- ネクタイの洗い方

2005/01/14/Fri.ネクタイの洗い方

足の皮に続き、手の皮も剥け出した T です。こんばんは。

ネクタイの洗い方

班会議公募の面接で着たものをクリーニング屋にブチ込んでからラボへ。Yシャツはクリーニングに出すとして、ネクタイは自分で洗濯して良いものなのだろうか(この 1年間、一度もネクタイを洗っていないのがバレバレである)。「洗濯表示を見ろ」とアドバイスされたが、象形文字が並んでいるだけで、それが何を意味するのかわからない。洗っても、我が豪邸にはアイロンがない。広辞苑の下に敷いておけば大丈夫な気もするが、これはきっといけないことなのだろう。不思議なことに、俺が善かれと思って実践する衣服の扱いは、必ず誰かに怒られる。

よっぽどネクタイもクリーニングに出そうかと考えたが、何だか恥をかきそうな予感がしてやめた。服のことは本当に何も知らない。実家に持ち帰り、母親に洗濯してもらうのが一番確実だと思うが、修士論文発表会までに帰省する機会があるだろうか。

研究日記

修士論文を書いたり、その合間に気分転換の雑用をこなしたり。昨日乗った新幹線の影響か、身体のあちこちが痛くなる。午後から。ジジくせえなあオイ。

年齢といえば、明日からセンター試験。我が大学も会場となるため、朝から高校生の大群が下見に訪れていた。彼らの多くは 18歳。俺とは六つも違うわけで、昭和61年、西暦1986年の生まれである。若い。「やり直したい」とは思わないが、彼らの若さは純粋に羨ましい。人生はゲームだという言葉があるが、そこで使われる共通の通貨があるとしたら、それは時間であろう。我々はこの通貨と引き換えに、様々なものを手に入れていく。しかし注意していないと、金銭の場合と同じく、「ドブに捨てる」ような浪費をしかねない。

研究、特にサイエンスの研究が素晴らしい(と同時に恐ろしい)点は、自分の出した結果がかなりハッキリとした形で残ることだと思う。それを如実に証明するのが修士論文、あるいは卒業論文である。論文を書くのは確かに面倒だが、自分のしたこと=使った時間を大切にしたいと思うなら、いくらか気力も湧いてこようというものだ。今の自分に可能な範囲で、できるだけ丹念に仕上げたい。