- Book Review 2010/05

2010/05/30/Sun.

副題に「参謀の昭和史」とある。

シベリア抑留

瀬島龍三については、以前に『沈黙のファイル —「瀬島龍三」とは何だったのか—』を読んだ。関東軍のシベリア抑留に瀬島が関与しているという噂は、『沈黙のファイル』では否定されている。「捕虜をシベリアで労働させようというのはスターリンのアイデアなんだ」(『沈黙のファイル』「第四章 スターリンの虜囚たち」)。

しかし「スターリンのアイデア」の源は、どうも日本側にあるらしい。外務省『終戦史録』に記載されている『対ソ和平交渉の要綱(案)』には以下の記述があるという。

ただし、第三項の「陸海軍軍備」のロの項には、次のように書かれている。

「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」

そして第四項の「賠償及其他」のイ項にも、次のような記述が見られる。

「賠償として一部の労力を提供することには同意す」(傍線筆者)

日本政府は、ソ連側に海外にある軍隊は「現地に残留せしむることに同意」し、戦時賠償として、「一部の労力を提供することには同意」するつもりでいたのだ。ソ連は、この条項の意味を国家として見抜いていた、というのが甲斐(註・義也)をはじめ全抑協(註・全国戦後強制抑留補償要求推進協議会)の理事たちの見解であった。

(「第一章 シベリア体験の虚と実」)

「スターリンのアイデア」がモスクワから極秘に発令されたのは八月二十三日であるというから(『沈黙のファイル』)、瀬島も参加した、八月十九日の関東軍とソ連軍の停戦交渉でシベリア抑留が提案された可能性はやはり低いと思われる。

親電差し止め疑惑

真珠湾攻撃を目前に控えた一九四一年十二月七日十一時(日本時間)、ルーズベルト大統領は昭和天皇へ宛てた親電を打ち、その事実と内容がニュースとして世界各国に流された。内容自体は「此ノ危局ニ際シ陛下ニ於カレテモ同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関シ考慮セラレンコトヲ希望スルガ為ナリ」といったもので、大したものではない。

しかし問題なのは、この電報が東条英機にもたらされたのが、八日零時半だということである。

そのとき、東條は、「電報がおそく着いたからよかったよ。一、二日早く着いていたら、またひとさわぎあったかもしれない」と言った。(略)

この四分後、空母「赤城」からとび立った第一次攻撃隊は真珠湾攻撃を始めていたのである。

(略)もし親電が、東條のいうように一日か二日早く着いていても、日本にとってその内容は受けいれることのできるものではなかったから、戦闘中止の命令は発せられなかったろう。だが、いみじくもハルが回想録でいったように、「歴史に残す記録としての米国の和平の意思」というアリバイにはなった。

実は、このルーズベルト親電は、東條の恐れた「一日前」に届いていたのに、それを参謀本部の将校が故意に遅らせてアメリカ大使館に届けたということが、戦後の東京裁判の法廷で明らかになる。それを知ったとき、出廷していた東郷(註・当時外相)は驚き、東條もまた唖然としてしまった。東條はそんな事実を知らなかったのだ。

(「第二章 大本営参謀としての肖像」)

電報を差し止めていたのは大本営第十一課(通信課)の戸村盛雄少佐だが、彼の証言によると「十二月七日正午ころ米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。(略)作戦課の瀬島少佐から、前日馬来(マレー)上陸船団に触接して来た敵機を友軍機が邀撃し、既に戦闘が開始されたこと、そしてそのことは杉山参謀総長から陛下に上奏済みであることを聞いた。今更米国大統領から親電が来てもどうにもなるものではない。かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった」という。しかし、「『大本営機密戦争日誌』の、十二月五日、六日、七日の項には、瀬島が戸村に話したような内容、杉山参謀総長から天皇に上奏済みとの記述は見あたらない」。

大本営の佐官たちが何の掣肘もなく外交ルールを無視していた様子が浮かび上がってくる。だがこの件に関して、瀬島龍三は何も語っていない。

電報握り潰し疑惑

台湾沖航空戦の虚報については保阪の『大本営発表という権力』に詳しい。海軍によるこの虚報によって陸軍は作戦を変更し、レイテ決戦が行われた。結果、山下奉文率いる第十四方面軍は惨敗し、撤退先のルソンで絶望的な最期を迎えることになる。

虚報の責任は海軍にあるが、「実は、当時大本営のある情報参謀が、台湾沖航空戦での戦果は事実ではなく、これは点検の要ありと大本営に出張先から電報を打っていた」(「第三章 敗戦に至る軍人の軌跡」)。「ある情報参謀」とは堀栄三である。しかし、堀の貴重な情報が顧みられることはなかった。

取材を進めているうちに、かつての大本営参謀の間で密かに語られている事実に出会った。(略)この証言の確認はとれていない。それを前提に記しておくことにする。

堀の暗号電報は解読されたうえで、作戦課にも回ってきた。この電報を受けとった瀬島参謀は顔色をかえて手をふるわせ、「いまになってこんなことを言ってきても仕方がないんだ」といって、この電報を丸めるやくず箱に捨ててしまったという。そのときの瀬島の異様な表情を作戦課にいた参謀たちは目撃しているというのである。

客観的にみて、堀の電報が検討の対象になって、海軍からの報告のあった過大な戦果がくつがえったとしても、比島作戦の大勢に影響はなく、遅かれ早かれ日本はやはり敗戦の道を歩むことになっただろう。しかし、レイテ決戦で死んだ兵士幾万余の犠牲は避けられたかもしれない、という推測は充分成りたつのである。

(「第三章 敗戦に至る軍人の軌跡」)

堀によれば、戦後、シベリアから帰国した瀬島は、電報を握り潰したことを堀に告白したという。しかしこの「告白」を瀬島は否定している。

2010/05/29/Sat.

副題に「石原莞爾と昭和の夢」とある。大著である。

本書は、日蓮宗を熱心な信者であり、天才的な軍略家でもあった石原莞爾の思想と、その精華である満州国、そして日本が闘った戦争を、広範な観点から多角的に論じた評伝である。単なる伝記的事実の羅列に留まらず、当時の国内および世界情勢、そこに至るまでの歴史的経緯も余さず描かれている。

石原のヴィジョンを数行で要約することは難しい。細部については本書を読んで頂く他ない。以下は、大略のほんの一部である。

まず、高名な「世界最終戦争論」がある。この予言的な理論は、決して荒唐無稽な夢想ではなく、石原の卓越した軍事的思索が辿り着いた一つの結論である。軍事のみならず、社会、経済、外交は無論、民族、国家、歴史に至るまで、石原の思想を支える視野は多岐に渡る。石原は、極めて大きな理想を語る一方で、精確に「現実」を認識・分析・把握する能力に長けていた。この能力は、石原が属した帝国陸軍や、ある時期からの日本政府に最も欠けていたものでもあった。これが石原の不遇の一因となる。

もう一つ、東亜連盟に代表される石原の民族観、国家観がある。世界各国に植民地を築き、黄色人種への偏見に満ちていた西欧諸国に対し、「遅れてきた帝国」である日本が、アジアの盟主としていかに世界と対峙するか、そしてアジアの民族自決をどのようにして達成するかという問いである。

これら二つの思想的結節点として満州国が必要とされ、石原は満州事変を起こした。

満州とは何か。現在では、古来より中国の一部であったかのように思われている満州だが、歴史的に見れば決してそうではない。著者は、満州の来歴、地政学的意義、当時の状況について多大な筆を費やしている。いささか日本の擁護が勝ち過ぎているようにも思われる——実際、朝鮮に関する記述はほとんどない——が、満州の特殊性については学ぶところが多い。

石原の卓抜した戦略によって、満州国は電撃的に建国された。五族共和、王道楽土、大東亜共栄圏といった理念が唱えられ、大志を抱いた日支満蒙の人々によって国は動き始めた。これらの理想は、今では「綺麗事」であったと認識されている。哀しくもそれは事実である。日本の行動が、満州に起ち上がった観念を「綺麗事」にしてしまった。しかし、少なくとも建国当時は、そして石原は、理想に向かって真っ直ぐに進んでいたのである。

あまりにも迅速に事が決した満州事変において、石原は、帝国陸軍に大きな誤解と先例を与えてしまった。一つは支那への侮りであり、一つは軍部の独走である。この二つが、石原の理想と満州国、そして最後には日本を破滅させることになる。皮肉といえばそれまでだが、石原の懊悩は深刻なものであった。そして、石原が抱いた絶望と後悔が、後半生における思想的展開を決定することになる。

日本の戦争は、ことごとく石原の思想とは反対の方向へと突き進んでいった。したがって本書は、石原莞爾を通して、「第二次世界大戦とは何であったか」という巨大な問いに、新たな光を投じるものでもある。

2010/05/22/Sat.

本書は、十九世紀に二十代で不朽の業績を残した数学者たち六人の評伝である。なぜ十九世紀なのか。

よく知られているように、19 世紀は、自然科学の歴史では、特色のある時代である。(中略)『すべてのものを、根底にまで掘りさげて検討する』という精神が生まれ、数学においても、あらゆる分野において、「不安定な概念」から出発することを避けるようになった。(中略)これによって、数学は飛躍し、20 世紀への大きな遺産となって、われわれに伝えられたのである。

(「あとがき」)

採り上げられている「大数学者」は以下の通り。

  1. ガウス (Johann Carl Friedrich Gauss, 1777-1855)
  2. コーシー (Augustin Louis Cauchy, 1789-1857)
  3. アーベル (Niels Henrik Abel, 1802-1829)
  4. ガロア (Evariste Galois, 1811-1832)
  5. ヴァイエルシュトラス (Karl Weierstrass, 1815-1897)
  6. リーマン (Georg Friedrich Bernhard Riemann, 1826-1866)

「数学の話をするのが目的ではないので、業績の面では、ただ仄めかす程度にとどめておいた。そのかわりに、生涯については、わたしが、戦後四回のヨーロッパ旅行で集めた、確かな資料にもとづいて、できるだけ詳しく紹介しておいた」(「あとがき」)とあるように、それぞれの数学者の人生が活写されており、読み物として楽しめる。

ガウスの評伝はやや迫力に欠けるが(彼の魅力は「業績」の多彩さ、豊富さ、先見性にこそある)、悲惨であったガロアの境遇や、ヴァイエルシュトラスとソーニャ・コヴァレフスカヤとの間に交わされた心暖まる手紙などは読み応えがある。

2010/05/21/Fri.

高木貞治は、本邦初の世界的近代数学者として高名である。

クロネッカーは『一般に、二次の虚数体 K の相対アーベル体は、1 の乗根と楕円モジュール函数の不変式に K の数を入れたものとで、尽くされるであろう』と推測した。ヴェーバーやヒルベルトといったドイツの第一人者が、全力をあげて解決に突進した。しかし、どうしても、うまくいかなかったので、数学界では、とうとう弱音をあげて、「クロネッカーの青春の夢」と呼び、投げたような格好になった。

こんなときに、わが高木貞治は——藤原松三郎の言葉を、そのまま借用すると——極東から世界の数学界に投げかけた光彩奕々たる業績 Uber eine Theorie des relativeabelschen Zahlkorpers「相対アーベル体について」において、相対アーベル数体の理論を完成し、これに関連して、クロネッカーの推測を解決したのである。

小堀憲『大数学者』「ヴァイエルシュトラス」)

高木貞治は帝国大学第一回卒業者である。数学専攻の同期は僅か三名だったという。このような時代における高木の業績は驚くべきものだが、同時に、高木の才能を漏らさず拾い育んだ、明治政府と帝国大学の炯眼も瞠目に値する。

本書は、高木が雑誌に寄稿した原稿や、講義で話した事柄をまとめたものである。古い時代のものだが、現代に通ずる内容も多い。

数学に練習は必要であるが、その練習問題の選択と、その数ということに注意せねばならぬ。(中略)形式の極っているものを上手に解くということは、必ずしも数学を能くするということとは一致しない。(中略)されば書物にある練習問題のよく出来るのと、実際に数学が出来て、本当の意味の応用問題の解けるということとは並行せぬ。一般学生の数学の力の乏しいというのは、これらが原因になってはおらぬか。

(第1部「どうすれば数学の力を養うことができるか——問題の急所を衝け」)

上記のごときは、現代の受験数学を論じているようにしか見えない。しかし、この文章が発表されたのは明治四十三(一九一〇)年なのである。この百年間、我が国の教育者は何をしていたのか。

また、暗記を皮肉った文章などは爆笑ものである。その昔、欧州では、三段論法における命題の組み合わせを暗記するために、 Barbara の詩というものが作られた。

論理を暗記する(!)ために作られたバルバラ姫の唱歌は中世 Middle Age のにおいがプンプン致します。試みに僕の空想を申してみましょう。ロオマ法王華やかりし時代を想像してご覧なさい。その頃、学問と言ったものは、僧院の内で、かろうじて命脈を繋いでいたのでしょう。ところですべてのボンサンが必ずしも bon sens の持ち主でなかったろうことは、容易に想像されるでしょう。彼らが宗論でもしようという場合、その宗論なるものが、およそ論理的というようなことは縁遠いものでもありましょうが、ただ討論に勝ったか負けたか、それも判然しないのは心細い。その時、頼りになるものは、バルバラ信女の称名ではなかったでしょうか。学問が大衆に解放された今日でも、どこか世界の隅々にバルバラ式が命脈を保っているようなところがありはしないでしょうか。

(第1部「訓練上数学の価値 附 数学的論理学」)

他にも紹介した小文は色々とあるが割愛する。高木が留学先で師事したヒルベルトに関する逸話など、数学史的に貴重と思われる記述も多い。

2010/05/18/Tue.

一九七〇年十一月二十五日、三島由紀夫は楯の会会員とともに、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁し、自衛隊員にクーデターを呼びかけた後、割腹して果てた。

いわゆる三島事件であるが、自衛隊への体験入隊から楯の会結成、そして事件に至るまでの行動を、「作家」三島由紀夫のものとして理解して良いのかどうか、一抹の疑問が残る。保阪正康は「三島事件」ではなく「楯の会事件」という呼称を提案している。

保阪の『三島由紀夫と楯の会事件』によれば、楯の会の会員たちは、決して「作家」三島由紀夫の文学に惹かれて集ったのではない。それどころか、三島作品など読んだことがない者も多数いたという。また、三島もそれをよしとした。

しかし、それだけで「楯の会事件」として良いのか。会員たちが三島に心酔しており、心身ともに一丸となって活動していたのは事実だが、果たして会員たちに独自の政治信条、確たる行動原理はあっただろうか。どうもそういう印象はない。

事件後、楯の会会員たちは、三島への想いを胸に沈黙を守り、政治的な行動は起こさず、市井の人間として堅実に生きているという。素晴らしいことだが、それは、事件の主体が「楯の会」ではなかったことを証明もしている。やはり事件の主体は三島、それも「作家」ではない人間・三島由紀夫なのである。だから、あの事件は「平岡公威事件」とするのが良いようにも思う。

本書は、三島由紀夫および楯の会会員たちに訓練をほどこした自衛官たちへのインタビューを基に構成されている。自衛官たちもまた、その政治的意見には同調できなかったにせよ、三島、否、平岡公威に敬意の念を覚え、互いに真摯な態度で交流を深めている。

体験入隊という名目だが、三島が自衛隊で受けた訓練は、それなりのメニューだったようである。三島は訓練を真面目にこなそうとしたし、教官や同僚も三島への遠慮はなかった。

のちに陸上自衛隊のトップである陸上幕僚長に昇りつめる冨澤暉は当時富士学校に勤務していたが、三島と一緒に風呂に入った同僚があとでこんなことを口々に言い合っているのを耳にしている。

「筋肉をつけても骨がちっちゃいから、あれは迫力ないわ」

中には露骨に馬鹿にする口調で「みすぼらしい」と言い放つ者もいた。

ふだんは三島のことを先生と呼んでいた山内も、いったん訓練に入ると、本名の「平岡」と呼び捨てにした。それが駈け足の場面ではつい声を荒らげることになった。

「平岡ッ、こら! 何やってるんだァ」

(第一章「忍」黙契)

本書には平岡公威事件に関する考察はほとんどない。ただひたすら、平岡公威の自衛隊におけるエピソードが列挙されている。それによって、三島由紀夫の風景もまた、生々しく起ち上がってくる。

巻頭には貴重な写真も掲載されている。書道のことなど一切わからぬが、三島の文字には感じるものがあった。

2010/05/17/Mon.


副題に「ヴェネツィア共和国の一千年」とある。フィレンツェの存亡を描いた『わが友マキアヴェッリ』と合わせて読むと面白い。

ヴェネツィアの共和制は長い月日をかけて洗練された、非常に理想的な制度である。当時では他に類を見ないほど自由な言論や信仰、議会での決定の遅さを補うための十人委員会、権力や財力とは直接に関係しない清廉な貴族制などなど、完全に近いがゆえにユニークな政体なのだ。

そのヴェネツィアの歴史を書いた本書がしばしば退屈になるのは、共和制を維持するためにフィレンツェ市民が貫き通した「英雄は無用」という思想に依る。とにかく目立った人物が出てこない。主語の多くは「ヴェネツィア政府」であり「ヴェネツィア海軍」であり「ヴェネツィア市民」である。全市民が愛したロレンツォ・メディチや、ルネサンスの精華であるダ・ヴィンチ、ミケランジェロを擁したフィレンツェ人とは、随分と印象が違う。

ヴェネツィア人は海の民であり、ヴェネツィアの政体は自国の通商を保護することを第一の目的として機能した。彼らが望むのは滞りのない経済活動であり、そのために必要な拠点とその安全である。したがって領土的な野心はなく、軍備は防衛のために組織され、外交を重視し、情報には最大かつ細心の注意が払われた。

しかし、いくらヴェネツィアの政治が安定していようとも、歴史の大きな流れには逆らえない。まず、トルコ帝国が台頭し、東方と西方を結ぶ最大の都市であるコンスタンチノープルが陥落する。次いで、東地中海の覇権もトルコに奪われた。

また、欧州にはフランス、ドイツなどの中央集権的な帝国が現れる。これらの国々は、その領土の大きさから曲がりなりにも自給自足が可能であることから、必然的に——ヴェネツィアが中心的な役割を果たしてきた——通商の重要性が下がった。後年、ヴェネツィアも「本土」を拡張することで工業的な躍進を遂げるようになるが、その拡大は、領土と国民の拡大そのものが目的である帝国のそれとは違い、そして、まさにその違いによってヴェネツィアは滅亡することになる。一七九七年、ヴェネツィアは「英雄」ナポレオン・ボナパルトに降伏した。

ヴェネツィアの歴史を顧みると、自国の平和とは何であろうかという疑問が湧く。ナポレオンに降伏するくだりなどは、黒船によって開国した江戸幕府を見るようである。国内が平和であることと、自国を守ることは必ずしも同じではない。これは現代の自衛隊問題とも通じるところである。

2010/05/16/Sun.

塩野は「マキアヴェッリ」と表記しているが、読み書きしにくいので、ここでは「マキャヴェリ」で通す。

話は逸れる上、塩野に噛み付くわけでもないのだが、原語での発音を重視して、およそ日本語らしからぬ表記をカタカナで行うことに、いったいどういう意味があるのか。発音に忠実でいたいのなら、最初から "Machiavelli" と書けばよろしい。違うか。

さらに話は逸れるが、中国人名は日本式の発音をするのに対し、韓国人名がそうでないのは何故か。例えば「胡錦涛」を日本では「こきんとう」と発音するが、これは中国語の発音「ホゥーチンタオ」(©Wikipedia)とは違う。一方、「李明博」は「りめいはく」という日本式ではなく「イミョンバク」という韓国式で通す。日本式でいくのか、現地式でいくのか、どちらかに統一しろ。

それで、マキャヴェリだが(と塩野風に書いてみる)、不勉強にもこの人間がフィレンツェの官僚であったことを本書で初めて知った。『君主論』を始めとする一連の思想は、マキャヴェリの純粋な思索の結果ではなく、彼の見聞や行動や経験を通して得られた、むしろ「知恵」に近いものである。であるがゆえに実践的であり、現代に至るまで著作が残っているわけだ。

マキャヴェリは官僚としてどのような現実を生き、職を追われてからは何を考えたのか。これらの事柄を通じて、十五世紀から滅亡に至るまでのフィレンツェ史が語られる。副題に「フィレンツェ存亡」とある通り、本書の主役は都市国家フィレンツェである。

マキャヴェリが生きた時代のイタリア半島は、いまだ都市国家(フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ法王庁、ミラノ、ナポリなど)が割拠する状態だった。当時、イタリアの周囲には、トルコ、フランス、ドイツ、スペインといった中央集権的な帝国が成立しており、歴史の大きな流れを後世から見て評せば、イタリアは「時代遅れ」だったといえる。

政体が安定し、法王庁とも一定の距離を置いていたヴェネツィアは曲がりなりにも独立独歩を保っていたが、法王庁と密接な関係を持つメディチ家という有力家系が存在し、フランス王の顔を窺い、自国の防衛は傭兵に任せ、チェーザレ・ボルジアの動向にやきもきし、共和制と僭主制を行ったり来たりする不安定な政情のフィレンツェには、行政・外交上の課題が山積しており、フィレンツェ共和国第二書記局書記官であったマキャヴェリは、外交官として問題の大小を問わずあちこちに派遣され、その椅子は暖まる暇もなかった。外交官であると同時に、彼は大統領の秘書官でもあり、行政官としても多大な仕事を抱える。どうもワーカホリックであったようだ。

マキャヴェリは優秀な官僚であったが、政策を決定する権限を持っておらず、また持とうともしなかった。それゆえ冷静に、権力の在り方、その行使のされ方を見つめることができたと思われる。この経験が、後に『君主論』その他の著作に生かされることになる。本書ではマキャヴェリズムの中身より、むしろその成立過程をよく知ることができる。マキャヴェリズムを知りたければ『君主論』を読めばよろしい。面倒ならば、塩野の『マキアヴェッリ語録』でも良い。

解説は全巻、佐藤優。自らの官僚経験をマキャヴェリのそれと重ね合わせているのが興味深い。

2010/05/09/Sun.

スペースシャトルの計画、設計、技術、運営を批判的に記述している。解説は堀江貴文。

計画

アメリカの宇宙計画には公共事業的な性格がある。地元の宇宙産業に金を落とすため、団体のロビー活動や議員の運動が繰り広げられる。本来なら、技術的な面から検討されるべき計画が、極めて政治的に決定される。

スペースシャトル計画は、アポロ計画の次のプロジェクトとして決定された。このとき、スペースシャトルではなくアポロ宇宙船の発展というプロジェクト案もあった。既に実績のあるアポロ宇宙船を改良・発展させれば、短期間・低予算で計画が遂行できた可能性はある。しかしそれでは「地元に金が落ちない」ので、全く新しいスペースシャトルをゼロから開発することになった。

設計・技術

帰還時の僅かな時間にしかメリットが見出せない「翼」を持つなど、スペースシャトル、および発射のためのロケット、エンジンには、首をかしげたくなる設計が採用されている。

特に翼は、二〇〇三年二月一日の「コロンビア」空中分解事故の原因となるなど、スペースシャトルの安全性にまで関わる重大な設計ミスとすらいえる。

運営

当初の計画では、スペースシャトルは年間五十回、すなわち週に一回程度の運用を目指していた。しかし、実際に打ち上げられたのは、一九八一年から二〇一〇年までの約三十年間で僅か百三十余回であり、年間打ち上げ回数は一九八五年の九回が最高である。また、一九八六年一月二十八日の「チャレンジャー」爆発事故、上記「コロンビア」空中分解事故の二件が発生している。

年間五十回の打ち上げを前提とした、スペースシャトルを利用するその他の宇宙計画は遅れに遅れ、各国各人の時間と経費は無駄に費やされた。日本および日本人も例外ではない。

運営が滞った理由の一つに、技術上の問題がある。技術的な問題は設計上の理由から発生しており、設計的な問題は元々の計画に起因する。そして、スペースシャトル計画の立案には政治的な思惑が複雑に関わっており、まさに「どうしようもない」というのがスペースシャトルの実像であった。

ベンチャー

様々な問題を持つスペースシャトル計画であったが、莫大な金額・時間・人材を投じた結果、米国には幾つかの宇宙ベンチャーが生まれるようになった。現在、これらのベンチャー企業は自前でロケット、エンジンを開発し、試験的ながらも宇宙に打ち上げるまでの技術を持つに至っている。近年では、NASA もこれらベンチャー技術の採用を検討しているという。民間の資金が投入され、法的な整備が進めば、民間ベースの宇宙産業も意外と早い時期に実現するかもしれない。

2010/05/08/Sat.

私は共産主義に反対する者だが、一九九一年十二月二十五日にソ連が崩壊してから二十年、既に「反対」する価値すらない共産主義に対して、歴史的な関心は持っている。

その前に、共産主義に反対する理由を述べておく。

一つは、共産主義が理論先行型の思想であり、しばしば理論に則するように事実を歪曲して捉えること、また理論に沿うような事実を作り上げるために活動することが挙げられる。これは、事実から論理をもって理論を組み立てる科学とは正反対の思想であり、現実認識の方法として、とても受け容れられるものではない。政治や経済以前の、哲学的な問題である。

もう一点、これは歴史的な興味とも関連するのだが、日本共産党がコミンテルンの日本支部に過ぎず、外国人によってその方針が決定され、活動が「指導」されてきた事実は無視できない。自国民の意思が反映されない政党の存在理由とは何か。これも、経済以前の問題である。

共産主義の現実的な脅威を感じたことのない年代に生まれた私の態度は、反対というよりもむしろ無関心に近い。だから正確にいえば、私の歴史的関心は、共産主義にではなく、もっぱら日本共産党に向けられている。

ところで、「天皇制」という言葉はコミンテルンが作った用語の翻訳である。日本共産党が使うまで、こんな単語は存在しなかった。今やすっかり日本語として定着しているが、よく考えてみれば、天皇および天皇家の存在を「制度」として捉えるのは、日本史を顧みればいささか奇妙な感覚である。

日本共産党は「天皇制」を「粉砕」しようとした。主張自体は自由だから、否定も肯定もしない。しかし、日本史上の一大奇観であるには違いない。時代の権力者が天皇家を利用したり、天皇個人を幽閉や流刑に処した事実はある。だが、「天皇制の粉砕」を公言し、それを目的として活動を展開した勢力は存在しなかった。この点に興味を惹かれる。これは、「本邦の権力は、なぜ天皇家を抹殺しなかったのか」という日本史最大の謎の裏返しでもある。

本書の中身は題名の通りである。著者は長年、共産党の国会議員秘書として務めていたが、入党三十数年に至って突然除名され、本書の執筆に至ったという。にも関わらず、筆致は感情的ではなく冷静である。

前半では「戦前秘史」にも触れており、通読すれば日本共産党の歴史が一望できる。特に、著者が「武装蜂起の時代」と名付けた、いわゆる「五〇年問題」「極左冒険主義」についての記述は、未発表の資料が駆使されていて読み応えがある。

以下の指摘には蒙を啓かれた。

これまで、「五〇年問題」(軍事闘争)について書かれたものを読むと、朝鮮戦争がこの問題が起こったときの「環境」として描かれている。しかし、朝鮮戦争が「環境」だったのではなく、「軍事闘争」が朝鮮戦争の一部分だったのであって、朝鮮戦争のためスターリンや毛沢東などによって後方撹乱として企図せられたものである。

(中略)

「五〇年問題」とは、一九五〇(昭和二十五)年一月から、約五年半であると冒頭に書いた。さらに、この期間のなかで、「軍事闘争」「武装蜂起」に励んでいたのは、第五回全国協議会(五全協・一九五一年十月十六日)から、朝鮮戦争が休戦する一九五三(昭和二十八)年七月二十七日までの一年九ヶ月間である。朝鮮戦争が終わると日本共産党の「軍事闘争」もピタリと終わってしまった。

日本共産党の「軍事闘争」の目的は、朝鮮戦争の後方撹乱であるから、戦争が終わったらもはや必要がないからである。

(第三章「武装蜂起の時代」)

日本共産党に興味を持つ人は必読である。