- Diary 2005/05

2005/05/31/Tue.

法螺は嫌いではない T です。こんばんは。

昨夜受信した出会い系サイトのメールを読んでコーヒーを吹いた。登録している女性の数、実に 200万人という。笑わせるつもりか。

日本の人口が1億2000万人、その半分の 6,000万人が女性だとする。平均寿命を 75歳として、各年齢の人口は等しいと仮定する。出会い系の年齢層を 18〜32歳の 15年間と見積もると、この層の女性人口は全女性の 15/75 = 1/5、つまり 1,200万人である。先に紹介したメールの公称が事実だとすると、妙齢の女性の実に 6人に 1人が、この単一のサイトに登録していることになる。んなアホな。

オーダーと推測の妥当性

こんな計算をして、出会い系サイトの揚げ足を取りたいわけではない。オーダー(位数)の話をする。

自然科学の分野では、べらぼうに巨大な数字、あるいは小さい数字を扱うことも珍しくない。そのような極大・極小の世界では、あらかじめ得られる数値のオーダーを予測しておくことが重要になる。値が極端なだけに、観測誤差が大きくなることもある。そのとき、それが誤差なのか、実験のミスによるあり得ない値なのか、それとも妥当な値であるのか、そういった判断を行うのに、オーダーの見積もりは必須なのだ。

何かの本で読んだ話なのだが、アメリカのある高校(中学だったか)のテストで、次のような問題が出たという。

シカゴにいるピアノ調律師の人数を答えよ。

もちろん、正確な人数がわかるわけはない。出題者だって知らないだろう。しかし、「大体どれくらいか」という予想ならできる。「シカゴの人口がこれくらいだから」「ピアノのある家は、クラスに数人程度だったから」「調律の値段はこんなものだろう」「1年に 1、2回調律するとして」「1人の調律師が生活するには、これくらいのピアノを受け持ちが必要」というふうに推測を重ねていく。

この試験で問われているのは、推測の妥当性、言い換えるならば、妥当な推測をする能力である。一読して、これは良い問題だなあ、と感心したことを覚えている。日本でこんなテストをしたら、「いい加減な問題を出すな」と PTA に怒られるのではないか。

世の中には「公称」という奇妙な数字がある。いくら言を取り繕おうとも、「実数」と言明していないからには、どこかで粉飾がなされているはずなのだ。倍増くらいなら可愛いものだが、オーダーが一つ上がるとなると、眉に唾を付けた方が良い。しかし 2桁、3桁ともなると、開き直った爽やかさすら感じるなあ。嘘というか、法螺の領域。

2005/05/30/Mon.

GUI
Graphical User Interface の略。アイコンやボタンなどで、視覚的にコンピュータを操作するためのインターフェイス。これに対し、コマンド打ち込み型のインターフェイスを CUI (Character User Interface) という。

お気付きの向きもあるやもしれぬが、数日前からページ左側の各小見出しに「-」というボタンを付けている。クリックすると、各内容の表示/非表示が切り替わるという、実に他愛のないスクリプトである。これだけでは何の用も足さないが、以前から「修羅場、どっと混む」に GUI っぽいものを搭載しようと考えており、これはその布石みたいなものだ。ウザくない範囲で、便利な使い方を提案できればと思っている。

今や実験場と化している「News」をリニューアルして、その使い方を模索中。このページは、「色んなページに行くのは面倒臭い。できるだけ一ヶ所で済ませたい」という物ぐさ精神が起点となっている。まだまだ道は遠いが、以前よりは実用性が増したのではなかろうか。と信じたい。動作は、Safari RSS、Firefox、Win IE 6 で確認している(Mac IE 5 ではまともに動かない)。

GUI の要件の一つに、「サクサク動くかどうか」というものがあると思う。たかだか表示を切り替えるために、ページを丸ごとリロードされてはたまったものではない。そこで、ブラウザ側で動作する枠組みが必要になる。すぐに思い浮かぶのは JavaScript と Flash (Actionscript) であるが、どちらも一長一短がある。相対的に評価すると、JavaScript は互換性の問題があり、Flash は重い。

例えば、今回のスクリプトは JavaScript で書いているが、そこで使っている「innerHTML」という要素に Mac IE 5 は対応していない。こういうのは非常に困る。探せば回避方法もあるのだろうが、楽をするために苦労を背負い込むのでは意味がない。努力は大事だが、非標準的なものにまで対応することが「努力」かどうか、そのへんは疑わしい。

2005/05/29/Sun.

円周率を 3 にするんだったら、五・一五事件も「五事件」にすれば良いのに、と思う T です。こんばんは。

次元に関する疑問

3次元空間に時間軸を加えた時空間が 4次元世界である、らしい。物理に暗い俺にはケチをつける資格もないが、一つ疑問がある。次元が積み上げられる順番は、あるやなしや? 例えば、時間軸を自由に移動できる平面があったとして、それはやはり 3次元世界(平面 2次元+時間軸 = 3次元)なのだろうか。我々が存在するのも3次元世界であるが、軸の組み合わせが違う。それとも、このような軸の組み合わせは原理的にあり得ないのだろうか。よくわからん。

本棚は高いか安いか

以前から欲しかった文庫専用の本棚をネットで探す。思ったより色々な種類がある。俺が最も気に入ったのは、幅 150 cm、高さ 200 cm というサイズのもので、文庫本約 1,200冊が収納できて 2万円を切る(といっても、二つ買わなければ足りないんだけど)。この値段が高価かどうか、定量的に考えてみる。

本 1冊の平均価格を 500円とする。最近の文庫新刊は少し値が張るが、古本も多数あるのでこんなものだろう。上記の本棚が収納できる本の購入価格は、

500円 × 1,200冊 = 600,000円

60万円分の本に対する本棚の価格比は、

20,000円 ÷ 600,000円 = 0.0333...

3% ちょっとか。消費税より低率である。そう考えると、やはり本棚は高価ではない。本を買うたびに、購入価格の 3% を貯金箱に投じるのも良いかもしれない。本が溢れる頃には、本棚を買う金が貯まっているという仕組みである。しないけど。

2005/05/27/Fri.

T です。こんばんは。

新聞の勧誘が来た。勧誘を断るテクニックは色々とあるのだろうが、もしそれが讀売新聞であった場合、「すみません。阪神ファンなんです」と言えば、あっさりと引き下がってくれる。俺が経験した範囲では、100% の効果がある。彼らにとって、阪神ファンの門戸を叩くことは、『赤旗』を売り込もうとして右翼団体の敷居をまたいでしまうことに等しいのかもしれない。阪神ファンには怖い人もいるからなあ。

2005/05/25/Wed.

田中芳樹『銀河英雄伝説』に登場するビッテンフェルトの家訓に共感を持つ T です。こんばんは。

「他人をほめるときは大きな声で、悪口を言うときはより大きな声で」

(銀河帝国軍上級大将、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト)

悪口は日本語の勉強になる

筒井康隆がよく「悪口は日本語の勉強になる」と書いているが、まことにその通りで、なかなか悪口は難しい。良い悪口 (矛盾してるが) の条件として、読んで面白い、反撃されない、などが挙げられるだろう。自分を高いところに置き、そこから激烈な言葉を一方的に浴びせるのがよろしい。しかし、ただ悪口を言うだけでは「罵倒」に過ぎない。そこで格調が必要になってくる。洗練の度合いが増すにつれ、罵倒は「非難」「批判」となり、最終的には「弾劾」の域に達する。良い言葉だよなあ、弾劾。

「弾劾文」と呼ばれる文章に共通する特徴として、漢語の頻用がある。漢語を使うと、何やら格調高い気がするから不思議なものだ。そこに、独特の中国的ユーモアが含まれるからかもしれない。中国語の言い回しはとにかく大袈裟である。「怒髪天を突く」とか「断腸の思い」とか。「いくら怒ったからって、髪の毛が天まで届くわけねえだろ」「腸がちぎれるって、どんだけ悲しいんだよ」と、突っ込みを待っているとしか思えない成句がゴロゴロある。こういった文句を多用することで、悪口が激烈になると同時に、一種の面白みが加わるのではないか。このあたりのバランスが、弾劾文を草する上でのポイントになると思う。

弾劾の一例

最近、松本清張『日本史発掘』を読んだのだが、この中に数多くの弾劾文が引用されている。どれもこれも興味深い。政党政治が名ばかりだった昭和初期、政敵を叩き落とすために怪文書が出回り、弾劾演説がよくなされた。例えば、憲政会の中野正剛が、陸軍機密費に関して政友会の田中義一総裁を弾劾した演説。

「田中総裁が政友会に現れて以後、政界の動揺には常に金銭がある。(中略) 君らのやり方はすべて金銭本位のやり方であると言われても仕方がない (議場騒然)。私は諸君がかくの如く吠えるときに人間に吠えられているとは思わぬ。犬が吠えているものであると思う。古語に桀狗 (けっく) 尭 (ぎょう) に吠ゆるという言葉があります。諸君のごとき漫罵を聴いても、私は毛頭恥ずるところはない」

国権の最高機関で他人を「犬」と言ってはばからないのだから、何とも豪放な時代である。金銭問題でこんな具合であるから、コトが下半身に及ぶと、特に新聞の論調などは更に激越となる。そんなところばかりに目が行って、事件の流れが頭に入らないくらいに面白い。明治期に教育を受けた人の漢文の素養は、やはりスゴいものがある。

就職活動日記

ようやくメドが立ったらしい。近日中に出勤の予定。やれやれ。

2005/05/24/Tue.

疑問符や感嘆符が、いつ頃から日本語に取り入れられたのかを知りたい T です。こんばんは。

世界一短い手紙は、ビクトル・ユーゴーが『ああ無情』を上梓したときに、出版元であるラクロワ書店に宛てた「?」だとされている。書店からの返信が「!」であったことと合わせ、有名な逸話である。1862年のことだという。

知ってるつもり

このエピソードは、疑問符や感嘆符が非常に含意に富む記号であることを示している。そこで思い出すのが「知ってるつもり?!」というテレビ番組である。これが「知ってるつもり」とか、あるいは「知ってるつもり!」というタイトルであれば、途端にウサン臭くなる。

例えば「知ってるつもり」だと、いかにも底の浅そうな印象を受ける。こんな感じ。

ヒロシ 「今夜の『知ってるつもり』は、伊藤博文です」
ユーゾー「ああ、あれでしょ、日本最初の総理大臣でしょ」

「知ってるつもり!」となれば、俗説やゴシップをふんだんに盛り込んだ、ほとんどトンデモの域に達しているイメージである。こんな感じ。

ヒロシ 「今夜の『知ってるつもり!』は、道鏡です」
ユーゾー「ああ、あれでしょ、チンポめっちゃデカいオッサンでしょ」

スゴく観てみたいがな。(ヒロシの口調で)それでは今夜は、この文章でお別れです。

怪力乱心を語らなかった孔子。彼はこんなことを述べたと、「論語」の中に記されています。

「知らざると知らずとせよ。これ知るなり」(孔子)

2005/05/21/Sat.

昼夜が逆転している T です。こんばんは。

Web日記

俺は「Book List」で蔵書を公開している。作成当時、「蔵書目録作成プロジェクト」と題して、「外部から自分の蔵書リストが閲覧できるならば、それは読書人にとって大きなメリットとなろう。例えば、同じ本の二度買いを防ぐことができる」と抱負を語っている。

今日、本屋で、買ったような買わなかったような本を見かけて懊悩し、「こんなときに『Book List』が見れたら!」と歯噛みした瞬間、上記の件を思い出した。早速、携帯電話からアクセスできる蔵書検索ページを作ってみる(表示がスッキリしているだけで、特に携帯電話専用というわけではないが)。練習問題のような単純なプログラムだが、しかし別の意味で刺激的であった。

携帯電話で自分のサイトにアクセスして必要な情報を取り出す、という行為は、想像以上に便利で面白い。特に俺は、携帯電話でインターネットを使うという習慣そのものがない原始人である。試しにアクセスした「修羅場、どっと混む」が、レイアウトは崩れるものの、ちゃんと表示されたことにすら感動した。今どきこんなことで感動できるのは、俺くらいのものだろうな。無知は喜びをもたらす。

2005/05/20/Fri.

曜日の感覚が怪しくなっている T です。こんばんは。

就職活動日記

まだ仕事が始まらない。アヒャヒャ。

読書日記

ここ数日で読んだ本。

森巣博『無境界家族』『越境者たち』(上・下)。前者は、森巣博の家族についてのエッセイ。森巣博は博打打ち、妻はイギリス国籍の国際研究者にしてオーストラリア政府関係者、息子は大学に飛び級入学した天才児。どんな家族や。後者は、家族や博打仲間を絡めて書いたエッセイめいた小説。事実(ファクト)と虚偽(フィクション)を交えて描いた「ファクション」。『神はダイスを転がさない』と似た、一種の博打小説。

井沢元彦『逆説の日本史 9 戦国野望編 鉄砲伝来と倭寇の謎』をサラリと再読。ハードカバーで既に読んでいたが、文庫版が出ていたので買い直した。

清涼院流水『秘密屋文庫 知ってる怪』を読む。相変わらずバカバカしくて笑える。本作では都市伝説の謎に迫っている。

松本清張『昭和史発掘』が「新装版」として毎月 1冊、全9巻の予定で刊行されている(今月は第3巻)。現在、第1巻から読んでいるが、面白い。これはまた別に紹介しても良いかもしれない。

2005/05/18/Wed.

久し振りで更新の T です。こんばんは。

人間が便利になるように、という発想だけで作られた機械や道具が、図らずも生物が持つメカニズムのメタファーになっていた、という例は多い。養老孟司風に言うならば、「最初から内在されていたから顕現し得た」ということになろうか。

もちろん例外もある。俺が考える二つの例は、コンピュータと駆動系である。現在主流となっているプログラムのアルゴリズムは全てノイマン型、つまり手続き型であって、創発性や自己構築能力はない。人間のような複雑な思考を(しかも自発的に)行うことは不可能だ。生物の脳を模したニューラル・コンピュータの研究もなされているが、まだ目立った成果はない。当たり前だ。脳の仕組みが解明されていないのに、それをどうやってコンピュータに応用しろというのか。

もう一つの駆動系も、生物のそれと大きく異なる。生物の駆動系で思い付くのは筋肉であるが、これは小さな同一のユニットが集積することによって、最終的に膨大な運動を発現する。貴方の筋繊維も、ボブ・サップの筋繊維も、その最小構成単位は全く同じである。違うのはユニットの数だけ。一方、機械で大きな力を出すときは、駆動系そのものを巨大にすることによって対処する。より大きなパワーが必要であれば、より大きなエンジン、より大きなモーターを搭載する。これは非常に無駄ではないか。もしも筋肉のような駆動系を発明できれば、さぞかし便利だろう。必要なときに、必要なパワーを発揮できるだけの数のユニットを揃えれば良い。一時的にドーピングするようなもんだ。

もっとも、これは非常に抽象的な議論であって、実現するためには様々な工学的課題を克服しなければならないとは思う。「では具体的にどのような駆動系を作れば良いか」と問われても、門外漢の俺にはさっぱりわからない。

さて、「そもそも生物を模したメカニズムを採用する意味はあるのか」という疑問もあると思う。これには比較的ハッキリ、「ある」と答えられる。限られた資源の中で生きる生命は、コストが高くなることを厭う。生物が採用するメカニズムの多くは、驚くほどローコストで効率的に作動する。これは工業に転化したときにも利点となろう。無論、デメリットもある。それは「完全を追及しない」ことである。我々が遺伝子のミスコピーの果てに誕生したように、生命機構の多くは、「完璧じゃないけど、まァ実用的」というレベルの精巧さしか持っていない。これは機械として見たとき、大きな欠点である。

ニューラル・コンピュータには関心があるけれど、そう考えると信用できんな。自分の頭が信用できないのに、その劣化版をどう信用しろと? そこを上手く解決するのが工学なんだろうな。

2005/05/11/Wed.

T です。こんばんは。

就職活動日記

それにしても、いつになったら「就職活動日記」が終わりになるのだ。連休明けには大学事務の進捗もあるであろうと伝えられていたが、今日になっても連絡なし。ええ加減にせえよ。

ヒゲマン氏や KID JOE 兄との会話でも、「さっさと研究室に出入りしちゃえば?」というアドバイスを頂いた。自分でも考えていたことだったので、今夜、「もう契約とか後回しでええから、とりあえず働かせろやコラ」という内容を、極めて婉曲かつ遠回しに表現したメールを仲介業者に送信した。もうね、給料とかいつでも良いから(良くないけど)、とにかく無為の日々から脱出したい。いくらダラダラ過ごせるといっても、目的もなく、たった一人でとなると、楽しくも何ともねえよ。ホンマ腐りそう。

2005/05/10/Tue.

オッサンの T です。こんばんは。

とある手続きをしたのだが、その際に「独身か」と問われて、「ああ俺は独身なのか」と改めて気付いた。今までは学生であり、特に「独身である」と意識することもなかったから、何だか新鮮な気分である。良い響きじゃないか、独身。

「学生」という身分に終止符を打ってから 1ヶ月。俺自身は何も変化してないが、書類に記入する事項が少し変わるだけで、周囲の俺に対する視線も異なってくるという経験を何度かした。良くも悪くも、「そういうふうに見られるんだなあ」というのが実感である。ただでさえ俺は、当時から「学生です」という主張が信じてもらえないくらいに外見が老けていたので、これからはいよいよ内面も充実させねば、という使命感めいたものもある。

昨夜、メッセンジャーで KID JOE 兄に話したエピソードを書いておく。採用先の面接に行ったときの話。面接後、同席されていた女性研究員が待合室まで案内してくれたのだが、そのときに「同い年とは思わなかった」と言われた。初対面で、最初に交わした言葉がそれである。この女性に常識がなかったわけではなく、要するに、それだけ俺が年上に見られるということである。(「オッサンが来たのかとw」とは、この話を聞いたジョー兄の弁)。

「独身か」と訊かれるうちは、まだ良いのかもしれない。そのうち「お子さんは」と質問されるかもしれない。

2005/05/09/Mon.

家事に精を出している T です。こんばんは。

一昨日に「向かいの部屋から良い匂いがする」と書いたが、これは何も一昨日に限った話ではないし、向かいの部屋に限ったことでもない。この建物の住人は、やたらと自炊する。俺以外の住人は全員学生だと聞いた。少し前まで同じく学生だった俺だが、ちょっと信じられない光景である。俺が特別に怠け者だとは思わない。学生の一人暮らしってそんなもんだろ? 事実、以前に住んでいた建物ではこのようなことはなかった。

今朝も洗濯をしていたら良い匂いが漂ってくる。しかも一人や二人ではない。GW 明けの朝から飯を作って学校か。いやホント、スゴいよ君達。通っている大学の違いかなあ。

読書日記

爆笑問題『爆笑問題の日本史原論 偉人編』を読んでゲラゲラと笑う。

司馬遼太郎/小田実『天下大乱を生きる』を読む。古い対談(1977年刊行)で、ベトナム戦争の話題などが語られているが、この時期から司馬が日本の土地制度を問題にしているのには驚いた。バブルを予見していたような台詞にはドキッとする。

司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 6』を読む。『坂の上の雲』を書き終えた頃のエッセイをまとめたもので、日露戦争と幕末に関する随筆が中心。

2005/05/08/Sun.

一度で良いから見合いというものを体験してみたい T です。こんばんは。

見合い

いや、別に結婚したいとかではなくて、「初対面どうしの男女が、初対面にも関わらず互いに結婚を意識してやり取りする」という、その殺人的に奇妙な状況に興味がある。周囲に見合い経験者がいないので、俺には全く謎の世界だ。だから、できるだけ古風な見合いをしてみたい。冷やかしであることがバレたら袋叩きにされそうだが。

そもそも、対面に座った異性に何を話せば良いのだろう。自分のアドリブ能力が丸裸にされそうだな。ああ、やってみたい。自分でやるのが無理なら、ガチンコの見合いを録画したビデオを観てみたい。絶対面白いと思う。

「見合いという風習は日本にしかない」とよく指摘されるけれど、だからといってそれが悪習だという結論にはならない。ある程度に進んだ現代社会では、恋愛の結果としての結婚が最も望ましいと考えられているのだろうが、しかし世界的に見れば、それは完全に主流とはいえない気もする。小さくは両親、大きくは地域社会といった、自分の属するコミュニティーによって決定される結婚もまだまだ多いだろう。そういう観点から見れば、見合いという、ある程度の決定権が当人に残されたシステムは、中庸という意味で極めて日本的ではある。そのユニークさは評価したい。

角栄の線路に乗って

就職活動で新幹線に乗るたびに田中角栄のことを考えていたのだが、それについて書く。

俺は田中角栄という政治家をリアルタイムでは知らない。したがって、彼の業績で俺が直に触れられるものは、新幹線を始めとする交通インフラのみである。盛大に税金を投入し、利用者の少ない地域にまで張り巡らされた交通網には批判の声も大きいが、いざ利用者の立場に立ってみると、そのありがたみがよくわかる。

俺が採用を希望した研究所の中には、辺鄙な土地に建てられたものもあって、「改造」された日本列島でなければ、とても行くに耐えないというラボもあった。俺が生まれ育った、あるいは住まったのは典型的な地方都市であり、それなりに交通が便利な土地柄であったが、これが田舎であったらと思うとゾッとする。鄙びた土地から鄙びた土地へ、交通網もなく、毎回泊まりがけで遠征するのにも限界がある。「職業選択の自由」といっても、しょせん題目だ。就職活動も、金銭や時間の制約からは免れ得ない。しかして、その「自由の可能性」(変な言葉だが)を、例えば新幹線が広げてくれたのは事実である。

JRも、そして近い将来は高速道路も民営であるから、採算性を無視できないのは理解できる。だが、社会性のある公共基盤として、少々の赤字を覚悟で整備しなければならないものもあるんじゃないか(ゆえに最初は国営だった)。極端な話、赤字路線に乗って上京してくる人間の中に、将来、日本に莫大な利益をもたらす男がいるかもしれない。就職活動の不安にさいなまれながら抱いたこのイメージが、新潟の寒村から東京に現れた田中角栄とダブったとき、俺は彼に少なからぬ親近感を持ったのだった。

まァ、単なる感情論かもしれないけど。だが、角栄の線路に乗って、様々な会社でブチのめされた経験があったからこそ、最終的には望みの仕事にありつけたんじゃないかなあとも思うわけだ。「何人が通るか」だけではなく、「どんな奴が通るか」も、道の価値を決める指標になるんじゃなかろうか。

2005/05/07/Sat.

ネットをしながらダラダラと 2時間くらい晩飯を食べ続けている T です。こんばんは。

自炊日記

晩飯を食いに行こうとしたところ、向かいの部屋から良い匂いが漂ってきたので自炊することにした。何を作ろうか考えながらスーパーをウロウロする。突然すき焼きが食いたくなったので、肉と野菜とタレを買って来た。

すき焼きに限らず、大抵の鍋を俺は好きである。夏でも作ることがある。クーラーの効いた部屋で鍋とビールなんて最高だ。鍋は手早く作れ、しかも不味くする方が難しい。一人で食うには大袈裟で割高というデメリットもあるが、ナニ、それはどの料理にも通じる一人暮らしの欠点である。鍋万歳!

2005/05/06/Fri.

テレビをゲーム機のディスプレイとして使っている T です。こんばんは。

NHK 受信料の法的根拠

NHK の集金が来たので受信料を払う。昨今の凄まじいバッシングを受けてか、気の毒なくらいに集金者氏の腰が低い。氏から頂いたパンフレットに、NHK 受信料の法的根拠が書かれてあったので抜き書きしておく。

Q: 受信料って法律できまっているの?
A: 法律できまってます。NHK は公共の福祉のために、日本全国で受信できる良い放送番組を行うために設立された特殊法人です。そのために営利を目的とする事業を行うことを禁ぜられています。その代わり、NHK の放送を受信できる設備を持っている人は、NHK と受信契約をしなければならないと定められています。(放送法 32条 1項)

Q: 見ていないのに払わなければいけないの?
A: 災害が起きたときには、被害の状況だけでなく、二次的災害を防止するための情報を迅速かつ的確にお届けします。(中略)これらにかかる経費をテレビをお持ちの方に公平に負担して頂こうというのが受信料制度の趣旨なのです。

俺も NHK の受信料には言いたいことが山ほどあるし、そもそも 1分も見ていない NHK に金など払いたくない。しかし、法律で決められている以上は、払うのが筋なのだろうと思って払っているわけだ。褒められた信条ではないかもしれないけれど、「法律で決まっている」と言われたならば、常に俺は「ハイハイ」と従うことにしている。それが法治国家の原則と思うからだ。「法律がおかしい」と主張して法に背く人がいるが、それは子供の理屈だろう。「おかしい」と思うならば、法律を変えるなり撤廃するなりするための運動をすれば良い。俺は政治が嫌いなので、「ハイハイ」と言うことで消極的に分別を守っているつもりなのである。まァ、遵法精神とは少し違うんだけど。

「この法律は正しいから守る、あの法律はおかしいから守らない」では、法律の意味がなくなる。法の善悪を判断するルールが、法律の上にできてしまうからだ。それは新たな法律である。このようにしてできた規範は、やがて同じように破られていくだろう。どこかでラインを引いて、一元的・盲目的に墨守しなければならないのだ。

そのラインをどこに設定するかは、個人の器量による。俺は別に、NHK の受信料を不払いしている人を非難するつもりはない。実際におかしいと思うよ、「テレビを買っただけで契約しなければならない」だなんて。

科学は信頼から成る

ちょっと話が逸れたが、法律に対してそんなふうに考えたのは最近である。その一つに、大学で研究を始めたことが関係していると思っている。俺はウエスタンブロットが下手糞で、いつまで経っても複数のバンドが出るという時期があった。で、そのうちヤキが回ってくる。「このバンドは分子量が違うし、これはコントロールと比べてXXだから……」と、自分の実験結果を正当化したくなるのである。そんなことを繰り返しても実験は上手くならないし、結果が出るわけでもない。何より説得力がない。実験結果はノイズや失敗も含め、全てを一元的に「結果」として受け入れることからしか始まらないのでは、ということに思い至ったのはいつだったか。恥ずかしい話である。

変な言い方かもしれないが、科学とは「信頼」で成り立っているのではないかと思うのだ。例えば「DNA の二重らせん構造」という知識を「事実」として俺も信じているが、「DNAが二重らせんだなんて、俺は見ていない」というのもまた「科学的」な態度ではある。だが、一々そんなことを自分で確かめている時間はない。営々と積み上げられてきた過去の蓄積を「信じる」ことから研究は始まる(定説を疑うことから始まる研究もあるが)。

過去の「信頼」の上に、自分の成果を上積みしていく。そうやって科学の塔は高くなってきたんじゃないだろうか。もちろん自分が積み上げるものもまた、同じく信頼に足るものでなければならない。「このバンドは……」と、言い訳が必要なものは使えないのだ。

「信頼できるもの」を考えるとき、それは大抵シンプルであることに気付く。色々考えるのは面倒臭いし、第一、よく間違う。畢竟、自分をどこまでシンプルにできるかという問題である。そうすれば、自ずと信頼や対応力も手に入ると思うのだが。

2005/05/04/Wed.

晴明神社と白峯神宮に行ってきた T です。こんばんは。

これまた、近い内に写真と一緒にまとめるつもり。今日は簡単な感想だけ書いておく。

晴明神社

「晴明神社」という社は全国に多数あるのだが、今回訪れたのは京都市堀川今出川の晴明神社。御祭神は安倍晴明その人である。今年は安倍晴明を祀ってから千周年であるらしく、由緒正しい寺社なのだろうが、やたらと俗っぽかったので失望した。夢枕獏様々って感じ。

白峯神宮

御祭神は精大明神で、蹴鞠の神様という。GW 中日だというのに、誰も訪れていないひっそりとした神社であった。文化財に指定されているわけでもなく、特に見るものもないので観光客も来ないのだろうが、実は只ならぬ神社ではないのかという印象を俺は受けた。

というのも、ここには崇徳天皇と淳仁天皇が合祀されているのである。ピンと来る人も多いと思うが、祀られている両天皇は普通ではない。崇徳天皇は平家に島流しにされて憤死された方であり、淳仁天皇は淡路廃帝という屈辱的な仕打ちを孝謙天皇から賜った方である。この両帝が合祀されているだけでも只事ではないというのに、この神社には明治天皇が深く関わっているという。

崇徳、淳仁という諡号が両帝に贈られたのは明治になってからである。大権を手に戻された明治天皇が最初にされたことは、崇徳上皇への報告であったというのは有名な逸話だ。どうもこの白峯神社、蹴鞠などという呑気なもののためだけに開かれたわけではなさそうである、というくらいの推察は容易につく。少し勉強してから、また行ってみようかと考えている。

2005/05/03/Tue.

下鴨神社に行ってきた T です。こんばんは。

写真も撮ったので、また適当にまとめてアップする予定。

カテゴリーの誘惑

俺は変な意味で几帳面であって、例えば私生活などでは、自分が決めた通りに物事が進行しないとイライラする。また、ルーチンワークが割と好きで、決められた通りに作業を繰り返すのも苦ではない(あくまで自発的なものに限るが)。そのためか、決まり切った枠内に収まることに、俺は必要以上の罪悪感を持っている。また、奔放なるものに対して憧れが強い。

何の話をしようとしているのかというと、blog のカテゴリー機能についてである。これは非常に便利なもので、この日記でも実現しようとしたことが何度かある。技術的には難しくない。しかし見送っている。自分の性格を顧みるに、一度カテゴリーを作ってしまうと、分類されたカテゴリーに沿うように日記を書いてしまうであろうことが明白だからだ。それは心地よいものだろうという予感もある。設定したカテゴリーに適するような文章も、上手く書けるだろう。否、「書いてしまう」だろう。

それがイヤなのである。善悪ではなく好悪の問題であるから、カテゴリー機能自体に罪はない。そして「カテゴリーに適するように書かれた文章」も悪くはない。あるテーマに沿って書かれたものだから、むしろこちらの方が第三者的な価値はあるのかもしれない。でも、イヤなのである。

繰り返しになるが、これは俺の個人的な感情である。何も「閲覧する人の利便を計ること」や「目的化された文章を書くこと」がイヤなのではない。自分が決めた枠内で嬉々として立ち回ることがイヤなのである。そうすることは楽なんだろうが、それではわざわざ時間を使って日記を書く必要もない気がするのだ。

カテゴリーに沿った書き方をすると、いわゆる縦割り式の記述になってしまうんじゃないかという危惧がある。俺も日記で、「研究日記」や「就職活動日記」などと小見出しを付けてはいるけれど、前の小節と後の小節で話がつながっている場合が多い。そこで思わぬ話題の融合があったりもする。これが面白い。書いている最中に気付く、なんてこともある。こういう発見は貴重だと思うし、大切にしたいと考えている。

カテゴリー機能を使いつつ、それに捕らわれないのが一番良いのだろう。上手に blog を使っている人を見ると、まことに羨ましくなる。しかし俺にとって、カテゴリー分類はあまりにも誘惑が多過ぎる。

2005/05/02/Mon.

漢字 Talk 7.5 以来の Mac ユーザである T です。こんばんは。

Mac 日記

Mac OS X 10.4 Tiger をインストールした。新しい OS はしばらく様子を見てから試すべし、というのが定説である。しかし俺の愛機はプライベートで遊ぶためのものであり、壊れようがデータが吹っ飛ぼうが、誰にも迷惑はかからない。バックアップさえ取っておけば、そもそも致命的な被害が出ることもないし。やはり新しいもので早く遊びたい。

このサイトの読者には Mac ユーザもおられるようなので、少し Tiger について書いておく。新しい OS はクリーンインストールするのが望ましいが、数日前に OS を再インストールしたばかりということもあり、俺は上書きでTigerをインストールした。事前に某掲示板で注意事項を確認する。主な指摘は以下の通り。

これらを行ってから上書きインストールしたところ、特に不具合は発生しなかった。インストール後に再起動すると、新機能の Spotlight (Google Desktop Searchのような全文検索システム) がファイルの索引を作り始める。ファイル数にもよると思うが、それなりに時間がかかる。索引作成中も他の作業はできるけれど、やたらとモッサリするので、飯でも食いながら待つのが吉。

(あくまで俺の場合だが)普段使っているソフトも問題なく立ち上がる。Mail の動作がやたらと重くなるという報告があって、俺もその害を被ったのだが、初期設定ファイルを捨てたら解決した。

あとは Dashboard とか Automator とか、新たに追加された機能で一通り遊んでみた。それらについて述べても良いのだけれど、Win ユーザには退屈だろうからやめておく。Tiger に関して御質問がある Mac ユーザは、「BBS」にでもどうぞ。人柱になります。