- Book Review 2007/06

2007/06/30/Sat.

著者名の「暖朗」は「だんろう」と読む。「第一次大戦」というサイトを主宰されているので参照されたい。

井沢元彦あたりがよく、「日本人には軍事学の知識がない」と書いている。全くその通りであることが、本書を読むとよくわかる。戦争、特に我々が生きているこの瞬間にも行われ続けている近代戦争は、どういう仕組みで始まり、どのような経過を辿り、いかにして決着するのか。我々は本当に知らない。

歴史で戦争の経過を学ぶ場面はあるが、それは過去の結果であり、戦争のメカニズムやシステムとはまた別の問題である。戦争は外交や政治の変態ともいえるが、人類の歴史の大半は戦争に明け暮れていたのであり、むしろ外交や政治は戦争を回避するために発達したものともいえる。両者は密接にして不可分であり、政治史や外交史と同じボリュームで戦争史、軍事史を捉えなければならないだろう。そんな気にさせられる。

本書は「1 戦争はどのように始まるか」から、「93 中国——この狂気の国」に至るまで、単純にして素朴な疑問に応える形で、軍事学の基礎知識が説明される。以下に幾つか引用してみる。

どうだろう。何となく知っているようでいて、正確に説明することは困難ではなかろうか。

「宣戦布告」「奇襲」「先制攻撃」「戦争計画」「作戦計画」「大国」「植民地」「軍事同盟」「仮想敵」などなど、本書では、これまでボンヤリとしか把握していなかったタームについて、それぞれの軍事学的定義が詳細に述べられる。これらの用語を正しく理解せずして、とてもじゃないが近代史は読み解けない。などともう洗脳されておるわ。

著者の主張は明確にして明晰。「学問」としての軍事学の鋭さを味わえる。この雰囲気に触れること自体が貴重ではないだろうか。こんな話は、誰もしてくれなかった。名著。

2007/06/22/Fri.

土屋賢二森博嗣の対談集。

土屋賢二のエッセイは毎回同じネタの繰り返しなのだが、対談でも全くそれが変わらなかったので爆笑した。森博嗣もあとがきでこう書いている。

土屋先生のお話はまったく揺るぎなく常に一本筋が通っている (一本しか通っていない) ことが印象的だった。最近の土屋先生の書かれたものを拝読しても、まったく変わっていない。まだこの話をしているのか、よくぞここまで引っ張るな、というくらい首尾一貫している。

(森博嗣「対談の思い出」)

やっぱりスゴいわ。土屋「私の老人力は 53万です」

おまけとして、巻末には土屋教授の探偵小説と、森博嗣の架空対談が付いている。特に土屋教授のミステリは森の薫陶を受けて書かれたもので、ある意味では一読の価値がある。

2007/06/21/Thu.

大槻ケンヂによる、「ヘンムービー」(いわゆる B級、C級映画) を中心としたエッセイ。

各映画のあらすじと独特の見どころを紹介し、その「ヘン」に突っ込む。それぞれの映画を観たときの思い出が語られるのも、オーケン・ファンにはお馴染のスタイルである。

私が大槻ケンヂのエッセイをいつも楽しんで読むのは、彼が意識的に「のほほん」を標榜し、少なくとも気楽な文章の上では、それをほぼ完全に達成しているからである。

日記なんかを書いている人は経験的に御存知だろうが、ネガティブな事柄に対しては筆が走りやすい。特に、大槻ケンヂという人はそういう性格が強いと思われる。素人の場合はそこで、グチャグチャと汚らしく文章をこねくり回し、わけのわからぬものをベチャっと吐き出すのだが、ある時期以降のオーケンには、この種の嫌らしさが全くない。そこに私は、文章家としての大槻ケンヂの強さを感じる。

で、書いていることはスゴく下らないんだよね。空手を習いに行ったけどすぐに辞めたとか、そんな話ばっかり。それがまた良いんだけど。

2007/06/17/Sun.

副題に「指揮者必衰のおことわり」とある。本シリーズについては前作以前を参照されたい。

森博嗣は以前から金融機関 (特に郵便局) や役所について手厳しいが、本書ではその舌鋒が特に鋭くなっている。私も全く同感である。あの営業時間の短さというのは何なのだろう。全ての規制を完全に廃して民営化し、1週間の営業時間を 2倍にすれば景気もよくなるし、雇用問題も解決すると思うのだが。

2007/06/09/Sat.

丸山聡美・訳。原題は『Can a Guy Ger Pregnant?』、副題は「Scientific Answers to Everyday (and Not-So-Everyday) Questions」。日本語の副題として「平凡な日常を驚きの世界に変える Q&A」とある。

素朴な (ときに馬鹿馬鹿しい) 質問に専門家がわかりやすく答えるというコラム集。質問は 4部に分けられ、それぞれ「からだ (THE BODY)」「愛 (LOVE)」「死 (DEATH)」「動物 (ANIMALS)」となっている。

面白そうな質問を抜き出してみる。

などなど。質問が目次になっているので、興味を持たれた方は、まずは立ち読みされるのも良いと思う。

2007/06/07/Thu.

タイトルには「シモヤマ・ケース」とルビが振ってある。

終戦直後の国鉄を襲った 3つの事件——、下山事件 (1949年 7月 5日)、三鷹事件 (同年同月 15日)、松川事件 (同年 8月 17日) の真相はいまだに明らかになっていない。特に下山事件は、その特異さから 3事件の筆頭に挙げられる。これまでにも様々な作家、記者、警察関係者によって推理がなされ、発表されてきた。

下山事件

初代国鉄総裁・下山定則が、GHQ の指示による大量解雇を断行した直後に、電車に轢断された状態で発見される。事件前日、下山は日本橋の三越で失踪、行方不明となっていた。失踪から死体となって発見されるまでの彼の足取りは判然としない。多数の証言は存在する。しかし、その全てを矛盾なく説明することは不可能であった。つまり、どこかに嘘がある。

下山の遺体に東京大学法医学教室が下した鑑定は「死後轢断」、つまり「他殺」であった (鑑定は古畑種基博士)。一方、慶応大学法医学教室の鑑定は「生体轢断」であり、公式にはこちらが採用された。だが、下山の身体と衣服には奇妙な糠油と染料が付着しており、また現場からは、下山のものと思われる血液反応が点々と線路脇の小屋まで検出された (これが日本で最初のルミノール反応試験であった)。状況証拠は、明らかに他殺を示唆している。

不思議なことに、解剖結果が出る以前の時点で、政府各位から、「下山事件は国鉄の共産系労働組合の仕業と思われる」という談話が相次いで発表された。当時、朝鮮半島の情勢は緊迫しており、GHQ は日本に、共産主義に対する防波堤としての役割を求めていた。事実、事件後に労働運動は大打撃を受ける。つまり、下山事件は左翼狩りの契機となるべくデッチ上げられた事件なのだ、下山は GHQ か政府かによって生贄とされた——。というのが、他殺説の主調である。しかし、依然として自殺説も根強く説かれている。

ドキュメンタリー・ノンフィクション

本書は、フリーのテレビ・ディレクターである著者が、下山事件に実際に関わったという男の孫 (『彼』) に出会うところから始まる。「下山病」に取り憑かれた著者は、事件の記録を辿りつつ、『彼』の祖父が所属した組織の調査を開始する。関係者の多くは物故しており、生存している者の口も堅い。やっとのことで得られた証言は互いに矛盾し合い、事件はますます渾沌とした様相を見せる。

事件は時間軸を追って描写され、その間に、取材に奔走する著者の様子が挿入される。著者は下山事件を題材にドキュメンタリーを撮影しようと試み、関係者のインタビューにはビデオ・カメラを持参する。テレビ番組の企画書を書くがあえなく空しく蹴られ、自主製作映画の途を探る。と同時に、雑誌連載の準備を進めるのだが、これも出版社との関係がこじれて惨めな思いをする……。

こういった事柄は下山事件とは何の関係もない。硬派なノンフィクションを求めて本書を手に取った読者は、うるさく思うかもしれない。しかし私は、このような著者自身に関する部分もなかなか興味深く読んだ。本書は、下山事件に関心を持ってしまった人間が、事件を追うに従って変化していく様を記録したものでもあるのだ。そしてそれは、下山事件によって大きく軌道を変更した日本という国のアナロジーでもある。

アメリカにとって最も都合が良よい展開は、下山殺害の背景に共産党が暗躍していたというイメージを日本人が抱くことだ。これによって日本の共産化はくいとめられる。

事件後、アメリカとの関係は強化され、日本はドイツや朝鮮半島のように分断されることもなく、自由主義陣営の極東戦略の一翼として重要な位置を占め続けた。

くどいことを承知で最後にもう一度書く。下山事件は終わっていない。その後の時代は、まだ続いている。なぜなら僕らはまだ、途中下車もしていないし線路を変えることすらしていない。

(「エピローグ」)

本書が目指しているのは下山事件の真相ではない。事件の背後に浮かぶ、一つの時代、一つの国の物語である。

2007/06/06/Wed.

戦史家である著者の作品は、以前に『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』を読んだことがある。膨大な記録を蒐集し、冷静かつ客観的に事実を積み重ねる手法には、大いに感銘を受けたものである。記述は淡々としているが、退屈ではない。異様なリアリティが、迫真のドラマを生み出す。

本書を一読して、涙がこぼれそうになった。

政治的戦争犯罪人

イラク戦争でも、「人道に対する罪」「平和に対する罪」が声高に叫ばれているが、太平洋戦争当時にそのような概念はなかった (というか、ニュルンベルク裁判と東京裁判で初めて唱えられた)。戦闘行為における国際法規違反 (捕虜の虐待、文化財の略奪など) は存在しても、「政治的戦争犯罪人」という概念はなかったのである。

1945年 8月 30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、日本を占領統治すべく東京に進駐した。彼を待ちかまえる仕事は膨大であったが、その中に「政治的戦争犯罪人」の裁判が含まれていた。降伏の際に日本が受諾したポツダム宣言には、「吾等 (連合国) の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし」の一文がある。この条文に基づき、戦犯の逮捕が進められた。

全面降伏していた日本は、アメリカと協力する余地もあった。実は、戦犯を日本側で裁判するという策も残されていたのである。あやふやな「戦争犯罪人」という概念をもって勝者の裁判を受けるよりは、例え厳しくとも日本人の手で自主裁判を行った方が良い、という主張も現実に存在した。しかし、この提案は昭和天皇に反対される。

だが、東久邇宮首相が参内して (自主裁判論を) 報告すると、天皇は反対した。

「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽したる人々なるに、之を天皇の名に於て処断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきや」

(第二章「戦争犯罪の定義」)

天皇の名において戦争を遂行し、今度は天皇の名において裁く。それはできない、ということである。先帝陛下の苦悩は察するに余りある。

裁判が行われるという情報が明らかになってから、日本は、ただひたすら「天皇に累が及ばないように」という目的で行動する。逮捕されるよりは自決を選んだ者 (近衛元首相など) もいたが、「自分が逮捕されることによって陛下の防波堤になるならば」と、虜囚の辱めに甘んじた者も多数に上った。そのことは、昭和天皇も痛いほど理解していたようである。

以下は、元内大臣木戸幸一が戦犯逮捕される直前の部分である。

木戸幸一侯爵は、天皇の夕食お相伴のために参内した。木戸侯爵は、感激していた。数日前、連絡をうけたさいに聞いた話によると、天皇が木戸侯爵の相伴を提案されると、侍従長は、戦犯の指名をうけているので辞退するのではないか、と言上した。すると、天皇は「米国より見れば犯罪人ならんも、我国にとりては功労者なり、若し遠慮する様なれば料理を届け遣わせ」といわれた、というのである。

(第二章「戦争犯罪の定義」)

開廷

日本の占領政策を円滑に実行するためには天皇が必要であることを、GHQ は早い段階から理解していた。そして、ごくごく上層部においてのみだが、裁判では天皇の戦争責任を問わないことを決定していた。しかし他の連合国との関係もあり、この方針は極秘にされる。東京裁判を構成する連合国は 11ヶ国 (米、英、中、ソ、仏、蘭、比、豪、加、印、ニュージーランド) だが、その中にはオーストラリアのように、天皇の戦争責任を声高に主張する国もあったのである。

紆余曲折の後、A級戦犯 28人の裁判は始まった。検事が連合国の人間で構成されるのは当然だが、しかし判事までもが全て連合国の人間であるという、完全な「勝者の裁判」であった。被告と弁護人 (日本人弁護士だけではなく、連合国側からも弁護士が派遣された) は、全国的な窮乏の中、短い準備期間、資金不足、言語の問題、乏しい資料という、圧倒的な不利の中で闘わなければならなかった。

東京裁判

裁判は欧米式で行われる。例えば、本格的な審理の前には、起訴状に対する罪状否認が行われる。これはほとんど儀式であるが、被告は起訴状に対して無罪を主張しなければならない (罪を認めるとその時点で有罪が確定し、後は量刑を決めるだけになる)。しかし、もうこの時点で (当時の) 日本人の感覚とは相いれない。

花井弁護士は、罪状否認のさいは決して有罪を認めてはならぬ、無罪といって下さい、とこの日も広田元首相に進言した。

「そんなことがいえますか。私には責任があるのです」

しかし、閣下、と花井弁護人は、それが英米法の手続きであり、無罪といわねば弁護ができないといったが、広田元首相は首をふる。

「どうしても無罪と答えねばならぬものなら、弁護人がそのように答えて下さい」

「いや、代理は、おそらく許されないと思いますが」

「そうか、困ったなア」

(第四章「一九四六年五月三日」)

日本男児の面目躍如たる場面であるが、万事がこの調子なのである。一方で連合国判事は、日本の事情を汲み取ろうという気持ちはなく、ただただ裁判の早期終結だけを目指していた。

「被告に認否をたずねます。アラァキ・シャダァオ、あなたは有罪を申し立てますか、無罪を申し立てますか」

被告荒木貞夫陸軍大将の前には、マイクがはこばれている。白い八の字ヒゲをはった大将は、ほおに緊張の影を走らせて、立ちあがった。

「その件については、弁護人よりお答えすることに致します」

自分自身で答えてくれ、といわれて、大将は胸をそらせた。

「起訴状を大観しましたが、一番最初に書いてある平和、戦争、人道に関しての罪状については……荒木の七十年の生涯における……自身を失うものであります。ゆえに承服することはできません」

荒木大将は、七十年の生涯という言葉に区切りをいれ、気迫と心外の想いをこめて声をはりあげた。ウェッブ裁判長は、余分のことは聞きたくないというように、有罪、無罪のどちらかだけをいえ、とせかせかと口をはさんだ。

(被告の否認が続く)

入院中の大川周明被告については、出廷できるようになってから認否をおこなう、とウェッブ裁判長がつけ加えて認否を終えたが、その間わずかに九分間。ウェッブ裁判長が急ぎに急ぐように呼びたてるので、右に左に走り回るマイク係の米兵は大汗をかいていた。

(第五章「広田弘毅夫人の死」)

引用しているだけでも頭に血が上ってくるが、裁判は全てこんな具合に進むのである。裁判を急ぐのは、言うまでもなく政治的理由からである。つまり東京裁判という司法空間は、政治から独立していない。裁判であって裁判ではない。私刑と同じである。戦勝国が敗戦国に対して私刑的な仕打ちをするのは理解できないこともない。過去、そのような歴史が繰り返されてきた。これは否定しようがない事実であるし、人間のある一面の発露でもある。しかし、それに「裁判」という仮面を被らせたところに、東京裁判の奇妙に歪んだ性格がある。

天皇の戦争責任

東京裁判を裁判として真摯に遂行しようとした面々もいた。判事や検事の中にもいた。特に、被告の弁護を受け持った米国人弁護士の活躍には目を見張るものがある。これは東京裁判における救いであろう。連合国側の人間全てが「勝者の論理」で動いたわけではないのだ。

裁判が終幕に近付くにつけ、一部の検事と弁護人の間には交流も生まれた。その中で議論されたのが、天皇の責任問題である。アメリカは天皇に戦争責任を負わすつもりはない。首席検事であるキーナン検事 (米) は弁護団に対し、水面下でアピールを続けた。東京裁判は名目上、連合国によって裁かれるものであり、アメリカ一国の都合で判決までを左右することはできない。天皇の裁判を回避するには、どうしても被告側と検事側の歩調を合わせる必要があった。

法廷としてなっとくを得るには、被告、それも "大物" (ビッグ・ネーム) が「天皇に責任なし、我にあり」と明言してくれねばならない。

"大物" 被告といえば、まず木戸内大臣、東条大将の二人だが、キーナン検事は木戸内大臣を選んだ。

(第十章「天皇の戦争責任」)

しかし木戸への尋問は失敗した。

(木戸への) 反対訊問を終えたとき、キーナン検事は、ふと、後ろをふりむいた。東条被告が、なにを面白がったのか、ニコニコとしていた。視線が合い、キーナン検事も破顔した。被告席で眺めていた重光元外相は、「之が解顔と云うことである。裁判もスポーツ気分になって然るべきである」とうなずいたが、キーナン検事が東条被告を見て一笑したのは、次の目標を確認したからであり……

(第十章「天皇の戦争責任」)

東条はキーナン、つまりアメリカの方針を正確に理解した。こうして、東条の審理が始まった。

——二、三日前にあなたは、日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はないといわれましたが、正しいですか。

「それは私の国民感情を申しあげたのです。責任問題とは別です。天皇の御責任とは別の問題」

——しかし、あなたは実際に米、英、オランダにたいして戦争をしたではありませんか。

「私の内閣において戦争を決意しました」

——その戦争をおこなわなければならないというのは……おこなえというのは裕仁天皇の意思でありましたか。

「私の進言……統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実でしょう。そして、平和御愛好の精神は、最後の一瞬に至るまで陛下は御希望をもっておられました……昭和十六年十二月八日の御詔勅の中に、明確にその御意思の文句が付け加えられております。しかも、それは陛下の御希望によって、政府の責任において入れた言葉です……まことにやむを得ざるものあり、朕の意思にあらずという御意味の御言葉であります」

まさに満点の回答である。

(第十章「天皇の戦争責任」)

「天皇に戦争責任はない」という論のエッセンスは、全てこの東条の発言に源を発する。そしてこの骨子は、日本と米国の共同作業によって生まれたといっても過言ではない。東京裁判の最大の収穫であろう。良くも悪くも、GHQ による占領政策の一つがここで確定された。

東京裁判とは何か

様々な資料、証言を駆使して、本書は東京裁判を活写する。原爆問題についての攻防、証言台における愛新覚羅溥儀、被告の家族の描写、連合国間での葛藤など、読みどころは他にもある。

また、ところどころに挿入される重光葵元外相の俳句が、一服の清涼剤のように機能する。

老囚も尻をからげて蒲団干し

判決後に発表された各判事の「少数意見」についても述べられる。過酷な判決を目の当たりにした読者は、ここで救われた感になるだろう。読書中に抱いた感想は、我々が日本人であることによる贔屓 (だけ) ではないことが確認できる。

本書で提起されているのは、東京裁判 (とニュルンベルク裁判) によって唱えられた「戦争犯罪」とは何か、という問いである。