- Book Review 2010/07

2010/07/23/Fri.

司馬遼太郎の対談集。

2010/07/22/Thu.

司馬遼太郎の対談集。

2010/07/11/Sun.

「五菱会ヤミ金融事件」のレポート。

五菱会山口組系二次団体であるが、この事件を実際に構成していたのは、「闇金融の帝王」と呼ばれた梶山進である(闇金融に専念するために梶山は五菱会を辞めている)。梶山とその七人衆が統括する数百店舗の闇金融店が得る資金は、五菱会を通じて山口組に上納されていたと考えられている。

二〇〇二年、暴力団組織の「血液」であるところの資金を封じるため、関係当局は梶山の闇金融店を摘発し始めた。危険を感じた梶山らは、彼らの資金(梶山だけで百億円以上、その他数十億円)を海外に移すことを画策する。もちろんこのような怪しい大金を、正規の方法で、しかも短期間に動かすことはできない。そこで使われたのが、割引債と海外プライベート・バンク(この事件ではクレディ・スイス香港)を組み合わせたトリックである。この仕組みは、クレディ・スイス香港の従業員(日本人)が案出、提示した。

一方、当局側も資金洗浄に対する規制を強化しており、様々の組織がまさに整備されつつあるという状況だった。本件は、その新組織が巨大な資金洗浄に立ち向かう物語である。捜査本部は、整備されていない法律、なかなか進まない海外捜査陣との協力といった困難を乗り越え、立件に成功する。

梶山らが行った資金洗浄の実際、そして具体的な捜査の進展については本書を読んでほしい。よくできた犯罪小説のようで、大変面白い。

本書では他にも、犯罪で得られた不正資金に対する各国政府の対処状況、海外銀行の営業状態、過去の犯罪事例などが報告されている。犯罪資金に関する日本の対応は遅れていたが、本件を契機として法整備などが進み、裁判の判例や、検察・弁護士による被害者対策も充実しつつある。

本書は、「五菱会ヤミ金融事件」というエポックメイキングな実例を通じて、犯罪資金や資金洗浄、それらへの社会の対応について知ることができる良書である。

2010/07/10/Sat.

玉虫文一、竹内敬人・訳。原題は "A SHORT HISTORY OF CHEMISTRY"。

アシモフ独特の軽妙な筆致で描かれた化学史。「物質の性質や構造の根本的な変化が化学変化である」(「第1章 古代」)とし、火の使用から始まる本書の歴史は核爆弾に終わる(原著の出版は一九六五年)。

あくまで化学史であるので、個々の発見についての具体的で詳細な解説は省略される。代わりに、膨大な数の化学者が登場し、彼らの歴史への関わりが記述される。これは、科学が紛うことなき人類の営みであること、個々の具体的な「誰か」の仕事の蓄積であることを物語る。人間に対するアシモフの愛情を感じられる一冊である。

本書が扱う事柄は高等学校レベルであり、読破に困難はない。学校で習得した知識が、どのような歴史的経緯で発見されたのかを学ぶには最適だろう。

2010/07/09/Fri.

二〇〇〇年十一月五日、毎日新聞は、東北旧石器文化研究所副理事長(当時)藤村新一が、宮城県上高森遺跡の発掘現場に石器を埋めている様子を撮影した連続写真を発表した。同時に、藤村がこれまでにも、旧石器の発掘を捏造し続けてきたという事実までスクープした。これにより、日本の前期・中石器時代の遺物、遺跡、研究がほぼ完全に否定される事態となった。いわゆる「ゴッドハンド事件」である。

『発掘捏造』では、同スクープに至るまでの取材班の苦闘が描かれている。また、当時に旧石器時代研究の歴史的概略、学界の様子、遺跡発掘の実際などが解説され、問題を立体的に把握できるようになっている。考古学に興味がある人はもちろん、研究に関わる全ての人間が必読すべきレポートになっている。

『古代史捏造』では、発覚した一連の捏造事件の詳細、考古学会その他によってなされた学術的検証、そして、それらによって我が国の古代史がどのような修正を受けたかが報告されている。

この二冊は二〇〇三年に文庫化されたばかりだが、しかし現在では早くも絶版になっている。社会の公器を自称するのであれば、毎日新聞社と新潮社はすぐに再販すべきであろう。

旧石器捏造事件の詳細については本書に任せ、以下に「捏造」についての個人的な感想を述べる。

学問において、証拠の捏造はあってはならぬことである。ただ、一人の研究者として、捏造という行為が生まれ得るものであることも理解している。無論、捏造を肯定するわけではない。社会から決して犯罪がなくならないのと同じレベルで、捏造問題を認識している。研究者にとって、それだけ「捏造」はリアルなものなのである。

したがって課題は、自分が犯罪者にならないためにはどうすれば良いか、犯罪を可能な限り防ぐシステムをどう作るか、起こってしまった犯罪にどう対処すべきか、という現実的なものになる。

自身が主体となって捏造を行わない、というのは前提となるべき当然の倫理である。問題は、他者の捏造を見抜くことができるか、見抜いた場合、それを指摘できるかということである。

自然科学において、捏造の指摘はそれほど困難ではない。再現可能な実験によって、確固としたデータを提出すれば良いからである。この点、自然科学は考古学(を初めとする人文学)よりも「事実」が厳然としている。検討されるのは白黒が判然とした実験結果であり、議論に依存する割合が低いので、個々の研究者の力関係は(最終的には)問題にならない。また、事実の確認や査定は、全く利害関係のない世界中の科学者によってなされ得る。捏造がその命脈を長く保つのは難しい。

捏造を疑えば、それを指摘することは可能である。では、どうすれば捏造を疑う、すなわち見抜くことができるだろうか。当該分野の正確な知識に精通しておくのは当然である。しかしこれは、専門家としての前提条件でしかない。捏造する側も専門家であるから、これだけでは不充分である。むしろ、研究者という特殊な人種の集団、研究という行為がなされる社会的環境、その研究の歴史的な位置付け、関連する他分野との整合性などに対する、広い視点こそ必要とされるのではないか。これらの観点は、当然、自らの研究を発展させる際にも有効であろう。捏造を看破するのは、いつも優秀な研究者である。

捏造を見抜く力を養う以外に、捏造を抑止する方法はない。いくら罰則を設けたところで、捏造が発覚しなければ効力は発揮されない。

捏造報道の多くは、ただひたすら「けしからん」というばかりで、実効性のある提案を行わない。僅かに触れられるのが「重罰化」である。上述の通り、これは対処療法でしかない。「捏造は起こり得るもの」と認識し、優れた研究を奨励することが——遠回りではあるが——、捏造を撲滅する正道であることが、まずは理解されるべきであろう。

本書を読んで気付いたのは、捏造の着想ー発生ー発覚ー証明ー対処といったプロセスが、一般的な犯罪および捜査のそれと極めて類似していることである。学界といった特殊な世界の出来事ではあるが、捏造は何か特別な行為ではない。帳簿の操作といった経済事件とも似ている。捏造に対しても、もっと犯罪学的なアプローチがなされるべきであろう。

2010/07/08/Thu.

「昭和二十年八月十五日をはさんで、その前後五ヵ月間のなかから、日本を変えたと思われる政治、軍事上の動きをとりだし」た一冊(「旧版 はじめに」)。

頁数の都合もあってか、それぞれの主題に関する記述はそれほど詳細ではない(各テーマは、それ一つで何冊も本が書けるほどのものだから当然である)。

八月十五日を中心に、その前後数ヶ月の流れを追うという試みは成功している。もちろん「戦争指導」や「戦後民主主義」などは、この短い期間に収まる問題ではない。しかし、これらを半年以内に起こった出来事と関連して論じることによって、八月十五日を境にした大きな転換、慌ただしくも濃密な時間が描かれている。

本書で興味深いのは、著者の保阪が、自分の依って立つ思想的原点を、比較的赤裸々に述べている点であろう。

[註・戦後]わたしは小学校にはいってまもなく、新聞の題字を集めることに凝った。(略)あるとき、見慣れない新聞の題字を見つけた。家に走って帰り、それをアルバムに貼った。(略)父親は、わたしのアルバムを見ていたときに、その題字に気づき、それを外すようにいい、わたしが抗議している間にアルバムからはがして燃やしてしまった。その題字は『アカハタ』であった。父親は、「こんな新聞があったというのは、人に言ってはいけない」と何度もいった。

(略)

母親は、東京の進歩的な女性雑誌だかに、戦後民主主義を喜んでいる女性を主人公にした小説か評論かは知らないが、原稿を送って入選したことがあり、それを父親が読んで連日のように夫婦げんかをしていた。(略)いま思えば母親は、マッカーサーの人権指令以後の一連の政策にかぶれて有頂天になっていたことがわかるのだ。マッカーサーが、とか、占領軍が、という主語を、わたしの母親の口からなんどもきいている。

(「解体への序奏曲第一小節」)

このような家庭(当時してはそれほど珍しくもなかったであろう)で育った保阪は、戦後民主主義の第一期生ともいえるを受ける。

敗戦直後から始まった GHQ の占領政策に呼応して、教育現場では日本軍国主義の解体が急ピッチですすんだ。わたしはその時期の教育を受けてきたわけだが、ここで得たものに、抜きがたく信奉の念をもっている。くり返すようだが、これを守り抜く以外にないという気持も強い。その反面で、これを絶対視しているだけでは思考形態の幅も狭くなり、本来見つめなければならないものを見失うかもしれないと自覚するときがある。

(「旧版 おわりに」)

これではまるで、戦後民主主義の礼賛者のようであるが、さすがにそれほど単純ではない。

わたしは、中学、高校時代を札幌市ですごしているが、中学では袴をはいた四十代か五十代と覚しき女性教師がいて、ある種の感性をもっている生徒を戦前の秩序に押しこむのに躍起となっていた。それがあまりにも異様であって、ことばでは民主主義を賛えながら、行動では憲兵まがいの性格がぬけきれていなかった。わたしはそうした教師がわけ知り顔で、デモクラシーを説いたりすると、その概念が汚れていくようで、その教師の時間には自閉症になったほどだった。

(略)

父親を戦争で失った友人たちが、わたしの周囲にも数多くいた。アッツ島、キスカ島、それに「北支」方面軍の戦闘で戦死していた。二十代の終わりか、三十代にはいったばかりで、彼らの父親は死んでいた。その彼らが、父親の死はまったく犬死にだといわれるのは、たとえそれが事実であったとしても、その子供たちには悲しいことであった。

(「庶民は何を見てしまったのか」)

戦後民主主義が「異様」で「悲しい」点に、保阪の留保がある。彼の著作に見られる、ある種のバランス(これは、保阪の思想が判然としないという批判と表裏一体ではある)は、このあたりに起因するのではないか。

戦後民主主義とはすなわちアメリカンデモクラシーだったという思いは一層強くなっている。「アメリカン」という語をとり払って、デモクラシーをより実体化していくのが、私たちの世代の役割だと思う。

(「旧版 文庫版あとがき」)

その是非はともかく、保阪の視点が明らかになっているという点で、本書は、彼の他の著作を読む際の指針になるだろう。

2010/07/07/Wed.

岩波現代文庫は、作品を通し番号で管理しているので、著者名を求めて書店の本棚を検索する際に大変不便である。改善を求む。

書評に移る。

五一二日間に及んだ勾留中に佐藤が記した、膨大なノートを整理してまとめた一冊。「獄中」というが、刑務所ではなく留置所の話である。もっとも、日本の留置所は「代用監獄」と呼ばれるほどで、刑務所と同じようなものではある。

佐藤が東京地検に逮捕されるまでの過程、取り調べにおける検事とのやり取りなどは『国家の罠』に詳しい。したがって本書では、対検事および対裁判用のメモはほとんど収録されていない。内容を大別すると以下のようになるだろう。

「獄中」における退屈な時間を、佐藤は学習と読書に捧げる。逮捕されるまでは外交官として殺人的に多忙な生活を送っていた佐藤にとって、「獄中」に流れる静かで規則正しい時間は決して苦痛ではなく、「快適」ですらあった。確かに、充実した時間を送っている。

「獄中」で佐藤が読破した本、思索した内容は、多種多様で多岐に渡るため、要約することはできない。以下に個人的な感想を記しておく。

巻末の「獄中読書リスト」を眺めて気付くのは、科学に対する佐藤の関心の低さである。語学(ロシア語、ドイツ語、チェコ語)、社会学、経済学、政治学、哲学、歴史、宗教(神道、仏教、キリスト教、イスラム教)に至るまで、難解な学術書や専門書を精読し、それらに基づいた独自の現状分析を展開しながら、しかし science に関する記述は全くない。「読書リスト」に、ローレンツ『ソロモンの指輪』と啓林館『高等学校 数学』が、僅かに挙げられるのみである。

(佐藤は、法学に興味はないと名言している。しかし科学に対しては、このような所感すら表明されていない)

学力低下問題については、歴史認識や宗教教育の不足を指摘するだけで、科学教育に対する論及がない。「学界」「頭脳流出」についても同様、理系の科学者は無視されている。軍事についても、「先端科学技術の精華であるところの現代兵器」といった視点がない。とにかく、見事なほどに科学が出てこない。

佐藤の知的守備範囲は広く、その思想にも目立った偏りはないが、科学に対する姿勢には大いに不満が残る。彼の現状分析は鋭く、憂国の情からなされる警告と、建設的な提案は傾聴に値する。しかしそこに、「米国で研究できれば良い。日本など知るか」という若い科学者を引き留める力はない。

現代の思想家は、科学について述べざるを得ない。噴飯物の論が多いのも事実であるが、それは単なる勉強不足であって、思索を敷衍した結果、科学に接触せざるを得ないという指向性に限っていえば、それは健康的な帰結である。

佐藤の思想は科学について無言である。その危険性を今は具体的に指摘できないが、やはり少しおかしいのではないかと思う。

2010/07/06/Tue.

産経新聞社の斎藤勉が聞き手となって展開される佐藤の語りに、二〇一〇年二月に書かれた長大な「文庫版あとがき」が加えられた一冊。「あとがき」では、間近に控えた二〇一〇年参議院議員選挙についても触れており、この部分だけを立ち読みするのも悪くない。

「本書には、作家佐藤優の原点がすべてつまっている」(「文庫版あとがき」)とあるように、『国家の罠』上梓後、比較的早い時期に行われたインタヴューである。後に佐藤が展開する議論の大半を見出すことができる。

新保守主義(ネオコン、neoconservatism)の解説が興味深かった。佐藤は、アービング・クリストルの著作『新保守主義、その思想の自伝』が「トロツキズムのメンタリティーとネオコンの共通性をよく示してい」ることを指摘し、その内在理論を以下のように解説する。

どういうことかというと、全能の神は、初めは全世界を覆っているのですが、人間と世界に自由を与えるために、自発的に収縮してしまうのです。この神が収縮してしまった空間にできたのが「この世界」で、そこで一部の人間は恣意的に振る舞うので悪が生まれ、神が収縮した後に残された空間は物質の世界なので、そこで世の中は、唯物論的に、つまり「力の理論」で動くことになります。他方、神が収縮して内在している世界は厳粛に存在するのですから、ここまでを含めて考えるならば、神は存在するのです。従って、唯物論的な「この世界」と神の存在が矛盾することなく説けるのです。

ちなみに、神が収縮した「この世界」において、悪を放逐することにより、神が収縮する以前の世界を回復することも理論的には可能になります。(略)

(略)

私が見るところ、ネオコンは十分神学的な課題で、要するに、何らかの「正しい理念」が存在するならば、それは彼岸ではなく此岸(この世界)で実現されなくてはならないというユダヤ教、キリスト教に流れる一つの潮流がクリストルの思想に端的に現れています。

(「第四章・ネオコン」)

ネオコンに限らず、それぞれの政治観、歴史観、国家観、民族間には独自の理論がある。しかし、その優劣を争うことに意味はない。重要なのは、自らが主張する論理空間を拡げるためには、相手の論理体系を正しく把握しなければならないという事実である。外交でいうなら、自国の国益のためには、相手の国益についても配慮しなければ成果は得られない、ということである。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」(孫子)。一言でいえばそういうことであろう。ただ、「敵」や「己」を知るために必要とされる知識は、現代では膨大かつ複雑である。本書は、込み入ったその現実を端的に示すことに成功している。一読した者は、知識に対する切迫した必要性を再確認するだろう。

2010/07/03/Sat.

内容は書名の通り。対談相手は以下の通り。

2010/07/02/Fri.

『フジサンケイビジネスアイ』の連載コラム「地球を斬る」の第一回から第六十回をまとめたもの。期間は二〇〇六年一月から二〇〇七年三月までとなる。

テーマは大きく四つに別れる。

  1. 「プーチンのロシア」を検証する
  2. 新自由主義下のアジアを読みとく
  3. 日本人と日本外交に「哲学」「戦略」はあるか?
  4. 暴力[テロリズム]と知[インテリジェンス]と生命と

それぞれのコラムに対し、充実した註と、その後の動向を追記した「検証」が付されている。この「検証」によって、各小文は、単なる時事コラムで終わることを免れている。各ニュースを「どのように」考えたか、そして実際に「どんなこと」が起こったかが並列されているため、国際関係を読み解くための問題集としても使えるだろう。

2010/07/01/Thu.

佐藤優と竹村健一の対談。

佐藤の母親は沖縄久米島の出身である、という話が特に面白かった。独自の歴史を有する琉球は、本土とは異なる思想を持っている。眼前の現実に対応するために培われてきた感覚、その細かな機微が描かれていて興味深い。

竹村 そもそも、沖縄は琉球王国という独立国で、それとは別の久米島という独立国があったわけね。

佐藤 十六世紀の初めまでは、そうです。琉球王国は独立国だからアメリカと単独で条約まで結んでいる。一八五四年に日本に来航した帰途、ペリーは沖縄に立ち寄って「琉米和親条約」を結んだのです。面白いのは、そのときペリーはひどく怒っていたことです。「琉球王国の連中は嘘ばかりつく」というのです。

これは岩波書店から出ている『日本近代思想体系』の第一巻「開国」に記述されています。当時、琉球の人は西洋人をすべて「ウランダ」と読んでいた。オランダが語源なのですが、そのウランダがやってきたときの対外応答要領、想定問答をつくっているのです。

「砂糖がどれくらい取れるのか?」「さあ、たいして取れません」

「日本との関係は……。従属しているのか?」「さあ、どうなっているかわかりません」

こんな形で、「できるだけ頭が悪いようにふるまえ」という趣旨です。要するに、何の資源も価値もない島だと思わせて、アメリカが占領意欲を失うように仕向けろというわけです。

「何も取れない。せいぜい中国や日本から物品が流れてくるだけの価値のない島。だから中国や日本に行ったほうがいいですよ」と誘導するような問答集をつくっていたのです。

(「第1章 沖縄から日本が見えてくる」)

沖縄の本土観、米国観は realistic であり、pragmatic ですらある。

竹村 それどころか、逆転の発想で沖縄の戦略的位置という点を考えると、アメリカが世界の最強国である限り、アメリカの基地があれば……。

佐藤 安全保障の論理からすれば、日本でいちばん安全な場所です。沖縄を攻撃するということは、アメリカと世界戦争に入ることを意味します。沖縄の人はそれをよくわかっているんです。

竹村 それをわかったうえで、基地反対の態度をとり続ける。そうすればお金も落ちてくる。沖縄の人は頭がいいね。

佐藤 その通りです。しかも頭を下げないでもお金が取れる。同時に沖縄の人々にとって基地をもつことが大きな負担になっていることは間違いない。それに、そういう基地の存在は一種の「麻薬」で、やがて抜けられなくなる。だから同じ沖縄のなかでも、真にグッドアイデアを生み出すのは基地が存在しない周辺諸島、久米島や与那国島などではないかと思います。

(「第1章 沖縄から日本が見えてくる」)

他にも色々な事柄について語られているが、その多くは『国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき』とも重なる。しかし、憲法論で佐藤と竹村の議論が対立する点などは、対談ならではの妙味といえよう。