「反哲学としての哲学」とは、ハイデガーの哲学のことを指している。
つまり、西洋哲学史を見なおすといっても、ハイデガーが考えているのはなんとも思いきったことで、彼はプラトン/アリストテレスからヘーゲルにいたるまでの西洋哲学の全体が間違っていたのではないか、少なくともおかしな考え方、不自然な考え方だったのではないかと考えているのです。しかも<哲学>と呼ばれてきたこの不自然な考え方が、西洋文化形成の青写真の役割を果たしてきた、そのため西洋文化が全体としておかしな方向に形成されることになった、とそんなふうに考えているらしいのです。
(「最終講義——ハイデガーを読む」)
既存の西洋哲学を否定する突破口としてハイデガーが考えたのが、存在 (と時間) というものの在り方である。西洋文化批判というパースペクティブは、ニーチェから受け継いだ。
ハイデガーは西洋哲学批判を目的として『存在と時間』を著したが、結局、出版されたのは導入部のみであり、主題となるはずの西洋文明の見直しはおろか、前提となる「存在一般の意味の究明」にすら到達できなかった。彼のこの「失敗」は、残された講義録などの研究から明らかになっており、また比較的よく知られていることである。
そこに含まれる哲学的な問題については割愛するが、そのような「失敗作」であるところの『存在と時間』が、なぜ 20世紀最大の哲学書として読まれたのか、読み続けられているのか。
この問題について著者は、当時のドイツ (『存在と時間』の出版はナチス台頭前夜の 1927年) の情勢と、そこで出版された「暴力的な書物」の分析を援用することで迫っていく。
ハイデガーの『存在と時間』にも、「無 (ニヒツ)」とか「無化する (ニヒテン)」といった否定の用語や「なぜ何も無いのではないのか」といった問いかけにうかがわれる——弁証法的に肯定を生み出すヘーゲル的否定などとは違った——どこか暴力的な形而上学的否定がひそんでいる。
こうして、現存の世界の終末を宣言し、新たな世界を予言するこれらの著作においては、当然言語の過激な革新が企てられる。第一次大戦のあの惨禍のあとで、ブルジョワ社会で使い古され擦りきれた偽りの言葉で語ることなどどうしてできようか。そこでは、言語を過激なかたちで新たなものにしようと企てられるのである。
(略)
この本は同時代の他の本と同様に、「直前の時代のドイツ人の言語を克服し、思い切った創作と忘れられた源泉への帰還と」によって「新しい言葉を鍛えあげた」のである。
(「最終講義・補説——『存在と時間』をめぐる思想史」)
元よりハイデガーなどまともに読んだことのない俺だが、『存在と時間』の成立した歴史的事情というか思想的文脈は、非常に面白く感じた。やはりテキストだけを引っこ抜いて読んでみてもよくわからんよな。歴史でも科学でも同じことだと思う。