- 書籍が文化的遺物となる日のために

2005/04/02/Sat.書籍が文化的遺物となる日のために

すっかり部屋を片付けてしまった T です。こんばんは。

引っ越し - 断絶の危機

荷物を片付け終える。といっても、書籍を段ボールに詰め込んだだけだが。正直なところ、本とパソコンさえあれば、服や家電製品は処分してしまっても良いと考えている。どこに行くかなんて全然決まっていないけれど、ある程度以上に遠い所であれば、搬送するよりも買い替えた方が安い。

本だけは捨てられない。段ボール 10箱分に及ぶといっても、その客観的資産価値は低い。しかし、これを捨て去ってしまえば、俺のささやかな持ち物の中から、文化的側面というものが消え去ってしまう。文化は、時間的継承によってのみ形成される。同じ本を買い集めることなど、金さえあれば容易かもしれない。だが、そのようにして安直に埋められた本棚は、矮小化された本屋や図書館でしかない。売り払い、再購入した書籍のほとんどを、俺は手に取らないであろう。その時点で、本棚と「私」は断絶される。それは文化的断絶である。

文化と継承

俺だけの問題ならば、まだ良い。しかし文化の本質である「継承」は、世代レベルで行われてこそ真価を発揮する。例えば、俺に子供ができたとしよう。発行 5年以内のピカピカの本ばかりが並ぶ本棚と、父親が昔読んだのだと明らかにわかる手垢にまみれ日に焼けた本が並ぶ本棚とでは、物心ついた彼(彼女)に与える影響の差は計り知れない。俺は何も、子供に本を読めとか、そういう下らないことが言いたいのではない。父親が読んだカビ臭い本など、読む必要はない。しかし、それを目に見える形で残しておくのは、全くの無駄ではない。いや、無駄なのかもしれないけれど、それだからこその文化なのである。小さな小さな文化ではあるが、全ての人が最初に接する文化は、家庭のそれである。

ただそこに「ある」だけで、ある種の匂いを醸し出すものを、我々は営々と築き上げ、伝承してきた。誤解を恐れずに言えば、人とは、そのような場でしか育たない。「何代前の〜」を積極的に保守する美風は、日本と欧州に強い。近代において両者が驚異的な発展を見せたのは、膨大な過去の蓄積に負うところが大である。アメリカは徹頭徹尾の文明国だが、歴史が浅いため、どうしても文化的蓄積が薄く、また、個人レベルで文化を継承する風習も弱いという印象がある。ディズニーや都市伝説が、アメリカ人にとっての「神話」や「昔話」に相当するという指摘はよく見かけるけれども、そのディズニーでさえ、著作権が切れる切れないで大騒ぎになる。それを思えば、日本の文化の底の厚さには目を見張るものがある。その恩恵を受けてきた俺が、引っ越し代をケチって蔵書を売り払うなんてことは、大袈裟にいえば、日本という文化史に対する裏切りなのではないか。

100年後の「本」

ここまで書いてきた文化論は、何も書籍に限った話ではない。が、本には今一つ問題点がある。書籍というメディアが、俺の目の黒い内に消滅するという可能性だ。いつになるかはわからないけれども、書籍は必ず電子化される。いずれ本は、現在のレコードのような地位に陥るであろう。「レコードのある家」が、ある種のノスタルジーやロマンチシズムを誘う響きを持つのにも似て、100年後には、「本のある家」といえば「ほほう」と感心される日が、まず間違いなく来る。

文化とは、それぐらいのスパンで考えなければならない。千金を積んでも、俺は蔵書を搬送するだろう。金では買えないものを運ぶのだから。