- Diary 2007/12

2007/12/31/Mon.

今年は反省が多い T です。こんばんは。

いつもは年末にその 1年の簡単な総括を書いていたのだが、今年はどうも気が乗らないのでやめることにした。気が向いたらまた書く。

禁煙日記

禁煙はこれまでに 2度ほど企てていずれもあえなく挫折したのだけれど、2008年からもう一度禁煙に挑戦しようかなと思って色んな人に言い触らしては自分にプレッシャーをかけている。なので日記にも書いておく。失敗したときは嗤って頂きたい。

禁煙を志した理由は色々とあるのだけど最も大きいのは近頃ますます激しくなる一方の喫煙者差別にある。「喫煙 = 悪」というパラダイムが確固として存在している現状、そもそも喫煙者差別は差別として認識されてすらいない。これは敵わんなあ、というのが 1つ。

禁煙を推進している組織団体は様々にある。その中でも、喫煙が科学的社会的経済的健康的合理的に「悪」である理由を最も豊富かつ具体的に提示しているのは医学界であることは間違いない。そして俺は、医療関係者でこそないが職業人としても学生としてもこの医学界の片隅にいるわけで、これはマイったなあ、というのが 1つ。

どうも消極的な理由である。私の乏しい体験からいうと、禁煙に一番必要なのは「何が何でも禁煙せねばならん」という強固な意志およびそれを支持する動機 (例えば妊娠したから、とか) だと思うのだが、今の私にはそれがない。せいぜい後ろ指を気にしなくて済む、という程度のものだ。そう考えると、喫煙という素晴らしい行為を捨ててまでそんな下らない居心地が欲しいのかという疑問すら湧いてくるだが——、いかん、そもそも論になってしまうではないか。これではダメだ。

などと煙草を吸いながらこの日記を書いている。今日はまだ OK。

今日のニコニコ動画

それでは皆様も良いお年を。新年の更新は恐らく 4日以降。

2007/12/28/Fri.

骨を斬らせて肉を断った T です。こんばんは。

大赤字である。それが、私の 2007年のイメージ。

時間に疎密濃淡があるように感じてしまうのは僕達が時間の流れを制御できないからだ。時間は皆に等しく、かつ一方向的に流れている。少なくともそういう共通認識が大前提としてある。僕達にとって、単位時間あたりの出来事の多寡によって時間の濃度をイメージするのはとても簡単で自然なことだ。一方、単位出来事あたりに要した時間の量を、伸縮するゴムのように想像するのは生理的に難しい。

以前の日記で、「僕が何かしらの生命現象をイメージするときは、いつも個々の登場人物 (多くはタンパク質) がそれぞれ独自の相貌を持ってカチャカチャと動いたり組み合わさったりする。とても機械的なのだ」と書いたが、これについて少し補足する。

僕が機械的にイメージするのはあくまでその抽象化された機構であって、例えば細胞自体を精密に組み合わされたマシンのように捉えているわけではない。細胞内の部品は、個々の単位では常に分解と生成が繰り返されている。例えば筋肉繊維は絶えず重合と脱重合に晒されているわけだ。イオンは細胞膜を頻繁に行き来するし、細胞自体も組織の中で死んだり分裂したりと様々な運命の輪廻を巡る。

ヒトの身体を構成する原子はは約8年間で完全に入れ替わるという。それでも 8年前の僕と今の僕が連続している (という幻想を抱ける) のは、僕が部品依存的なマシンではなく、構造的な機構によって決定される生命だからだ。自分では上手く表現できないから次の一説を引く。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

『方丈記』で鴨長明が述べているのは「無常」ではあるが、これは同時に「社会の連続性」を表しているともいえる——、そう思うのは僕だけだろうか。

所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

(機構は変化していないが、個々の部品は変化している)

こう書いてあるから「無常」を感じるのであって、逆にしてみたらどうか。

いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなりけれど、所もかはらず、人も多し。

(個々の部品は変化しているが、機構は変化していない)

今度は無常ではなく永続性を感じないだろうか。まァ、しょせんは言葉遊びなんだけれど。「無常」って、少しも儚い概念ではない。むしろとてつもなく強固で強大で強靭な思想だ。それと同じことが生命にもいえると思うんだよね。

2007/12/20/Thu.

金銭で表現された気持ちを理解できない人間は、物心ともに貧しいと思う T です。こんばんは。

昨日の続きだが、ちょっと遠回りしながら書く。

私の実家は商売をやっている。個人経営、というよりは少し規模が大きくて、といっても 3店舗ほどの絵に描いたような小企業なのだが、ともかく、その長というのが祖父や父の仕事であった。このような環境で生まれ育ったこと、にも関わらず私が家業を継がずに研究という仕事をしていること、これらは私のアイデンティティの最も根幹を形成する要素なのだが、通り一遍以上の説明は誰にもしたことがないし、これからもするつもりはない。本当に個人的なことは語り得ぬものだし、そもそも語りたいという欲求も、理解されたいという願望もない。

さて、ラボの経営、統率、運営というのは小企業のそれに似ている。ラボのボスと小企業の社長はよく似ている。私にはこのことが比喩ではなく、実感というか皮膚感覚で理解できる (つもりでいる)。だから「給料の財源」「消耗品と人件費」という話は私にとってほとんど生理的な興味なのだが、こういう話を例えば研究員嬢にしても今一つピンと来ないようである。ボスあたりに話を振ると、「オオわかってくれるか」的な反応が返ってくるので、私の焦点はズレてはいないように思う。かといって、研究員嬢がボンヤリしているわけではない。私が特殊なだけである。

私は今、テクニシャン嬢達 2人と実験 + α に従事している。ボスは私に仕事の大まかな指針を与えるだけで細かいことは一々指図しない。当たり前といえば当たり前なのだが、これはなかなかできることではない、という気もする。私およびテクニシャン嬢達 2人の給料、そしてこの 3人が実験するための費用を考えると 100万円/月あたりが一つの目安となる。非常に極端な表現をすると、私はボスから月間 100万円を委託されて仕事をしているともいえる。外部の業者と 100万円/月の委託研究を契約することを想像すると、ボスの太っ腹がよくわかる。普通なら、もう少し口を挟みたくなるものではないだろうか。あるいは、私ではなくもう少し能力のある人間に任せたいと思うのではなかろうか。金が唸るほどあるというのならともかく、我がラボはそこまで裕福ではない。また、無料の労働力である大学院生が存在する大学のラボでもない。

ボスが私に寄せている信頼や期待がどれほどのものであるのか、本心のところはわからないが、少なくとも金額をベースに忖度することはできる (そして、ただ「雇われている」人間はこういう想像ができない)。したがって私はボスに感謝すると同時にボスを畏怖もする。仕事に責任を感じるとともに恐怖を覚える。とても恐ろしい。

そして、私が感じている以上の重圧を父やボスが背負っていることは間違いないわけで、その責に思いを馳せるだけで胃が痛くなってくる。だから私も頑張る、というのはもちろん論理の飛躍である。別に共感してほしいとは思わない。

2007/12/19/Wed.

The Beatles が大好きな T です。こんばんは。

気付いている人なら誰もが知っている。The Beatles の有線というものがあって、このチャンネルでは延々と The Beatles の曲だけを流している。そんなマニアックな、と思われるかもしれないが、意外に多くの店で流れているものだ。モールのようなオープン・スペースの店から好きな曲が聴こえてくると、ついフラリと足を踏み入れてしまうからあながち馬鹿にできない。今日はそのせいでズボンを買ってしまった。

The Beatles の初期に "Eleanor Rigby" という名曲があって、その中に 'Father McKenzie' (マッケンジー神父) という歌詞があるのだが、これが「狭間賢二」(はざま・けんじ) という日本人の名前に聴こえて仕方がない。この空耳は多群兄だったかジョー兄に教えてもらったはずだ。「狭間賢二は The Beatles 第五の男」などといって笑っていたことを思い出す。懐かしいなあ。

ちなみに「The Beatles 第五の男」とは、一般的に The Beatles のプロデューサーであったジョージ・マーティン (George Henry Martin) を指す。リンゴの前にドラムを叩いていたピート・ベスト (Randolph Peter Best) ではないし、マネージャーであったブライアン・エプスタイン (Brian Samuel Epstein) でもない。

何だか色々と思い出してきたぞ。ジョー兄はエプスタインの評伝を書いたことがあるはずだ。エプスタインの私生活には謎の部分も多く、睡眠薬による死も自殺なのか事故死なのか決着していない。確かなのは、彼の死後、The Beatles のメンバー間で対立が深まり、解散に至ったということだ。メンバーの確執は以前から潜在的にあったのだが、エプスタインの存在がそれを抑制していたという一面もよく指摘される。

ああ色々と思い出してきたぞ。「狭間賢二」という響きが気に入った私は、この名前の主人公が登場する下らない小説を幾つか書いたのだった。フルフェイスのヘルメットを被ったまま嘔吐したため自らの吐瀉物で溺死しそうになる、というトンデモない話もあった。彼の同級生には 'Elenor Rigby' をもじった「陸部絵里奈」(りくべ・えりな) という女の子がいたはずだ。懐かしいなあ。彼らはまだハードディスクのどこかにいるはずである。元気にしているかなあ。

などとひとしきり昔を懐かしみ、シャワーを浴びる。溜め息が出た。

月曜はセミナーの後、ボスや助教の先生と呑み、火曜はボス主催の我がラボの忘年会。明日は隣のラボの忘年会に招かれている。いささか疲れているのは宴会続きだからではなく論文の追加実験が上手くいっていないからだ。そこからまた色々と考えたのだが、それはまた後日に書く。

2007/12/15/Sat.

先日の日記の枕について捕捉すると、要するに「おもてなし」というのは人的サービスのブランド名であり、それゆえ値段も張るというだけのことであって、決して特殊な精神があるわけではない、ということが言いたかった T です。こんばんは。

これは以前にも書いたかもしれない。携帯端末用に shuraba.com Mobile というページを用意して、最新のエントリーをできるだけシンプルに表示しているが、CSS および Javascript が効かないブラウザ (つまり携帯電話でのデフォルト) で見ると、現在のトップページもほとんど Mobile 版と同じように表示される。サイト内の全ページが見れるので、携帯電話でも普通に shuraba.com にアクセスして頂いた方が便利かもしれない。という提案。

研究日記

論文を revise するための実験で頭と胃を痛めている。年末年始はゆっくりとしたいが無理かもしれない。とはいえ、あまり深刻に考えないようにはしている。論文が落ちたところで死ぬわけではない (遠回しに自分の首が絞まる可能性はあるが)。以前ならこういう状況では頭がカッとしたものだが最近はその頻度も減ったように思う。良いことなのかどうかはわからない。

禁欲と求道

「ストイック」という語はしばしば「禁欲的」と訳されるがこれはいかがなものだろう。凡夫の発想のようにも思える。ストイックな人は別に欲望を封じているわけではなく、むしろ自らの欲望に愚直なまでに忠実なだけではなかろうか。ただ、その欲望の種類が一般的なものではないから、他人の目には激しく己を律しているように映る。というわけで、「ストイック」は「求道的」と訳すのが相応しいように思える。道を求めるのは欲に他ならない。

出家という行為を考えよう。求道のために家族すら捨てるわけだが、これも別に禁欲しているわけではなくて、悟りを得る (という欲) のために一般的な生活では常識とされる家族とのコミュニケーションすら捨て去る利己的かつ反社会的な行為である。という具合にも解釈できる。そしてひたすら修業する。これのどこが自己管理か、と言えなくもない。もちろん、それが悪いと主張するつもりもない。

「好きなことをやるために我慢する」という言い種は実に根本的な矛盾を孕んでいるが、何故かそのことに気付く人は少なくて、私もついうっかりと使ってしまう。これは欺瞞である。自分の価値観でさえその程度の曖昧なものなのだから、あまり難しく考えるのはよろしくないだろう。

2007/12/11/Tue.

「おもてなし」という言葉が嫌いな T です。こんばんは。

「北海道シチュー」という名前の商品が存在するが、原料の 1つである生クリームが北海道産というだけでこのようにネーミングするのは産地偽装や誇大広告と弾劾するべきではないか。この場合、どう考えても「北海道」という語はブランドというかイメージとして恣意的に使われているわけであり、したがって北海道知事はハウスに対して何らかのロイヤリティを請求しても構わないと思う。というか、北海道民の誇りのためにそうするべきだ。CM ではログハウス風の部屋に暖炉を焚いてシチューを啜る場面が映じられているが、「北海道はそのような場所であってほしい」という無責任な感覚に基づいた幻想や要求もやはり北海道民に対して無礼であろう。俺が北海道民であったならばハウスに怒りのメールの一つでも送ってやるところだ。

これは先進国と発展途上国、旧宗主国と旧植民地の関係にも根深い所でリンクしている感情じゃなかろうか。行き過ぎた平等主義や保護政策が人種差別の裏返しであるのと同じ。「自然を守ろう」っていうのも一緒。段階を踏んで書くのが面倒なので話を端折るが、大体わかって頂けると思う。

京都も同様である。日本中、否、世界中から「The Japan」であることを求められ、その期待に応えるために私利私欲私財を封じて不自由で中途半端な都市の維持構築に腐心し観光客が落とす金で糊口をしのいでいる。結果、京都は近代的な都市になり損ねた。それが悪いとは全く思わないが、観光立国、観光都市の民になることは動物園の動物になるのとある意味では等しいということに、プライドが高いと評される京都人は果たして気付いているのだろうか。そのへんが怪しいし、時折、俺が「京都も巨いなる田舎」と思ってしまう理由でもある。

これは、他者からどう見られているか、それに対してどういうリアクションをとるのか、という話である。観光地として売り出すのと、観光地であることを求められるのは少し意味合いが違う。魅せるのと媚びるのも違う。自ら舞妓を志して世界にアピールするのと、外国人から無差別にゲイシャとして見られるのではエラい違いだ。といったら書き過ぎか。でも、紛い物ではない自尊心を自覚的に保つ必要はあるだろう。

shuraba.com は北海道知事を応援します。

2007/12/10/Mon.

最近は研究のこと以外で頭を悩ますことも少なくなった T です。こんばんは。

忘年会その1 ということで、先日 accept された論文の関係者が集って打ち上げ。いや目出度い。わはは。

解散後、隣の研究員嬢からメールが届いていることに気付く。とある実験をしたのだが解析に自信がないので見てほしいとのこと。最近、この種のメールを頻繁に頂戴する。冷酷にいえば、コラボレーションでもない限り、私が他の研究室の実験に手を貸すことには何のメリットもない。だからといって要請を断るのはダメだと自分を戒めているのは、留学された先生の仕事を僕が引き継いだときの途方に暮れた感覚が今でも鮮烈に残っているからだ。引き継ぎが甘かったというわけではない (これは自信を持って言える)。それでも、引き継がなければわからないもの、その立場に立ってみないとわからないことがあったということだ。直面する数々の問題に対してはもちろん自助努力で当たっていくわけだが、それでもどうにもならないときがある。

チラチラと垣間見たり噂に聞いたりする限り、隣の研究員嬢の立場は当時の僕と似ているように思える。

Help! I need somebody.

Help! Not just anybody.

Help! You know I need someone.

Help!

(The Beatles "Help!")

そんなときに助けてほしいのは「誰か (somebody)」であって、「誰でも良い (anybody)」わけじゃあない。自分で努力せずに安直に助けを求めるのは論外だけど、そうでない限り、呼びかけられた人間は振り向かなけりゃいけない。そして、呼びかけられるに価する人間はそのことを無意識下で知っている (ように観察される)。

どうでも良いが「You know I need someone」って、いかにも英語って感じの言い回しだよね。こういうのがパッと言えたら格好良いんだがなあ。

話を戻すと、自分でいうのも恥ずかしいのだが、もうそろそろ僕にもそういうことが求められるようになってきていると思うんだ。僕の絶対的な力量は関係なく、ある範囲内での関係性の中で自分がそういうポジションに位置するのなら、甘んじてその役割を引き受けるのが漢ってもんじゃないか。

人が育ってポジションにふさわしい人材になるということはほとんどないんですよ。現実はその逆で、「ポジションが人を育てている」というのが実態です。

(「努力すればスキルが向上して上に昇れる」というのは幻想 - 分裂勘違い君劇場)

「損な役回り」という発想そのものが「損」なのではないか。

などと青臭いことを考えている。考え過ぎかもしれない。だけど、僕を頼ってくる人が、当時の僕と同じくらいに困っている可能性があるのなら、やっぱり看過することはできない。僕が今の職場、今の立場で経験したことは (自分にとって) 結構大きなものだと思うんだ。

どう見ても青二才の戯言です。本当にありがとうございました。

2007/12/08/Sat.

昨日始めた Twitter をしばらく放置することにした T です。こんばんは。

「お前の Web メールのアドレス帳に登録されている人間が Twitter をやっているかどうか検索するか?」という機能があったので、誰かいるかなぁと試しに数件を検索してみたら「誰もいなかったから invitation のメールを送ってやったよ」という結果が返ってきて唖然とした。こら、勝手にメールを送るな。アホか。

というわけで、極く一部だが、私のオン生活とは何の縁もない人にメールが送られてしまったので、ほとぼりが冷めるまで凍結することに。すぐに再開する予定ではいる。

2007/12/07/Fri.

Twitter を始めた T です。こんばんは。

本当に名誉なこと……なんだろうか

モルガン (M) は遺伝子の組換え価、つまり確率的な事柄に対する期待値の単位であり、染色体上の物理的な距離とは非常に密接な関係はあるが長さそのものの単位ではない。ゲノムの塩基配列が明らかにされる以前、遺伝子が染色体上に占める位置は生物学的に極めて重要な情報であった。教科書には必ず染色体の物理地図 (phisycal map) が掲載されているし、年配の研究者は実によくその地図を把握している。そういえば中国の学会では研究員嬢が、彼女の研究している因子の物理的位置を質問されて立ち往生していたっけ。「何でそんなこと訊くの?」という表情が印象的だった。確かに、どうでも良いことのように思ってしまいがちだ (私もそうである)。

ゲノム情報が明らかにされて以降、各遺伝子の物理的位置関係はフラット化され、それらが染色体上のどこに存在しようと容易にアクセスできるようになった。古典的な遺伝病の原因遺伝子ならともかく、ある遺伝子が何番染色体のどこに位置しようが、我々はあまり気にしなくなった。でも、各遺伝子の物理的な位置とその発現は本当に本質的な関係はないのだろうか。という疑問は後日への課題として本題に入る。

モルガン、センチモルガン (cM) という単位名はトーマス・ハント・モーガン (Thomas Hunt Morgan) の姓にちなんでいる。こういう例は他にもあって、ワット (Watt, W)、ヘルツ (Hertz, Hz)、ジュール (Joule, J)、パスカル (Pascal, Pa) などなどがよく知られている。これらの単位を見るたびに、もし日本人の名前だったら……と想像してしまう。「センチ田中」「キロ山村」「ヘクト伊集院」。ヘンな感じである。

「相生 (Aioi)」みたいな母印ばかりの苗字だったりすると、英語圏の人間には発音できんぞ。我々の心配することではないが。俺達はいつも英語に苦しめられているのだから、是非とも全国の相生氏には世界的な研究をしてもらって日本語で一矢を報いてもらいたい。

shuraba.com は相生氏の研究を応援します。

2007/12/03/Mon.

そろそろ HTML エディタを乗り換えようかなと考えている T です。こんばんは。

愛用しているのは Adobe GoLive 6.0。2002年の製品である。このサイトを作るために購入した (いや、最初は PageMill 3.0 だったかな)。以来、ほぼ 6年に渡る日記はほとんどこのソフト上で書いている。購入当時、Mac OS のバージョンははまだ 8 とか 9 だったはずだ。この GoLive は今でも問題なく動いてプレーンな HTML を書くだけなら何の不都合もないのだが、文字コードや特殊文字、CSS の表示にはさすがに不満が出てきた。そろそろ買い替えどきかな。元は充分以上に取ったと思う。

研究日記

夜は大学で製薬会社協賛のセミナー。

細胞死はアポトーシス (apoptosis) だけではない、という話が面白かった。Bcl-2 → cytochrome C → Apaf-1 → caspase-9 というミトコンドリア以降の古典的な経路は同じでも、ミトコンドリアに対して Bak/Bax を介さない経路もある。もちろん細胞はネクローシス (necrosis) でも死ぬしオートファジー (autophagy) でも死ぬが、オートファジー細胞死は初代培養細胞でしか起きない。癌化した cell line でもオートファジーは起きるがそれで死なないということは逆に、癌細胞 = オートファジー細胞死が機能しない細胞ということもできる。などなど。

セミナー後、大学院の K先生と駅へ向かいながら少し話す。「T君ってどんな分野に興味あるの? 今日の話はシグナルだったけど」。難しい質問だ。興味っていうのとはちょっと違うかもしれないけれど——、以下に少し書いてみる。

僕が大学で最初に行った研究は筋肉繊維の運動をスイッチするタンパク質という超古典的かつ機械論的な研究だった。だから僕が何かしらの生命現象をイメージするときは、いつも個々の登場人物 (多くはタンパク質) がそれぞれ独自の相貌を持ってカチャカチャと動いたり組み合わさったりする。とても機械的なのだ。

シグナルは「情報伝達」という点に最大の眼目が置かれるけど、「『情報』は抽象的な概念として扱われることが多いが、必ずや何かの『実体』を伴う具体的なものである」と僕は思っているから、単にシグナルの流れを追うだけでは物足りない気が常にする。それぞれのシグナル分子の顔をもっと見たい。医学的な研究の場に移ってから面白いと思ったのはやはり薬である。EBM (evidence-based medicine) とやらで研究されている薬の多くが受容体 (receptor) - リガンド (ligand) の系であり、この開発には「形」が大きくものをいう。副作用のかなりの割合が特異性の問題に帰着する。

どうでも良いが、就職してから「EBM が最近の流れ」と聞いたときには本当にビックリした。じゃあ今までは証拠 (evidence) がなかったのかよ。それまでも薬は好きじゃなかったが、EBM の文字を見てからはますます嫌いになった。職場では臨床試験の裏側なんかもチラッと覗けたりするのだが、まァ色々と考えることもある。断っておくが、以上はあくまで個人的な感想である。

これは誤解を招く表現かもしれないが、臨床試験とは名前を変えた人体実験のことである。人間の身体が極めて高度に複雑であり、かつ個人によって千差万別である以上、製品として完璧な薬なんておよそあり得ない。したがって、既に実績のある薬の服用でも、それは常に実験の延長であるともいえる。長年に渡ってしつこく追跡調査がなされるのはそのためだ。臨床試験という人体実験が悪いとは全く思わない。それなくして現在の我々の健康は勝ち得なかったのだから。だから僕の表現で誤解はしないでほしい。

ただ、実験であるから失敗する可能性は常にある。倫理的な問題があるから、できるだけ失敗の可能性を低減させるように基礎研究というものがある。そのためには知らなくて良いことなんて 1つもない。どんな研究もどこかで何かにつながる可能性がある。

「何の役に立つのか」と訊かれたら、「何かの役には」と答えよう!

2007/12/01/Sat.

来年 3月 13日発売の MHP2G に備えて再び MHP2 をやり込んでいる T です。こんばんは。

MH には様々なクエストがあるんだけど、最もポピュラーなのは「モンスター XX を狩猟せよ」というタイプ。大型モンスターならば大抵 1体の討伐で済むのだが、雑魚ならば 20体、50体という数を要求される。そんな雑魚クエストでは、狩猟が進むと「残り X匹です」というメッセージが現れてクエストの進み具合を教えてくれる。今日、このメッセージで「何匹」と「何頭」が使い分けられていることに気付いた。虫ならば「何匹」、獣なら「何頭」となっている。へえ。妙なところで感心してしまった。

大型哺乳類、いわゆる獣は「1頭」「2頭」と数えるが、「1匹」との区別はどこから現れるのだろう。実験で使うマウスやラットは「1匹」で数えている。ネコやイヌならどうか。「ネコ 1頭」というのはあまり聞かない気がする。やはり「ネコ 1匹」だろう。「イヌ 1頭」は違和感がない。無論「イヌ 1匹」でも構わないのだが。ウサギは「1羽」と数えるが、これは僧侶がウサギを食べるからである (僧侶の肉食は禁じられているが鳥ならば可)。それにしてもどうしてウサギなのか。帝釈天の腹を満たすために自らを火に投じたウサギの説話が仏教にあるが、それと関係しているのだろうか。

閑話休題。といっても全てが閑話なのだが、話を助数詞に戻すと「3匹の子豚」という童話があるが、どちらかといえば豚は「3頭」と数えるんじゃないか。魚は生きていると「1匹」と数えられるが食用に供された瞬間に「1尾」となるのは不思議なことだ。虫は「1匹」である。日本語 (というか漢字) が意味する「虫」の範囲は広いのだが、概ね「1匹」で良さそうに思われる。

ヒトを「1人」と数えるのはよく考えればヘンだよね。イヌを「1犬」と数えるようなもんだ。

今日のニコニコ動画

こういう組み合わせってどういう具合に閃くんだろうな。