干しっぱなしだった洗濯物をようやく回収した T です。こんばんは。
大阪で開かれた研究班会議に参加してきた。久し振りの口頭発表(2002年 11月以来)で、非常に緊張する。練習不足で、というか 1回もリハーサルをしていなかったのだが、質疑応答の時間をほとんど食い潰すハメになってしまった。反省。でも、ほとんどの人が規定時間以内に終わっていなかったぞ。これはプログラムに問題があったというよりも、活気の現れとして捉えるべきだろう。
実際、K先生も「良い発表だった」と褒めてくれたわけで。いつも何かといちゃもん御指摘頂く K先生にしては、大変珍しいことである。気持ち悪いな、年明けから。懇親会で M先生に御挨拶できたりと、研究以外の収穫にも恵まれた、実りある会議であった。
「タンパク質は化学物質」の話でも少し書いたが、物理化学をやっている人は、物凄く「定量化」あるいは「定量的であること」にこだわる。そしてよく、「生物の人には定量性がない。定性的だ」と言う。これは相対的な傾向としては事実である。
定量化を実現する唯一の方法は、測定の精度を上げることだ。精度を高めるためには、ノイズを除去し、感度を上げれば良い。しかし、実験してみればわかることだが、この両者は互いに背反である。ノイズを除去するには感度を下げねばならず、感度を上げるとノイズを拾ってしまう。このパラドックスは、実験系をシンプルにすることによって一応の解決をみる。むしろ物理学の場合、問題をシンプルにした方が本質をつかみやすい。
ひるがえって生物学の場合、ことはそう単純ではない。何故ならば生命の特質の一つに、「ある程度以上の複雑さ」というものがあるからだ。生物学における実験系の簡略化は、問題の本質から遠ざかる運命にある。要するに、探求の対象が「生物」でなくなってしまうのだ。実にこの点が、物理学とは根本的に異なる。だから生物学には、in vivo、in vitro、in silico などという用語がある。「vivo でどうなってるかはわかりませんが」というのは、生化学者の常套句だ。理論物理学が、まだ測定されていない実験結果をドンピシャに予言するのとは大違いである。
俺は何も、「定量的であれ」と言う物理化学者に憤っているわけでも、なかなか定量的になれない生物学者を嘆いているわけでもない。問題となるところがわかれば答えも簡単で、生物学が、その尊厳を保ちつつ定量化への脱皮を果たすには、生体内での観測精度を上げれば良い。これが昨今、1分子イメージングなどが大いに流行している原因なのだろう。というか、「流行している原因を考えたらこのようなストーリーに辿り着いた」が真相なんだけど。
班会議に出席しながら、そんなことをボンヤリと考えていたわけで。
デイヴィッド・アチソン『数学はインドのロープ魔術を解く 楽しさ本位の数学世界ガイド』を読了。これもハヤカワ文庫<数理を愉しむ>シリーズの1冊。かなり平易で、いわゆる数学パズルの本に近い。写真や挿し絵も豊富でサクサク読める。何よりも良いのは、この本が横書きで構成されている点だ。これは是非、他の<数理を愉しむ>シリーズでも採用してほしい。専門書でないとはいえ、やはり縦書きの数式を読むのは苦痛である。
目下、E・T・ベル『数学は科学の女王にして奴隷』を読書中。これは読破後、「Book Review」にて御紹介する予定。昨年後半から、頻繁に数学・物理学の本を読むようになった。今年は他分野にも触手を伸ばしたい。化学関係で、何か良書はないだろうか。