に及ぶといわれた」(「第四章 ヤミ金融帝王の錯覚」)。
その中で、現役東大生・山崎晃嗣が社長を務める「光クラブ」は異彩を放っていた。銀座に事務所を構え、闇金融でありながら華麗でスマートな宣伝を打ち、社員もまた大学生であった「日本唯一金融株式会社」の「光クラブ」は、山崎が東大生であるという信用も手伝って、急速に業績を伸ばした。
しかしやがて、経済の安定を目指す関係各局に目を付けられ、山崎は物価統制令違反の容疑で逮捕される。不起訴で釈放されたものの、山崎の拘留によって「光クラブ」内部は崩壊に瀕し、資金繰りに行き詰まるようになる。数ヶ月後の一九四九年十一月二十五日、山崎は青酸カリを服して自殺した。二十七歳。
生前、そして死後と、山崎の在り方は世上を賑わした。それは彼の特異な哲学に依るところが大きい。それは「合意は守らなければならない」という信念であり、飽くなき合理主義への希求である。実際山崎は、日々の生活を図表化し、また「数量刑法学」という、いささか奇妙な学問の創設に腐心する。複数人の女性と交際し、その性行為までをも克明に記録する。「合意を守るために」暴力団を利用して債権を取り立てる。
奇行といって良いこれらの行為を、山崎は意識的・偽悪的に「演じた」。これら諸々によって山崎は、一般的に「アプレゲール」と理解されることになるのだが、本当にそうなのか、その奥底には何があったのか、と問うているのが本書である。
山崎の家庭環境や、彼が味わった挫折など、様々な事柄が克明な取材によって明らかにされている。中でも、戦時中の体験が戦後の山崎の生き方を決定した、と保阪は指摘する。
山崎は学徒動員によって、わずかな期間であるが軍隊に在籍した。そこで起こった二つの事件、「同級生殺人事件」「物資横領横流し事件」は、山崎に大きな心理的影響を与えたと思しい。ある意味では饒舌であった山崎が、戦時中の体験については何も語っていない(もっとも山崎は、重要な事柄については言葉を残さない型の人間ではあるが)。
山崎の在り方に戦争の影響を見た(と思われる)人物が一人いる。三島由紀夫である。山崎と同時期に、同じ法学部に在籍していた三島は、——証拠こそないが——山崎と親交があったとしか思えない作品『青の時代』を著している。
『青の時代』の主人公のモデルが山崎であったことは知られている。評価の高い作品とはいえないが、山崎の人生を丹念に追っていくと、『青の時代』には、山崎が他人には決して話さなかった内容までもが盛り込まれていることがわかる。
その意味で本書は、戦争が一人の若者に及ぼした影響を読み解くとともに、『青の時代』の副読本としても役立つ一冊であろう。
孫引きだが、「独白録」とは以下のごときものである。
「独白録」は、昭和二十一年の三月から四月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。
(『文藝春秋』一九九〇年十二月号「昭和天皇独白録 掲載にあたって」)
名の通り、昭和天皇が「私は〜」と語る形での聞き書きであり、その内容は非常に興味深い。当時の昭和天皇が、どのようなことを思い、考え、また行動したかについては、幾つもの書物が出ているので一々紹介はしない。
事実関係と別のところで面白いのは、昭和天皇が忌憚なく人物評を述べている点である。建前上、天皇は、自らの赤子である国民に対して好悪の感情を表明することはない。しかし実際のところ、昭和天皇は人物の好き嫌いがはっきりしている方である。
例えば、宇垣一成に対する評。
外務大臣の宇垣一成は一種の妙な僻がある、彼は私が曖昧な事は嫌ひだといふ事を克く知つていゐるので、私に対しては、明瞭に物を云ふが、他人に対してはよく「聞き置く」と云ふ言葉を使ふ、聞き置くというふのは成程その通りに違ひないが相手方は場合によつては「承知」と思ひ込むことがありうる、宇垣は三国同盟〔三月事件か? 昭和六年、軍部クーデタによって、陸相宇垣一成を首相とする軍部内閣樹立を計画した事件〕にも関係があつたと聞いてゐるがこれも怖らくはこの曖昧な言葉が祟つたのではないか。この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ。
(「第一巻 支那事変と三国同盟(昭和十二年)」)
それから、松岡洋右。
この進駐(註・南仏印進駐)は初めから之に反対してゐた松岡は二月の末に独乙に向ひ四月に帰つて来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになつた、恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる。
(「第一巻 南仏印進駐(昭和十五年)」)
他にも、身内である皇族に対する言葉も幾つか見受けられる。当時の昭和天皇を取り巻く人間関係が、極めて緊張したものであったことを改めて認識させられる。
本書の後半には、「独白録」をまとめた寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーの手記『"遺産" の重み』が掲載されている。有能な外交官であった寺崎は米国人女性と結婚し、マリコを儲ける。しかし日米が開戦し、親米派の寺崎は左遷させられ、「敵国人」である妻と娘は日本において様々な苦労を味わった。それでも一家の絆は堅く保たれ、暖かい家庭が営まれていたという。寺崎はマリコにこう語る。
そんな父が、"混血児" と呼ばれてよくいじめられていた私を、ある日次のように話してふるい立たせてくれたのだった。私はこの父の言葉にどれほど勇気づけられたことだったか——「マリコ、お前はとてもラッキーな子供であることを、決して忘れてはいけないよ。普通の人は、たったひとつのヘリテージ(伝統)しか持っていないのに、お前には二つのヘリテージがあるではないか——二つの祖国と二つの言葉が。お前は、"ブリッジ" になる子だ。ヘリテージがひとつだけでブリッジになるのは、至難の技なのだよ」
(『"遺産" の重み』「"かけ橋" こそ父母の遺産」)
当時を回想した文章は読者に深い感動を呼び起こすだろう。
終戦後、米国通である寺崎は昭和天皇の御用掛に任命される。天皇からは篤く信頼され、この「独白録」の作成にも関わった。また、昭和天皇・マッカーサー会見の通訳を務めたことでも知られている。会見の内容については豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』に詳しい。
権力に関わらない一官僚であった寺崎の軌跡は、図らずも「独白録」で語られている中枢の動きを補完する形になっている。このコントラストは、当時の状況を立体的に把握する上で、大きな刺激となるだろう。
インタヴューに応える形で語られた木田元の自伝。大変面白い。
父の仕事の関係で、木田は満州で育った。父は満州の高級官僚であり、親類にも学問のある人が多く、木田は様々の影響を受けながら大陸で過ごした。海軍兵学校を受験するために帰国し、首尾よく入学したが、間もなく終戦を迎える。満州の父はソ連の捕虜となった。
木田は郷里の山形に戻り、帰国した一家(シベリアに送られた父を除く)を養うために、代用教員やら闇屋を営む。若い頃の木田は腕っ節に自信があり、肝も据わっている。色々の苦労もあったはずだが、語り口はカラッとしており、痛快ですらある。この頃に木田が出会った人々の肖像も印象深い。
読書家だった木田は、ドストエフスキーを通じてキルケゴールを知り、そしてハイデガー『存在と時間』に出会う。父の帰国を契機に、木田は『存在と時間』の読解を志し、東北大学哲学科に進んだ。
猛勉強の末、『存在と時間』を原語で読破するに至るが、そのときの感想が奮っている。
おもしろかったのですが、肝腎なことはなにもわかりません。この本は一度や二度これだけ読んでわかるような本ではない、ということもわかりました。
フッサールやシェーラー、キルケゴールやニーチェ、カントやヘーゲル、それにプラトンやアリストテレスと、そこで問題にされている哲学者たちの本をちゃんと読んで、まわりを固めてからでなければ、この本はわかりそうもないという見当はつきました。
(「8『存在と時間』をはじめて読んだ頃」)
そうして、木田の、本の厳密な読解を基盤とした研究が始まる。大学院生、そして教員としての生活における逸話を交えながら、木田の話は再びハイデガーに近付いていく。最終的には、メルロ=ポンティがヒントになって、ハイデガーの言わんとしていることが「わかった」のだという。木田によるハイデガー解釈については『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』で読むことができる。
木田の、学生に対する指導も独特のものである。
一人の学生に二年か三年か、毎週ぶっ続けで読ませるんです。まずドイツ語の原文を読ませて、それから、自分で日本語に訳させます。ラテン語やギリシャ語からの引用もありますが、それも読ませます。黙読ではなくて声に出して読まないとダメです。(略)
学生に言う以上は、ぼくもその個所をしっかり読んでおきます。そして、発表のとき、学生が間違えると嘲笑してやります。叱るのではなくて、ゲラゲラ笑ってやります。だいたい、このあたりで間違えるだろうなと思っていると、案の定、そこで間違えるので、大いに笑ってやります。それがくやしくないとダメです。(略)
(「16 読書会のこと」)
これはキツい。しかし(その方法はともかく)、これくらい厳しくないと学問など身に付かぬのかもしれぬ。
木田の研究姿勢は極めて誠実であり、そして何よりも真面目である。この点に最も感銘を受ける。分野は違っても、研究生活を送っている人であれば、本書から何かと得るところがあるだろう。