- 『ひきこもれ』吉本隆明

2007/05/26/Sat.『ひきこもれ』吉本隆明

何とも頼もしいタイトルである。副題には「ひとりの時間をもつということ」とある。執筆されたものではなく、語り下ろしなので 1時間もかからずに読破した。

要旨を抜粋する。

テレビなどでは「ひきこもりは問題だ」ということを前提として報道がなされています。でもそれは、テレビのキャスターなど、メディアに従事する人たちが、自分たちの職業を基準に考えている面があるからではないでしょうか。

世の中の職業の大部分は、ひここもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。学者や物書き、芸術家だけではなく、職人さんや工場で働く人、設計をする人もそうですし、事務作業する人や他人にものを教える人だってそうでしょう。

家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います。

(第1章「若者たちよ、ひきこもれ」)

この主張を基底に、いじめや不登校、自殺、老い、そして引きこもりがちだった吉本自身の想い出などが語られる。私も引きこもるのが好きな性質だから、吉本の意見には基本的に賛成である。

吉本は、引きこもりを優しく容認するが、手放しで認めているわけではない。

働くというのは、ある一定の仕事をして賃金をもらうことです。働くことが大事であるのはいうまでもありませんが、ボランティアのように無料で何かをするというのは働くということに含まれません。労働の対価として、賃金をきちんと受け取ることがすべての基本です。

ひここもりの人にボランティアをやらせて、それでもって世の中と関わらせようというのは間違っているとぼくは考えます。安い賃金でも、本人が大変でも、お金をもらって働くことが大事です。

(第4章「ぼくもひきこもりだった」)

要するに、ニートは不可、ということだ。また、ボランティア活動や、不登校児のためのフリー・スクールを主催する側にも問題があると断ずる。最初に引用した部分でも明らかだが、吉本の引きこもり論は、最終的に社会へ出ることを前提にしている。つまり彼にとって、「引きこもること」と「社会に出ないこと」はイコールではない。そこを履き違えているから、巷間で引きこもりが問題になる。彼の指摘は、そういう構図になっている。

さて、私が興味深く読んだのは、三島由紀夫、太宰治、江藤淳の自殺について触れられた箇所である。三島や太宰の自殺は「親の代理死」であり、江藤のそれは「完全に自分の意志力による死」であるという。そしてその行為を否定しない。

江藤さんの死を潔いとぼくが述べたのは、こうした老人特有の自然死への執着もなく、また青春期の生命の過剰さから来る死でもなく、もちろん親の代理死でもなく、自分の意志力だけで死を選んだからです。

(第3章「子どものいじめ、そして死について」)