あまりにも書くことがない T です。こんばんは。
パソコンの調子が悪い。ついぞ落ちたことのなかった Mac OS X だが、昨夜、何の前触れもなくシステムダウン。しかも再起動すらできない。仕方がないので、OSを再インストールした。ヒマだから良いけど、原因不明というのは気になる。ちょうど昨日、Mac OS X 10.4 Tiger が発売された。タイミングが良いので買ってこようかと思ったが、Macを扱っているパソコン屋を見付けられずに断念する。
引っ越して何が不自由かというと、とにかく店がわからないことだ。散髪にも行きたいし、喰いたいものもあるのだが、どんな店がどこにあるのかが皆目わからない。タウン誌を見ればいくらでも情報は載っているが、その店を気に入るかどうかは別問題である。特に飯屋は困る。あれだけは一度喰わねば判断できない。しかも一人だし。これまでなら、誰かを誘って気軽に新しい店にも挑戦できたけれど、今はまず、「一人で入れそうな」という条件が足枷になる。
たまらないので、炊飯器を買って飯を炊くことにした。レトルトのカレーを食って、なぜか安心する。「一人暮らしの味」みたいな。仕事もまだ始まりそうにないので、しばらくは自炊に精を出すことにしよう。
T です。こんばんは。
仕事の契約云々が遅れているのは、どうも大学側の事務処理が滞っているためらしい。大学は役所然としたところがある。自分が在籍していた大学のことしか知らないけれど、まァどこも同じようなものなのだろう。年度が変わってから採用が決まったこともあり、色々とややこしい手続きが山積しているに違いない。というわけで、今年の GW を無為のまま迎えることになってしまった。どのように過ごすか、考えあぐねている。
ヒマを持て余している T です。こんばんは。
就職が決まったとかいいながら、いまだに出勤はおろか契約すらしていない。雇い主にすら、面接以来一度も会ってはいない。この仕事は人材派遣業者を通じて見付けたものであり、そのために、雇い主へ直接コンタクトできるチャンネルが俺にはない。全てのやり取りは業者を仲介しなければならず、非常にもどかしい。何だかんだで、採用が決まってから 3週間が経とうとしている。ちょっとノンビリし過ぎではないのか。
「どうなっとんねんコラ」という趣旨の問い合わせを、極めて穏便かつ婉曲に担当者へ投げ掛けたところ、「先方様は多忙につき、今しばらく時間を頂きたい」という回答を得た。俺のボスになる(はずの)人物は大学の先生であり、年度初めのこの時期は、学内の書類やら研究費の申請などで大変に忙しいことは俺もよく知っている。だから黙って引き下がるしかないのだが、第三者を介しての言葉であるが故に、いらぬ不安も抱いてしまう。今になって、「あれはエイプリルフールだった」とか言うんじゃねえだろうな。
降って湧いた休暇だと思って、遊びながら待つのが賢いのかもしれないが、とてもそんな気分にはなれない。昨夜復活したネットで、早速 PubMed にアクセスして勉強ですよ貴方。ロクに頭に入った気がしないが、こうでもしていないと落ち着かない。
皆、イライラしてるんだろうなあ、と思う。俺は早く働きたいし、ボスはさっさと俺に仕事を押し付けたいだろうし、業者は板挟みで辛いだろうし……。ひょっとして、このまま GW に突入するのだろうか。嬉しくねえ。
ネット環境が回復した T です。こんばんは。
ちょっと依存症気味なのかもしれないけれど、やはりインターネットに接続されていると安心する。特に今は、新しい街で知り合いもおらず、どうにも孤独感が強くなる。友人の日記などを読むと、別にコンタクトを取ったわけでもないのに、何かしら交流を果たしたような気分になる。我ながら現金なものだが、実感としてそうなのだから仕方がない。ネット万歳。
明日からは、日記もこれまで通りに更新する予定。よろしくお願い致します。
ようやく人間らしい生活を営めるようになった T です。こんばんは。
昨日注文した洗濯機、冷蔵庫、電気ポットが届く。とりあえず洗濯する。新居のベランダは異様に狭いのだが、屋上を自由に使えるので、洗濯物を干すのには困らない。屋上の見晴らしは良く、雨にさえ気を付ければ、洗濯もなかなか心地良い労働になりそうだ。
冷蔵庫と電気ポットは、少し目算を誤った。以前使っていたものよりも小さくて充分と思い、必要最低限の大きさの製品を注文したつもりだったのだが、いざ部屋に置いてみると、明らかに前のものよりもデカい。店ではあんなに小さく見えたのになあ。まあ、大は小を兼ねるというし(負け惜しみ)。ポットで湯を沸かし、久し振りにコーヒーを飲む。インスタントだけれど、やはり飲み慣れたものが一番旨い。
土曜の夜ということで、一人で呑めそうな店がないものかと探し歩く。が、コレといった店もなく、結局はコンビニ弁当と缶ビールで済ませてしまった。新居の付近は住宅街であり、そもそも店が少ない。次はもう少し盛ったところに足を伸ばしてみよう。
部屋の一つが物置と化している T です。こんばんは。
午前から買い物に出かける。昨日も行ったモールへ 3往復ほどする。両手で運べる荷物は少ない。午後には洗濯機と冷蔵庫と電気ポットを注文する。とりあえず入用な家電はこの3点だ。これで洗濯ができ、酒が冷やせ、コーヒーを淹れることができる。配達は明日。文明の利器が待ち遠しい。
部屋は散らかったまま。荷物の大半が書籍のくせに本棚がないのだから、片付く道理がない。蔵書を収容し切れるほどの本棚を揃えようとすると、結構な値段になる。給料が出てから考えるか。
引っ越した T です。こんばんは。
朝イチで引っ越し屋に来てもらい、午後には新居に落ち着いた。盛り上げられた段ボール箱を片付ける気力が起こらず、近くのショッピング・モールへ。結構デカい所で、何でも一通り揃いそうなことに安心する。とりあえずカーテンだけ購入。
知り合いもいない初めての街で一人、というか、独り。新居も、まだまだ「俺の部屋」と言える状態ではない。学会に行ってホテルにでも泊まっているような感じだ。6年前、一人暮らしを始めた頃のことを思い出す。新鮮で懐かしい、少々矛盾したこの気持ちを大切にしていきたい。
6年間を過ごした街ともお別れの T です。こんばんは。
引っ越しのため、この日記を書き終わってからネットを切断する。引っ越し先でネットが使えるようになるのは、27日以降の予定。よろしく御諒承のほど、お願い申し上げます。
バイト友達と呑んできた T です。こんばんは。
年末から洗わずに放置している鍋のことを覚えておられるだろうか。実はまだ、残飯が入ったままなのである。昨日の日記で、「面倒臭いものほど後回し」などと書いているが、この案件はもはや「面倒」の域を超えている。いっそのこと、鍋ごと捨ててやろうかとも思ったが、そんな粗末な真似はできない。
引っ越しは明後日に迫っている。明日くらいは穏やかに過ごしたい。思い切って、鍋の蓋を開けてみた。
寒けがした。大学で 6年間も生物学を学んだというのに、俺は生命というものを何一つ理解できていないのではないかとすら思った。豊穰で、横溢で、強靱で、狡猾で、躍動し、謳歌し、満喫し、跋扈する生命が、それらが織りなす生態系が、そこにあった。原始の地球において、限られた生命資源を奪いあった遠い先祖の戦いを見るようだった。そして、苛烈であったろう戦いを勝ち抜いた種の末裔であることに、俺は深い感慨を抱くのだった。
生命の力強さに心打たれた俺は、鍋に熱湯を注いだ。
ナンシー関/リリー・フランキー『小さなスナック』を読んでゲラゲラと笑う。「クレア」におけるナンシー関の連載は、これで全て文庫になってしまった。もう新作が出ることはない。彼女の急逝が惜しまれる。
「謙虚たれ」とはしばしば耳にする言葉であるが、実は非常に高度な注文なのではないか。そんなことを最近よく思う。
【謙虚】ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。(大辞林)
要するに、まずは「おごる」ことができるほどの「能力・地位」を身に付けなければならないのだ。「ひかえめでつつましやか」に振る舞うことは、それほど難しくはない。しかし、実力のない者がそのようにしたところで、それは単なる「分相応」であって「謙虚」ではない。
実力を養うことから謙虚への道は始まる。このことを、ゆめゆめ忘れてはなるまい。その上で、俺は自分に言わねばならない。「謙虚たれ」と。
布団圧縮袋はあるのだが、掃除機がないため布団を圧縮できない T です。こんばんは。
「修羅場、どっと混む」も今日で 3周年を迎える。よく続いているものだと思う。壁に向かってブツブツと独り言を喋っているような日記が多いけれど、訪れてくれる方々がいなければ、ここまで継続できなかっただろう。読者諸兄に感謝。ありがとうございます。何か恩返しの方法でもあれば良いのだが。
風呂場や水周り、トイレなどの掃除をする。宿題なんかと一緒で、面倒臭いものほど後回しになっていたのだが、それもようやく片付いた。宿題はすっぽかすことも可能だが、部屋はそういうわけにもいかない。
食器を包むための古新聞が欲しいのだが、あいにくと新聞を取っていない。古雑誌でも電話帳でも構わないが、それらも処分してしまった。どこにでも転がっていそうなのに、いざ必要なときには見当たらない。仕方なく新聞を買いに出かけたが、途中のゴミ捨て場に古新聞の束があったので失敬してきた。少し汚いが、読みもしない新聞を買うよりは健全な気がする。
伊集院静/西原理恵子『アホー鳥が行く』『それがどうした』を読んでゲラゲラと笑う。伊集院先生の壊れっぷりが良い。
歯医者が嫌いな T です。こんばんは。
引っ越し関係の雑用をこなす。面倒臭いが、ネットで済ませられることも多い。便利な世の中になったものだ。引っ越しは 21日。20日の夜からネットに接続できなくなるが、それほど時間を置かずに復活できると思う。御迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願い致します。
携帯電話の機種変更をする。通常の電話とメール、それもごくわずかしか使わない俺にとって、携帯電話は興味のないハードウェアである。機種変更をしたのは、「バッテリーがヘタってきた」という散文的な理由による。いくら使用頻度が少ないといっても、数分の通話をしただけで、バッテリーが満タンから最低レベルに落ちるようでは困る。一つの機種を 3年も使う俺が悪いんだけれど。
昨今の携帯電話にはカメラを始め、様々な機能が搭載されており、さながら十徳ナイフのようだ。独立した専門の道具を愛する俺は、あまり「多機能」とやらに魅力を感じない。写真を撮りたかったらカメラを使えば良い、という考え方なのである。しかし、「色々遊べますよ」という店員氏の言葉に考えが変わった。最初からオモチャとして見れば、これはなかなか面白そうなガジェットではある。でも、オモチャにしては高いんだよなあ。それならPSPを買えば良かったような気もする。失敗したかもしれない。
先日、肉を食った際に歯が欠けた。情けない話だが、世の中には椎茸を食って前歯が欠けた男もいる。それに比べればマシに思えるが、とにかく欠けたことには違いない。ときどきシクシクと痛む。これから引っ越すので、歯医者にも行けない。何とか鎮痛できないものかと試行錯誤した結果、次のような療法を編み出した。
冗談のようだが、本当に痛みが消える。ニコチンには鎮痛作用があり、アルコールに吸収されやすい。アルコール自体にも神経を鈍磨させる働きがあり、虫歯菌に対する殺菌効果も期待できる……と勝手に理屈をつけているが、真偽のほどは定かではない。責任は負えないし、お勧めもできない。
ちょっと昼間には実行しかねる行為だが、今のところ、夜しか歯が痛まないので重宝している。できることなら、歯医者には行きたくない。
新しい部屋を決めてきた T です。こんばんは。
この時期になると空き部屋は少ないのだが、別の視点から見ると、実は買い手市場だったりもするから世の中は面白い。1年間も部屋を遊ばせるくらいなら、家賃を下げてでも住人を確保したいという大家は多いらしく、向こうから値引き交渉を申し込んでくる。不動産屋もヒマだったようで、社員総出の殿様接待。騙されているんじゃないかと最初はとまどったが、おかげで、格安にして間取りも希望以上の住居を確保できた。不動産屋と大家に感謝。良いスタートが切れそうだ。
大学関係で気になるニュースを一つ。
中央教育審議会の大学院部会は 14日までに、企業や公的な研究所で業績を挙げた社会人が、論文などの審査を基に博士の学位を得る「論文博士」制度を廃止し、大学院のカリキュラム修了者を対象に与える「課程博士」制度に一本化する方向で一致した。
文部科学省は論文博士を認めている省令を改正、博士号取得を目指す社会人に対しては大学院に短期間在学する「博士課程短期在学コース」の創設なども検討している。
文科省によると、論文博士は、2001年度の調査で博士号の授与数のうち 36% を占めており、大学院を辞めた人が社会人になってから博士の学位を取る手段になっていた。(共同通信)
論文博士は、俺にとって他人事ではない関心事である。就職活動で様々なラボの面接を受けたが、修士卒で研究職を志望していると言うと、「将来的に博士号を取得するつもりはあるか?」と必ず尋ねられる。全く「ない」というわけでもないし、何よりもまず、面接テクニックとして「ある」と答えなければならない。すると大抵、「ウム。うちで働きながら論文博士を目指すという手もある」と面接官はおっしゃる。全博士の36%が論文博士という事実を思えば(この数字は俺が想像していたよりも大きい)、全くあり得ない話ではない。
採用が決まったラボの面接でも、やはり同様の受け応えがあった。俺と同じ体験をされた修士の方も多いのではないか。「博士課程短期在学コース」とやらがどんなものになるのか、そもそも創設されるのかを含め、これからも注目していきたい。どうも政府は、博士を増やし過ぎたと後悔しているフシがある。論文博士制度の廃止は、これから展開される博士削減策のハシリなのかもしれない。近い将来、博士号取得年度による差別が生じる可能性は充分にある。今のところ、俺には関係のない話だが。
しかし、何が起こるか読めない御時世。給料を貰い始めたら、せいぜい貯金に励むとしよう。「博士号を取らねばクビだ」と宣告されても、文句は言えないからなあ。
「どうせ借りているんだから、サーバは目一杯使ってやれ」という考え方の T です。こんばんは。
3年ほど「修羅場、どっと混む」を続けるうちに、サイトの性格や、俺自身がサイトに求める事柄はどんどんと変質してきた。当初は日々の生活を簡単につづるだけだったものが、いつしか思考や記録を有用な形で残すことが目的となり、それらがある程度蓄積した今、「修羅場、どっと混む」は(俺にとってのみ意味を持つ)ちょっとした知的データベースになりつつある。
その間、「もっと便利に、もっと多機能に」という欲求は増えるばかり。どういうサイトにすれば良いのかというのは、常に頭を悩ます問題である。その中間的な解答が「サイトのポータル化」であり、その第1段階として日記の blog 化を実現した。基本となる発想は「ハードディスクの外部展開」というもので、要するに、ネットワークにつながった端末さえあれば情報を管理できるような環境を作ろう、という趣旨である。
半分お遊びではあるが、そのような壮大な(?)計画が最初にあり、コンピュータの勉強も兼ねて、自分でできそうなものは自分で作るというスタンスでやってきたはずなのだが、いつしかそれを忘れてしまっていたようである。例えば、日記管理ツールとして作り始めた「なんちゃって blog」は、気付かぬ内に「本物の blog に近づけること」そのものが目的となりつつあった。こんなバカな話はない。Blog っぽさを求めるのなら、最初から一般の blog システムを使えば良い。自分で作る以上、「自分にとって使いやすいこと」のみが優先されるべきだ。
初心に帰ったところで、もう少し考えを深めてみる。改めて書いてみると、「ハードディスクの外部展開」=「サイトのポータル化」という図式には、かなり飛躍があることに気付く。「修羅場、どっと混む」は Web サイトであるが、だからといって「Web サイトっぽく」する必要はどこにもない。こんな窮屈な思い込みをしているから、「ポータルサイトにしてしまおう」という安直な発想に陥ってしまう。
もうちょっとデカくとらえて、「Web サイトをデスクトップとして使えないか」というのが今日の話である。このアイデアは、近日中に迫った引っ越しに端を発している。引っ越しの前後にはパソコンが使えず、また、引っ越し先のネット開通には日数がかかるかもしれない。その間、メールのチェックや、必要なファイルのやり取りができないことになる。そこで簡単なメーラーとアップローダを作ったのだが、そのときに、「これって簡易デスクトップみたいだなあ」と思ったのである。ファイルブラウザがあり、メーラーがあり、テキストエディタがある、という具合だ。この観点から見ると、「DNA to Protein」や「News」も「Web ページ」ではなく「アプリケーション」と言えないこともない。
「どこまでをネット上に展開するのか」「それをネット上で行うことに意味があるのか」については別途考えなければならないが、まだまだ楽しいことが埋もれているような予感はある。もっと面白い使い方はできないか。せっかくサイトを運営しているのだから、模索して損はないと思う。
リーマン予想がどんなものなのかを知らない T です。こんばんは。
ネットで新居を探す。4月の初旬を過ぎ、現在は日本で一番部屋が見付かりにくい時期である。なかなか目ぼしい物件に当たらない。地図を睨みながら、ひたすら条件を変えて検索、検索、検索……。おかげで、これから勤める街の地理には少し明るくなった。部屋は決まってないが。
我ながら、最後の一つはかなり無理があると思う。
公園で花見をしてきた T です。こんばんは。
付近の桜が満開となっていた。毎年、咲き誇るのを楽しみにしている桜である。桜は日本の国花であり、1年に半月ほどだけ咲くこの花のために、日本人は数々の文化を産み出し、国民一丸となって花見に血道を上げ、政府も桜前線の観測を支援する。滑稽な面もあるが、日本人が桜を愛している事実に偽りはない。
ところで、桜にはもちろん桜特有の香りがあるのだけれど、それは、バラやキンモクセイのようにムワッとむせ返るほど濃厚なものではない。これは重要な事実に思える。桜の芳香が、生命力に溢れた臭気ふんぷんたるものだったとしたら、果たして日本人は、これほどまでに桜を愛したであろうか。考えてみる価値はあると思う。愛される花の「香り」は、もう少し注目されても良いんじゃないか。この観点からの論考を、俺は目にしたことがない。
桜と並び、我が国で特殊な地位を占めている花といえば菊である。天皇家の御紋に使用されている花だが、日本列島に自生していたわけではなく、奈良時代に中国大陸から輸入されてきたらしい。しかも菊紋を最初に用いたのは後鳥羽上皇であり、案外と歴史は浅い。菊を冷静に観察してみると、どうも旧来の日本人が好きになりそうな花ではないような気がする。華やか過ぎるのだ。後鳥羽上皇という人のパーソナリティーを合わせて考えるに、「菊の御紋」は、日本人離れした上皇の個人的成果という印象がある。そこが桜とは決定的に違う。
日本史には、ときにこのような異形の文化が、たった一人の個人から発生する。その典型が足利義満の鹿苑寺金閣である。俗に「北山文化」といわれるが、あれは本当に「文化」なのだろうか。日本人が愛し、その後の文化の基本形として選択したのは、足利義政の慈照寺銀閣、つまり東山文化である。金閣は確かに素晴らしい建築物だが、足利義満個人の感性によるところが大きく、しかもそれがケタ違いに日本人離れしているため、「文化」になるほどの共感を得られなかった。北山文化なるものの実体はなく、いうなればあれは「足利義満文化」とでも称すべき特殊なものである。キンキラキンの屋敷の上に鳳凰を飾った建物が、他にあるだろうか。「実体がない」とはそういう意味である。
日本人離れしているもう一つの例は豊臣秀吉であろう。これも「桃山文化」という名称が冠されているが、やはり怪しい。秀吉も大坂城内に金箔張りの茶室を作った(しかも組み立て式で持ち運びが可能だったらしい)が、現在でも愛されているのは、その対極に位置する千利休の侘茶である。織田信長が始め、狩野派の筆によって大流行した豪奢な洛外洛中図屏風も、前時代に確立された雪舟の水墨画ほどには、息が続かなかった。秀吉的感性は「成金趣味」という悪名で現代にも受け継がれているけれど、「趣味」という言葉が端的に示すように、「文化」としては認識されていないようである(断っておくが、文化の方が趣味より高尚だと主張するつもりはない)。
最後に一つ、明治期の欧風文化についても触れておきたい。鹿鳴館、東京駅駅舎、あるいは横浜、神戸、長崎に建てられた数々の異人館は、それが(それまでの)日本人の感性と合致しないものでありながら、今では懐古的な情緒を誘うまでに受け入れられた。北山文化や桃山文化と異なるのは、これら欧風文化が、足利義満や豊臣秀吉といった個人の感性にのみ裏打ちされたものではなく、しっかりと熟成されたヨーロッパ文化を下敷きにしている点にあると思う。あまり使いたくない言葉だが、要するに「本物」だったから受け入れられたのではないか(北山・桃山文化が「偽者」とは決して思わないが)。
長々と書いたけど、つまるところ「文化」は「共有」を前提としているのであって、最初から「個人」とは相反する性質を内蔵している。日本人離れした一個人の感性に立脚した文化が広まらなかったのは、考えてみれば当然なんだよなあ。
何故か右手小指の先が痛い T です。こんばんは。
就職祝いということで、昨夜はヒゲマン氏の奢りで呑ませて頂いた。ありがとうございます。他にも沢山の方から、電話やメールや掲示板でお言葉を頂戴した。本当に俺は幸せ者だと思う。ありがとうございました。
と同時に、身の引き締まる思いもする。何かが終わったわけではなく、それどころか、まだスタートラインにも立っていないのだということを、しっかりと認識しなければならない。真の「修羅場」は、これからなのだ。
あと10日ほどで、「修羅場、どっと混む」も3周年。これまでの学生時代 3年間を「青春編」とするならば、次は「風雲編」といったところか。……って、それは阿佐田哲也の『麻雀放浪記』じゃねえか。まァ、とにかく頑張っていくので、これからも「修羅場、どっと混む」をよろしくお願い致します。
不動産屋に行って、我が豪邸の解約をしてきた。ゴチャゴチャと文句を言われながら手続きをする。不動産屋の不可思議な理論や態度が理解できず、腹が立つ以前に呆れてしまった。古い世界だなと思う。不動産屋は仲介業者である。彼らにとっては、大家も住人も「客」であるはずだ。どうして大家ばかりを偏重するのかがわからない。いくら大家を大事にしたところで、住人が寄り付かなくなったら商売ができないではないか。俺がムカつく・ムカつかない以前に、商売のロジックとしておかしいんじゃないかと思う。
帰宅してから、家電と家具の大半をリサイクルセンターに引き取ってもらった。名目上は「買い取り」だが、売り物にならないものの処分も依頼したので、差し引きで数千円、こちらが支払った。自分で始末することを思えば安い。無料出張であることを考慮すると、ひょっとしたら向こうが赤字だったかもしれない。サービス業はかくあらねばと、ついつい先程の不動産屋と比較してしまう。
今春、我が豪邸の眼前にレオパレスのアパートが建った。家電は処分したし、不動産屋には行きたくないし、俺も新居は家具付きのレオパレスにしてみようかなあ。
家財道具がなくなってしまうと、もう何もできないし、することもない。動いているのはパソコンのみ。退屈になったのでヒゲマン氏に連絡したら、Dr. B と K君も一緒にいたので、皆で夕食を共にした。行きつけの喫茶店A で食べたのだが、マスターの奥方に「いつもありがとうございます」と言われて、少し寂しくなる。「近い内に出て行くんです」と答えようとしたが、やめた。もう一回くらい、コーヒーを飲みに行けたら良いのだが。
ようやく仕事が決まった T です。こんばんは。
某大学付属病院に勤務することになった。着任時期は未定だが、遅くとも今月中になると思われる。年度が変わってしまったけれど、ギリギリセーフ、かな? まだ詳しい話は書けないが、そのうち(公表できる範囲で)お伝えすることも可能になるだろう。
つまらんネタを思い付いたので書き留めておく。
「今、忙しい?」
「ハイブリダイゼーションで手が放せません」
「in 最中か……」
くだらねえ。
日記のネタをひねり出すのに四苦八苦の T です。こんばんは。
新年度が始まり、世の人が忙しく立ち働く中で、日記に書くことすらない生活を送っていることに忸怩たる思いを強くする。今日も面接結果は届かず。明日以降に持ち越し。
司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 5』を読了。歴史というこの大きな物語は、いつも俺の視点を一段階上げてくれる。普段、大抵の人間は目の前のことしか見ておらず、今の俺がまさしくそうなんだが、切羽詰まったときには、さらにその傾向が顕著になる。そんなとき、歴史はヒョイと視点を持ち上げ、広々とした視野を与えてくれる。それで現状が変わったり、気持ちが楽になったりすることはないし(もしそんなことがあれば、それはただの現実逃避である)、皆が皆、常に歴史的視野をもって生活をしていたら社会なんて成り立たないのだろうけれど、たまには違う風景を眺めることも大切なんじゃないか。……いや、しかし、これも逃避なのかな。
本屋のコンピュータ関連書籍のコーナーに、「おもしろブログの書き方」とか「読まれる日記はココが違う」というような本が山積みになっていた。パラパラと立ち読みしてみたが、要するに、形を変えた「文章読本」の類である。従来の文章読本よりは目的が具体的であり、その分、読んでいて面白い。だが、指南通りに書いたからといって、それが即「笑える日記」や「泣ける文章」になるとは思えない。
「文章読本をありがたがる奴は、ロクなものを書かない」という、根強い主張が一部にはある。どちらかといえば、俺もこの意見に賛成だ。文章読本というのは、結局は技術書なのである。そこを勘違いしては元も子もない。文章とは厄介なもので、ときとして神聖視されたりすることもあるが、その原点は「情報伝達の一手段」である。文章を書くことそのものが自己目的化してしまうと、妙な具合になる。
「面白い文章を書きたい」という願いは、本末転倒なのだ。他人に伝えたい「面白いこと」がまずあって、その手段として文章を選ぶ。その上で、「面白い文章を書くテクニック」が必要であれば、あるいは文章読本も有効かもしれない。その程度のものである。文章読本を読んで、「じゃあ俺も一筆書いてやるか」と考える奴に尋ねてみたい。お前は何が書きたいのか。これでは、パソコンを与えられたオヤジが、とりあえず Yahoo! で「エロ画像」を検索してみるのと大差ない。いや、その行為を否定するつもりはないけれど。
思えば、ほとんどのサイトや blog が、「開設すること」それ自体を目的としてスタートしているような気もする。発信したい情報があって運営されているサイトなど、ほんの一握りだろう。その点では、俺だって同じである。あまりエラそうなことは言えない。
すっかり部屋を片付けてしまった T です。こんばんは。
荷物を片付け終える。といっても、書籍を段ボールに詰め込んだだけだが。正直なところ、本とパソコンさえあれば、服や家電製品は処分してしまっても良いと考えている。どこに行くかなんて全然決まっていないけれど、ある程度以上に遠い所であれば、搬送するよりも買い替えた方が安い。
本だけは捨てられない。段ボール 10箱分に及ぶといっても、その客観的資産価値は低い。しかし、これを捨て去ってしまえば、俺のささやかな持ち物の中から、文化的側面というものが消え去ってしまう。文化は、時間的継承によってのみ形成される。同じ本を買い集めることなど、金さえあれば容易かもしれない。だが、そのようにして安直に埋められた本棚は、矮小化された本屋や図書館でしかない。売り払い、再購入した書籍のほとんどを、俺は手に取らないであろう。その時点で、本棚と「私」は断絶される。それは文化的断絶である。
俺だけの問題ならば、まだ良い。しかし文化の本質である「継承」は、世代レベルで行われてこそ真価を発揮する。例えば、俺に子供ができたとしよう。発行 5年以内のピカピカの本ばかりが並ぶ本棚と、父親が昔読んだのだと明らかにわかる手垢にまみれ日に焼けた本が並ぶ本棚とでは、物心ついた彼(彼女)に与える影響の差は計り知れない。俺は何も、子供に本を読めとか、そういう下らないことが言いたいのではない。父親が読んだカビ臭い本など、読む必要はない。しかし、それを目に見える形で残しておくのは、全くの無駄ではない。いや、無駄なのかもしれないけれど、それだからこその文化なのである。小さな小さな文化ではあるが、全ての人が最初に接する文化は、家庭のそれである。
ただそこに「ある」だけで、ある種の匂いを醸し出すものを、我々は営々と築き上げ、伝承してきた。誤解を恐れずに言えば、人とは、そのような場でしか育たない。「何代前の〜」を積極的に保守する美風は、日本と欧州に強い。近代において両者が驚異的な発展を見せたのは、膨大な過去の蓄積に負うところが大である。アメリカは徹頭徹尾の文明国だが、歴史が浅いため、どうしても文化的蓄積が薄く、また、個人レベルで文化を継承する風習も弱いという印象がある。ディズニーや都市伝説が、アメリカ人にとっての「神話」や「昔話」に相当するという指摘はよく見かけるけれども、そのディズニーでさえ、著作権が切れる切れないで大騒ぎになる。それを思えば、日本の文化の底の厚さには目を見張るものがある。その恩恵を受けてきた俺が、引っ越し代をケチって蔵書を売り払うなんてことは、大袈裟にいえば、日本という文化史に対する裏切りなのではないか。
ここまで書いてきた文化論は、何も書籍に限った話ではない。が、本には今一つ問題点がある。書籍というメディアが、俺の目の黒い内に消滅するという可能性だ。いつになるかはわからないけれども、書籍は必ず電子化される。いずれ本は、現在のレコードのような地位に陥るであろう。「レコードのある家」が、ある種のノスタルジーやロマンチシズムを誘う響きを持つのにも似て、100年後には、「本のある家」といえば「ほほう」と感心される日が、まず間違いなく来る。
文化とは、それぐらいのスパンで考えなければならない。千金を積んでも、俺は蔵書を搬送するだろう。金では買えないものを運ぶのだから。
本日から無職の穀潰しとなった T です。こんばんは。
自分が公的な何物にも属さないという、一驚に値するはずの現実に、まだピンと来ない。それでも色々と始末をつけねばとは思い、今日は銀行口座を解約した後、我が豪邸の片付けに精を出す。手伝って頂いたヒゲマン氏に感謝。