- 言葉の対応

2004/10/20/Wed.言葉の対応

T です。こんばんは。

昨日の日記で「遭難覚悟で出勤」なんて気勢を上げていたが、無理。さすが超大型の台風 23号、覚悟とか関係なしに、出勤しただけで遭難確実な勢い。そもそもラボに行ったところで、これではK先生をはじめ、誰一人来ているわけがない。いや、確認したわけじゃないけど。もし来てたのなら、本気でスゴいと思う。

生物学におけるタームの問題

一昨日の続き。「タンパク質」と「ポリペプチド」はほとんど同じモノを指しているんだけれど、そもそも言葉の成り立ちからして違うので、うまく対応させるのは難しい、ということを書いた。そしてどちらかと言えば、生物学で使われているタームの方に問題があるんじゃないか、という気がする。

どうしてそんなことになったのか、というのが続きである。近代以前の生物学は、そのほとんどが現象論であった。現代生物学でも重要な位置を占める諸分野、例えば遺伝、発生、進化、行動、学習なんかは、そのメカニズムの基盤すらわかっておらず、現象論として語られてきた。当然のことながら、そこで使われるタームは現象論としての言葉となる。

具体例を挙げると、その昔、遺伝子は粒子だと考えられていた。これはあくまで(当時の)仮定である。「遺伝子」は仮定の言葉として生まれたわけだ。遺伝という現象があること、そしてその現象には法則性があることはわかっても、メカニズムが判明していない以上、仮定としてのタームを設定するしかない。約半世紀前までは、遺伝子の実体はタンパク質なのか核酸なのか、ということが真剣に論じられていたのである。だからこれは、ある意味では仕方のないことだ。

現在、遺伝子の物質的実体は DNA であり、その塩基配列が遺伝情報を担っているというのは常識以前の知識となっている。そして、ゲノム中のほとんどの配列が大した意味をもたず、意味を持つ部分も、エキソンやイントロン、プロモーターやエンハンサーといった配列に分類されることが、随分前に明らかになった。

しかし「遺伝子」という言葉が作られたとき、そのようなメカニズムは想定されていなかったわけで。そこへ新たな知識や概念を押し込もうとするから、どうしても無理が出る。生命現象は化学反応であり、そのメカニズムは物理的な構造や力学に還元される。そのような唯物的基盤から積み上げていったものが最終的に目指すところは、いまだに生き残っている「現象論の言葉」なのである。生命科学の論文が抱えているジレンマの一つは、そんなところにあるのかもしれない。

タームにおける日本語の問題

もう一つ例を挙げれば、一番手強いのが「進化」という言葉である。進化の実体は、DNAの塩基配列の変化である。しかし、それは進化の必要条件ではあるけれど、充分条件ではない。塩基配列が変わって死んだりするようなら、それはただの変異体だ。死なないまでも、大して生命活動に影響がなければ、やはり一つの対立遺伝子に過ぎない。そこで「意味」の入り込む余地が生まれる。中立進化説の「中立」なんて、その最たるものだろう。なんだよ、中立って。それは主観じゃないのか。少なくとも科学の言葉ではない。そういう問題がある。

さらにもう一点。これは日本語特有の問題なのだが、漢字で「進化」と書いた瞬間に、新たに別の意味が加わる。「Evolution」という英語を、表意文字で「進化」と訳した途端、「進」という文字によって、ほとんど無意識に、あるベクトルが生まれてしまう。元々の「Evolution」の概念に、そんなベクトルは含まれているのだろうか?

(「Evolution」の語源はラテン語の「Evolve」であり、「(巻物などを)開くこと」という意味がある。「進」という文字が導くベクトルに似たものがあるかもしれない)

難しいなあ。