本書で採り上げられているのは、以下の七話である。
附録に、保阪と原武史の対談『昭和天皇の「謎」』が収録されている。
第四話で、シベリア抑留に関する推測が述べられており、興味深く読んだ。
終戦前後におけるソ連の動きは不可解である。
ソ連による日ソ中立条約の破棄、および八月十五日から九月二日までの戦闘行為には色々の解釈もあるが、少なくとも降伏文書調印以降の歯舞諸島制圧は完全に違法である。火事場泥棒といって良い。
スターリンが日本北部の占領を強引に押し進めたのは、「ロシア革命後のシベリア出兵に対する報復という意味」(保阪正康『昭和陸軍の研究』、孫引)があったからである。そして「報復」には北海道の占領も含まれていた。
しかし北海道占領というソ連の悲願は、トルーマンに一蹴された。これが二十一日の待機命令の背景となる。結果、ソ連による北海道の占領は免れたが、代わりにシベリア抑留という悲劇が発生する。
こうしてスターリンの北海道占領という希望は消えた。前述のようにワシレフスキーがくだした命令は、そのあきらめを正直に語っている。トルーマンとスターリンはその後も日本占領をめぐって意見の調整を行うが、北海道占領はその後は論じられていない。こうして北海道占領はなくなったかわりに、極東ソ連軍内部では別な動きが起こっている。八月二十二日にスターリンは最終的にあきらめたわけだが、その翌日に国家保安省政治部がスターリンの命令を受けて、ワシレフスキーに「日本軍の捕虜を千人単位でシベリアに送りこめ」と命じているのである。こうして関東軍の将兵およそ六十万人が、この日以後、次々とシベリアに送られることになる。
(<東日本社会主義人民共和国>は、誕生しえたか?)
この前後の経緯については、『瀬島龍三 参謀の昭和史』『沈黙のファイル —「瀬島龍三」とは何だったのか—』に詳しい。
シベリア抑留は北海道占領の代償である、そして北海道占領はシベリア出兵に対する報復である、という指摘は一考の価値がある。日本のシベリア出兵は英仏に促され、連合国とともに行ったことではある。しかし無駄に駐留を長引かせ、ロシアはおろか連合各国からも不興を買い、しかも何ら利益を上げることができなかった。このような愚かな戦略の復讐としてシベリア抑留が生じたのであれば、もはや悲劇を通り越して滑稽ですらある。シベリア抑留におけるソ連の無法は弾劾されるべきだが、我々は、この滑稽さについての反省も真面目にせねばなるまい。