- 『大本営参謀の情報戦記——情報なき国家の悲劇』堀栄三

2010/06/27/Sun.『大本営参謀の情報戦記——情報なき国家の悲劇』堀栄三

筆者である堀栄三については、保阪正康の『瀬島龍三』『大本営発表という権力』で何度か触れている。

昭和十八年十月、陸大出の堀は大本営陸軍参謀部の情報参謀に命じられた。堀は何度も、自らのことを「若輩参謀」と記している。これは謙遜ではない。陸大を含め、日本軍・政府には情報のエキスパートを養成する組織が存在しなかった(わずかに陸軍中野学校があるが、どちらかといえば諜報機関である)。誰もが情報に対して若輩であり新米であった。「若輩参謀」には、かような状況への複雑な想いが込められている。

堀は最初、ドイツ課に勤務するが、これは組織改編で間もなく解散し、続いてソ連課に回され、最終的に米英課に配属される。この間、一ヶ月。しかも米英課は、昭和十七年四月までは欧米課という大ざっぱなものであったというのだから驚く。真珠湾攻撃は昭和十六年十二月である。敵国専門の情報課が、この時点に至るまで存在しなかった一事を見ても、情報に対する日本の取り組みの甘さが理解できよう。

このような環境に放り込まれた堀に情報の心構えを説いたのは、父・堀丈夫(陸軍中将、元陸軍航空本部長・第一師団長)と土肥原賢二(陸軍大将、戦後 A 級戦犯として死刑)であった。この二人の言葉は、本書で何度も繰り返される。また、堀がニューギニアを訪れた際には、第四航空軍司令官(当時)寺本熊市(陸軍中将、終戦日に自決)から、航空戦力の必要性を存分に聞かされた。

大本営に戻った堀は、米軍の戦法研究を開始する。どのような情報の断片から、どのように推理し、米軍の戦術を再現していったかが、詳細かつ具体的に述べられている。そこからわかるのは、日本軍と米軍の戦略思想の隔絶であり、圧倒的な彼我の戦力格差であった。

陸軍を主力とする日本軍は、広大な太平洋上の島々を「点」として占拠している。これに対し米軍は、一方的ともいえる航空戦力をもって「面」として制空権を握り、粛々と作戦を遂行していく。米軍は、文字通り点々と存在する日本軍を、莫大な火力で各個撃破する。得られた飛行場から新たに航空機を飛ばし、前線を押し上げる。航続距離が許す範囲において、これを繰り返す(いわゆる飛び石作戦)。補給と情報の途絶えた日本軍は、ただ盲目的に玉砕を行うばかりであった。

しかし、この基本的な理解さえも、堀が戦術研究を行うまでは大本営に存在しなかった。もはや当事者能力を失っていたといっても良い。

ともかく堀は、自らの米軍研究を『敵軍戦法早わかり』という冊子にまとめ、これを普及せしめるべく、フィリピン第十四方面軍(司令官・山下奉文陸軍大将)へ赴くことになる。この途上、台湾沖航空戦の戦果を誤報と看破し、大本営にも報告するが、堀の電報は無視された(作戦参謀・瀬島龍三によって握り潰されたといわれる)。結果、大本営はレイテ決戦を命じ、ルソン島での決戦を期していた山下は、虎の子の師団をレイテ島に散らすことになる。

レイテ戦後、山下方面軍は絶望的な状態で、ルソン島に上陸する米軍と戦闘することになった。被害を最小限に抑え、米軍をできるだけ長くフィリピンに釘付けにするには、その上陸を正確に予測しなければならない。山下の情報参謀となった堀は、各種の情報から、米軍の上陸地点、時期、兵力をほぼ完璧に割り出すことに成功する(米軍は、あまりの正確さに内部情報の漏洩を疑ったという)。山下は堀に信を置き、その作戦をよく理解し実行した。

結果的に、第十四方面軍は終戦まで米軍をフィリピンに引きつけることに成功する。米軍の沖縄方面への増援は遅滞し、計画されていた九州南部上陸作戦はその発動を見ることなく終わった(この作戦についても堀は精確に看破している)。

山下と堀が戦った比島決戦は本書の白眉であり、上質な戦記としても読める。と同時に、日本軍の情報力不足が、痛烈な批判や痛切な反省とともに記されている。本質的に足りなかったのは、情報そのものではなく情報に対する認識であった。これは、現在の日本にも通じる警句であろう。