- 『脳と魂』養老孟司/玄侑宗久

2007/05/22/Tue.『脳と魂』養老孟司/玄侑宗久

養老孟司と玄侑宗久の対談本。

養老 僕の仏教は完全に自前なんです。「門前の小僧」どころか、うちは「墓地入口」にあるんですけど、誰にも仏教習ったことがないんですよ。不思議なことに自分で真面目に考えると、仏教になっちゃうんですよ。

旧制高校では、「社会を生きるには儒教、個人の問題を考える時は道教、抽象思考は仏教」って教えられたそうですよ。なかなかいい結論でしょ。

抽象思考するなら仏教に拠れ。おまえらの考える大概のことは、既に仏教に入っているよ、ってことですよ。

(第二章「都市と自然」)

対談の中で、日本人の思考・感性の拠り所としての仏教 (もちろん日本化されたそれ) がボロボロと出てくる。「抽象思考するなら仏教」というのは、宗教的な問題ではなく、恐らく言語的な問題が大きい。抽象思考とは言葉の操作である。明治期に多数の翻訳後が創出される以前、日本人の抽象思考を支えるに耐える言葉は、仏典の中にしかなかった。というのは言い過ぎだろうか。しかし、祝詞の和語では抽象的なことを考えにくいのは事実である。

仏教が広まったから仏の言葉が広まったのか、あるいは、抽象的な表現をするための方便として仏典を借用する内に仏教が深化されたのか。両方の経緯があったと私は推測する。だがそもそも、言葉や論理で捉え切れないのが宗教である。宗教には必ず、個人的な体験が伴う。言葉と宗教は、ゆるやかな螺旋を描いて互いに絡まりあってきたが、近世になって急速に分離する。これを養老風に言えば、頭と身体の分離、となるだろうか。

問題なのは、そのことが問題として認識されていない点にある。身体的な作法や行儀は、一部の世界を除いて失われてしまった。それを示す面白い逸話が披瀝されていたので引用する。

玄侑 ほんと、作法の失われ方というのは、末期的ですね。だからもう坊さんの言うままっていう感じがあって、坊さん嘘つくとそれが広まるんですよ。嘘ってことないけど、最近、献杯やりません?

献杯って、ある坊さんが冗談で始めたんです。あれが出てきたのって、昭和四〇年代ですよ。その後ある坊さんが、「乾杯は右手で、献杯は左手で」って言ったら、それが本当に広まっていくんですよ。みんな何も知らないから、それが正しい作法だと思って「お前、知らないの? 献杯は左手だよ」なんて、わーっと素直に広がっていくんですよね。「あれ言ったの、俺なんだよ」って言ってる坊さん、今も生きてますよ。

(第一章「観念と身体」)

作法が生まれる瞬間とは、こういうものなのかもしれない。献杯があっという間に広まったのは、我々がどこかで何らかの作法を求めているから、とも解釈できる。作法が失われたこと自体に問題があるわけではない。身体的なフォームが必要とされているのに、それがないという現状が危機的なのである。