- 『ミカドの国の記号論』猪瀬直樹

2007/05/23/Wed.『ミカドの国の記号論』猪瀬直樹

日本で見られる奇妙な事物について、その根元を探り経過を見る。テーマは時事的なものが多く、そういう意味ではいささか古い本 (単行本の刊行は 1991年) だが、その切り口は鋭く、今読んでも充分に面白い。

天皇と記号

第1部は「天皇と記号——ミカドの祝祭空間 (Emperor and Signs)」と題され、今上天皇 (平成天皇) の家庭モデル、紅白と黒白の幔幕、神前結婚、高御座 (たかみくら)、そして近代天皇制について語られる。我々が「伝統的」と思い込んでいる事物も、その源泉は近代にあったりするから面白い。そして何より興味深いのは、なぜ「伝統的」と思い込んでいるのか (思い込ませれているのか、思い込まそうとしたのか) という謎である。それは意図的であったり偶然であったりするのだが、猪瀬はそのような綾を 1つ 1つ丁寧にほぐしていく。

彼の持論で目を引いた部分を引用する。

僕はつねづね、天皇の死はアッパーカットのように瞬時に効果を顕すものではなく、ボディーブロウのように徐々に効いてくる、と述べてきた。

昭和天皇は、明治天皇のイメージと重ね合わせることができる。その功罪はともかく、両者とも "偉大な天皇" としてカリスマ性をもっていたからだ。

藩閥政治は政権交代のない自民党政治に似ていた。薩摩と長州による政治中枢の独占は、派閥による政権のたらいまわしになぞらえられよう。こうした藩閥体制から、政党により政権交替のある政治に転換するには、大正7年の原敬内閣出現まで待たねばならない。

「大正デモクラシー」は、明治の藩閥政治に対する批判と政党政治の勃興をもたらした。しかしいっぽうで、ひたすら観念の (思想の、言葉の、と言い換えてもよい) 水位を低下させた。おおよその事態はそのまま今日にあてはまるだろう。

アンチ消費税でスタートした「平成デモクラシー」は、大量の婦人議員を誕生させた。しかし、これも一時的な現象にすぎないだろう。消費税ブームにわいた世論も一過性の昂奮にすぎない。したがって女性票をあてにした社会党の "好景気" もまた短命となろう。

婦人議員が増えたことは別に進歩でもなんでもない。「人、人を疑い、我、我を疑う」というのっぺりとした時代が再びやってきたにすぎない。伝統的権威が消えたとき、状況はただ裸でされされてしまうのである。

(『自民党と「ミカド喪失」について』)

日本人と記号

第2部は「日本人と記号——記号化された心的空間 (The Japanese and Signs)」とある。ここで採り上げられる話題は天皇よりは柔らかい。Vサインの変遷、スピッツは和犬である、コーヒー、校歌、CI、などなど。探求の目は様々な事象に向けられる。

第3部は「大衆文化と記号——集合的無意識の画一的空間 (Mass Culture and Symbols)」。松竹梅のオリジナルは何か、参議院の「参」の字の由来、ブロック塀、エンゲル係数、国会議員の呼称、テレビ税、などなど。

ノンフィクションを文学史に位置づける

巻末では猪瀬と小島信夫の対談が載せられている。これがまた面白い。

猪瀬 自分史、私ノンフィクションは、私小説と同じことですからね。私小説の場合は、文章修業が厳しかったということが唯一の看板で。

小島 よく知ってるね (笑)。なぜ私小説はとくに修業が必要だったのかねえ。

猪瀬 生活空間が四畳半の世界で、アイテムが少ないから、磨かなきゃいけないんですよね。アイテムが一〇〇個しかなければ、一〇〇全部磨けるけど、一万になると、全部磨いている暇はないですから。(笑)

(対談「ノンフィクションと文学の間」)

爆笑である。『殺祖』というふざけた小説を書く、小島らしい、飄々とした姿勢である。

猪瀬 高度経済成長が六〇年代で、七〇年代からはまあ豊かな社会ということで、そういう時代っていうのは、一種の毒が免疫になって、太宰治みたいにピエロを演じてももはや毒にならない。三島由紀夫が死んでみても、個人の毒っていうのはなかなか効かない。これは作家としてもつらいところでしょうけれども。

小島 つらいことだ。個人の毒を資本にしてやってきたわけだからね。

猪瀬 そのときにどういうスタンスでやるか、どういう距離をとるか、どういう世界観をもつかを再考するよりなかった。で、七〇年代から九〇年まで、だいたい二十年にわたってノンフィクションというものが一つの時代を作ったんですが、これは広い意味で明治以来の文学史のなかの一つのつまり自然主義とかプロレタリア文学とか私小説なんかがあったように、ノンフィクションという時代があったと考えたほうがおもしろいと思うんです。

(対談「ノンフィクションと文学の間」)

さて、では 21世紀初頭はどのような時代になるのだろう。この対談直後に起こった湾岸戦争 (1991年) は、ノンフィクションである戦争を、一気にフィクションの世界へと押し込んでしまった。先のアイテム論を援用すれば、インターネットがもたらしたアイテムの数は 1万では済まされないだろう。ネットを流れる情報はフィクションか、ノンフィクションか。我々は次の時代を、再び考えなければならないだろう。