- 何のために

2005/04/04/Mon.何のために

日記のネタをひねり出すのに四苦八苦の T です。こんばんは。

新年度が始まり、世の人が忙しく立ち働く中で、日記に書くことすらない生活を送っていることに忸怩たる思いを強くする。今日も面接結果は届かず。明日以降に持ち越し。

読書日記

司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 5』を読了。歴史というこの大きな物語は、いつも俺の視点を一段階上げてくれる。普段、大抵の人間は目の前のことしか見ておらず、今の俺がまさしくそうなんだが、切羽詰まったときには、さらにその傾向が顕著になる。そんなとき、歴史はヒョイと視点を持ち上げ、広々とした視野を与えてくれる。それで現状が変わったり、気持ちが楽になったりすることはないし(もしそんなことがあれば、それはただの現実逃避である)、皆が皆、常に歴史的視野をもって生活をしていたら社会なんて成り立たないのだろうけれど、たまには違う風景を眺めることも大切なんじゃないか。……いや、しかし、これも逃避なのかな。

Web日記

本屋のコンピュータ関連書籍のコーナーに、「おもしろブログの書き方」とか「読まれる日記はココが違う」というような本が山積みになっていた。パラパラと立ち読みしてみたが、要するに、形を変えた「文章読本」の類である。従来の文章読本よりは目的が具体的であり、その分、読んでいて面白い。だが、指南通りに書いたからといって、それが即「笑える日記」や「泣ける文章」になるとは思えない。

「文章読本をありがたがる奴は、ロクなものを書かない」という、根強い主張が一部にはある。どちらかといえば、俺もこの意見に賛成だ。文章読本というのは、結局は技術書なのである。そこを勘違いしては元も子もない。文章とは厄介なもので、ときとして神聖視されたりすることもあるが、その原点は「情報伝達の一手段」である。文章を書くことそのものが自己目的化してしまうと、妙な具合になる。

「面白い文章を書きたい」という願いは、本末転倒なのだ。他人に伝えたい「面白いこと」がまずあって、その手段として文章を選ぶ。その上で、「面白い文章を書くテクニック」が必要であれば、あるいは文章読本も有効かもしれない。その程度のものである。文章読本を読んで、「じゃあ俺も一筆書いてやるか」と考える奴に尋ねてみたい。お前は何が書きたいのか。これでは、パソコンを与えられたオヤジが、とりあえず Yahoo! で「エロ画像」を検索してみるのと大差ない。いや、その行為を否定するつもりはないけれど。

思えば、ほとんどのサイトや blog が、「開設すること」それ自体を目的としてスタートしているような気もする。発信したい情報があって運営されているサイトなど、ほんの一握りだろう。その点では、俺だって同じである。あまりエラそうなことは言えない。