- Book Review 2008/07

2008/07/29/Tue.

『ジョジョの奇妙な冒険 42 ストーンオーシャン 3』の続き。

空条承太郎のスタンド DISC を巡る攻防が激しさを増す中で、徐々にエンリコ・プッチ神父の内面が明らかになる。彼が承太郎の記憶 DISC を求めるのは何故か。そこにはディオ・ブランドーが絡んでいた。1988年、2人は既に邂逅している。

ディオ「『天国へ行く方法』があるかもしれない」「わたしの言ってる「天国」とは「精神」に関する事だよ 精神の向かう所……」「本当の幸福がそこにはある…… 「天国」へ行く事ができればな」「真の勝利者とは「天国」を見た者の事だ…………………… どんな犠牲を払ってもわたしは そこへ行く」

(「集中豪雨警報発令 その 1」)

しかしその後、ディオは承太郎に敗れ (第3部「スターダストクルセイダーズ」)、「天国へ行く方法」は承太郎の記憶にのみ残されることとなった。プッチ神父が承太郎の記憶 DISC を欲するゆえんである。

回想シーンとはいえ、ディオの登場は今後の物語の膨らみを大いに予感させる (一方で、第5部の主人公、ジョルノ・ジョバーナはディオの息子でありながら、本編にディオが全く登場しなくて肩透かしを喰らったという前例もある)。

本書で最も高名なシーンは、窮地に追い込まれたときのプッチ神父の心理描写だろう。

落ち着け…… 心を平静にして考えるんだ… こんな時どうするか……

落ち着くんだ… 『素数』を数えて落ち着くんだ…

『素数』は 1 と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる

(「集中豪雨警報発令 その 2」)

アスキー・アートを初め、色々とネタにされている台詞である。俺がこれまでに一番笑ったのがコレ。

2008/07/28/Mon.

岡小天、鎮目恭夫・訳。副題に「物理的にみた生細胞」とある。原題は "What Is Life?"、原副題は 'The Physical Aspect of the Living Cell'。

著書名と著者名の乖離にまずは驚く。シュレーディンガーといえば量子力学を創始した理論物理学者である。門外漢の私でも知っている。しかしそのシュレーディンガーが、分子生物学という学問分野ができたかできていないかという時期 (本書の出版は 1944年) に、早くも分子遺伝学的な講演を行っていたことは全く知らなかった。

生きている生物体の空間的境界の内部で起こる時間・空間的事象は、物理学と化学によってどのように説明されるか?

(第1章「この問題に対して古典物理学者はどう近づくか?」)

これが本書の主題である。

時代の限界はある。例えば「遺伝子はおそらく一個の大きなタンパク分子であり」などという記述も見かけられる。とはいえ、分子遺伝学という概念的な構築に、遺伝子の本体がタンパク質であるか核酸であるかは本質的に影響しない。現在から見れば不十分と思われる知識も、本書で展開される議論を妨げるものではない。このあたりは、理論物理学者であるシュレーディンガーの面目躍如といったところか。学ぶべきところは多い。

物理化学的な視点

まずは、下の問題設定をどう思われるだろうか。

われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないのでしょうか?

(第1章「この問題に対して古典物理学者はどう近づくか?」)

「構造屋は『細胞はデカ過ぎる』と言う」——随分と以前に書いた日記を思い出した。確かに、原子・分子単位での物理的・化学的な動向を追うには、細胞は複雑にして大き過ぎる。その細胞が 60兆も集まった人体などは、もはや物理化学的な解析の対象とはならないだろう。(古典的な) 物理学者や化学者がそう思う気持ちはよくわかる。

この問題に対する量子力学的な回答は次の通りである。

原子はすべて、絶えずまったく無秩序な運動をしており、この運動が、いわば原子自身が秩序正しく整然と行動することを妨げ、少数個の原子間に起こる事象が何らかの判然と認められうる法則に従って行われることを許さないからなのです。莫大な数の原子が互いに一緒になった行動する場合にはじめて、統計的な法則が生まれて、これらの原子「集団」の行動を支配するようになり、その法則の精度は関係する原子の数が増せば増すほど増大します。

(第1章「この問題に対して古典物理学者はどう近づくか?」)

細胞が必要とする生命反応の「精度」を得るためには、それだけの数の原子が必要である。非常にシンプルだし、直感的にわかりやすい。これまで、少なくとも私は、このような感覚で細胞その他をスケーリングしたことはなかった。

遺伝とは

第2章、第3章はそれぞれ「遺伝のしくみ」「突然変異」と題され、その機序が説明される。このあたりは高校の教科書の知識を出るものではない。現在からすれば、ひどくまだるっこしい議論のようにも思える。しかし、「突然変異は、遺伝子という分子の中で起こる量子飛躍によるのです」といった素敵な一文も見えるので、流し読みするのは勿体ない。

変異前の遺伝子と変異後の遺伝子は異なるエネルギー準位を持つ異性体である。——これは考えてみれば当たり前のことなのだが、ゲノムの配列が明らかになった今、私達がこのような見方をする機会は稀である。こういう視点の再発見が面白い。

染色体が細胞に一つであるということ

上に、「細胞が必要とする生命反応の『精度』を得るためには、それだけの数の原子が必要である」と書いたが、唯一、染色体 (本当は DNA だが、本書が出版された時点ではまだそのことは明らかになっていない) だけは細胞にただ 1分子のみしか存在しない。

もちろん、それは情報の一意性を担保するためである。しかしそのために染色体は、熱力学の法則 (エントロピーの拡大) に抵抗し得る、(抽象的な意味で) 堅牢な構造を保持しなければならない。この点にジレンマがある。

高度の秩序をもつ原子結合体で、その秩序を永続的に維持するに足る十分な抵抗性を具えたもののみが、考えられる唯一の物質構造のようであって、そのようなものならば、小さな空間的境界の内部で複雑な体系をなす「決定要素」を体現しうるような、さまざまな (異性体的) 原子配列を可能にします。

(第5章「デルブリュックの模型の検討と吟味」)

いささか歯切れが悪い。分子の安定度を熱力学的に説明するくだりは非常に興味深いが、第57節「生物体は『負エントロピー』を食べて生きている」のあたりから、少し雲行きが怪しくなってくる。

(もっとも、やや誤解を受けやすいこの説明は、本書に課された「一般向け」という足枷によるものであり、シュレーディンガー自身も長い「註」を付けて詳細な解説をしている。また訳者も、「21世紀前半の読者にとっての本書の意義——岩波文庫への収録 (二〇〇八年) に際しての訳者あとがき」の「註」で弁護している)

最後に、生物体 (の根幹をなす染色体を初めとする部品) は、時計仕掛けに例えられる。

量子力学によりネルンストの経験的法則の合理的な基礎が与えられ、一つの系が近似的に「力学的」な行動を演ずるためには絶対零度にどの程度まで近づかなければならいかを算定することもできるようになりました。何か特定の場合をとるとき、どの程度の温度なら実際上零度に等しいと見なすことができるでしょうか?

ところが、これは必ずきわめて低い温度でなければならないというように考えてはなりません。事実、ネルンストの発見は、室温でさえも多くの化学反応においてエントロピーの演ずる役割は驚くほどわずかであるという事実から導き出されたものです。

(中略)

この個体がすなわち遺伝物質を形づくっている非周期性結晶であり、熱運動の無秩序から十分に保護されています。

(第7章「生命は物理学の法則に支配されているか?」)

したがって細胞の中でも、意外にエントロピーのことを無視できるのではないか、ということである。しかし現在、染色体を初めとする細胞内部の動きは、分解と生成、エラーとリペア、ブラウン運動を基調とした最終的な秩序、などなどを繰り返す非常にダイナミックな系であることが明らかになり、静的な細胞像というイメージは棄却されつつある。とはいえ、問題設定自体は間違ったものではない。非常に鋭いと思う。

生命とエントロピーの問題に対する理解は、カオスや複雑系といった、新しい科学の知見に依る部分も少なからずある。そして無論、この領域においても量子力学は重要な貢献をしている。

科学の脈々としたつながりと広大さ、そして歴史を学べる 1冊。

2008/07/27/Sun.

野谷文昭・訳。原題は "Cronica de una muerte anunciada"。

俺がガルシア = マルケスに興味を持ったのは、彼がノーベル文学賞を受賞したからではなく、他ならぬ筒井康隆がいつも激賞しているからである。そのくせ、これまで読んだことがないというのだからヒドい話だ。

言い訳を書くならば——『筒井康隆の文芸時評』などを読むと実感できるが、困ったことに、筒井の書評はわかりやすい上にメチャクチャ面白く、原作を読まずとも理解した気にさせられる、それどころか、ひょっとしたら原作はこの書評よりもつまらないのではないかとすら思ってしまう、という部分がある。実際に、筒井が書評をした本を読んだことは少ない。また、俺が海外作品をあまり積極的に手に取らないという個人的な悪習もある。

ともかく今回、元部長氏から本書を頂戴する僥倖に恵まれ、むさぼるように読んだ。そして後悔した。何でこれまで読まなかったのか。アホか。

以下、本書の内容にかなり踏み込む形で長い感想を述べる。元部長氏の書評・その 1その 2 はリンクを参照。

ちょっと読んでみる

本書は五部構成であり、小説の舞台となる短い時間が、極めて効果的に分解・再構築されている。文体は濃密で、ディティールは緊密だ。以下、簡単にあらすじを確認しておく。

「わたし」の実家がある田舎町に現れた得体の知れぬ金持ち、バヤルド・サン・ロマン。彼は洗練された身のこなしと強引な性格を合わせ持つが、町の人々からは概ね好意的に受け入れられる。そして彼は、古風な家に生まれ育ったアンヘラ・ビカリオと婚約し、数ヶ月後には祝儀を挙げる。しかし初夜の際、処女でないことが明らかになったアンヘラ・ビカリオは、結婚式の僅か数時間後に、バヤルド・サン・ロマンによって実家に戻される。アンヘラ・ビカリオは、処女を奪った相手が「わたし」の友人であるサンティアゴ・ナサールであると家族に告白する。パブロ・ビカリオとペドロ・ビカリオの双子の兄弟は、妹の名誉を回復するためにサンティアゴ・ナサールを殺害する。

——筋にするとこれだけである。タイトルにもある「予告された殺人」は、ビカリオ兄弟が、サンティアゴ・ナサールを殺すつもりであることを町中に喧伝していたことに由来する。

どうやらビカリオ兄弟は、人に見られず即座に殺すのに都合のいいことは、何ひとつせず、むしろ誰かに犯行を阻んでもらうための努力を、思いつく限り試みたというのが真相らしい。だが、その努力は実らなかった。

「これほど十分に予告された殺人は、例がなかった」にも関わらず、事件は起こった。なぜなら、サンティアゴ・ナサールや、彼の周辺にいた「わたし」やクリスト・ベドヤだけがこの「予告」を知らなかったからだ。これではいかにも御都合主義のように思える。それは、この事件の調書を記した検察官も同様であったらしい。

別けても、彼が絶えず不当を感じていたのは、文学には禁じられている偶然が、人々の間でいくつも重なることによって、あれほど十分に予告された殺人が、行われてしまったことだ。

無論、この検察官とて作中の人物なのであり、これは本作に対する自己言及的でメタな批判 (というジョーク) であると理解できる。本書にはこのような構造が散見される。

とまれ、殺人は起こった。「文学」的で、都合の良過ぎる「偶然」によって成立したこの事件が、何故かくもリアリティを伴って我々の前に屹立するのか。それは全編を通じて活写される人物背景の効果もあるが、何よりも登場人物達が、演じるべき「役割」をしっかりと担わされているからである。

大勢の人間がいる中でただひとり、バヤルド・サン・ロマンだけが犠牲者だった。彼以外の悲劇の登場人物たちは、人生が自分たちに振り当てた得な役回りを、誇らしく、またある種の威厳をもって演じたと言えるだろう。サンティアゴ・ナサールは陵辱の罪を死によってあがない、ビカリオ兄弟は自分たちが男であることを証明した。その結果、辱しめを受けた妹は名誉を回復した。何もかも失った人間、それはバヤルド・サン・ロマンただひとりだった。

したがって、事件は起こるべくして起こった——と思わせる構造を本書は持つ。バヤルド・サン・ロマンだけが「犠牲者」になったのは、恐らく故意であろう。彼が「町」にとっての異邦人であったことがその証左だ。外来者であるバヤルド・サン・ロマンには、共同体の中で真に演じる「役割」はない。このことは逆に、外来者の存在なくしては演じる「役割」すら顕現しない共同体の親密さと、その裏返しである前近代性を暗示している。

アンヘラ・ビカリオとサンティアゴ・ナサールの関係は、バヤルド・サン・ロマンが訪れる前の「町」で起こった。また、ビカリオ兄弟が妹の名誉のためにサンティアゴ・ナサールに報復しようとするのも「町」のルールである (サンティアゴ・ナサールが既に婚約していた事実を思い出そう)。問題は既に内在していた。それらがバヤルド・サン・ロマンという触媒によって一気に表面化する。不可逆的な反応が進行する中で、しかし触媒が演じるべき「役割」はない。

もうちょっと読んでみる

……と、ここまでであればそれほど複雑な構造ではない。しかし本作はまだまだ複層的な深みを持っている。

非常に重要なポイントとして、アンヘラ・ビカリオの処女を奪ったのはサンティアゴ・ナサールではない、という疑惑がある。アンヘラ・ビカリオとサンティアゴ・ナサールの間には、接点というものがなかった。

彼らは互いに別の世界に属していた。二人が一緒にいるのを見た者はいない上に、いつでも他の誰かと一緒だったからだ。サンティアゴ・ナサールは、彼女に目をつけるには、気位が高すぎた。「お前のいとこの馬鹿娘が」彼女について触れなければならないとき、彼は私にそう言ったものである。

ビカリオ兄弟の「殺人予告」を知らなかったサンティアゴ・ナサールは、だから「彼は自分がなぜ殺されるのかを分からずに死んだのだ」。これが恐ろしい。彼の死体は「豪華な柩ができ上がるまで、遺体は広間の真ん中の、幅の狭い簡易ベッドに横たえられ、人々の目に晒された」。神父がサンティアゴ・ナサールの遺体を解剖するのだが、「神父は、ずたずたになったはらわたを元から引き抜いたものの、結局どうしていいか分からず、腹立ちまぎれに祝福を施すと、それをゴミ捨て用の桶に放り込んでしまったのだ」。

アンヘラ・ビオリカとの姦通が濡れ衣であるのならば、サンティアゴ・ナサールは浮かばれない。アンヘラ・ビオリカはなぜ、サンティアゴ・ナサールの名を出したのだろう。「つまり、アンヘラ・ビオリカは本当に愛していた相手の男を庇っている、彼女がサンティアゴ・ナサールの名前を選んだのは、まさか兄弟が彼といさかいをするとは思わなかったからだ、というのである」。

作中の描写から、アンヘラ・ビオリカが処女でなかったのは真実であると思われる。また、その相手がサンティアゴ・ナサールでないことも恐らく真であろう。しかし彼女の相手の正体は最後まで明かされない。彼女は、サンティアゴ・ナサールを犠牲にし、誰にも (読者にも!) 秘密を明かすことなく自己の保身に走ったわけである。しかも、「町」から夜逃げをするように出ていったアンヘラ・ビカリオは、新しい土地で母親 (を代表とする旧家の桎梏) から逃れたかのように精神を解放する。

窓辺のその牧歌的な構図の中にいるのをみたとき、わたしはその女性が、自分が思っていた彼女だとは信じたくなかった。なぜなら、人の一生が、三文小説そっくりの結末を迎えるのを、認める気になれなかったからだ。

ここでまたもやメタ・レベルの批判が記される。それに応えるように、アンヘラ・ビオリカの「その後」が語られる。

「相手」の名前を決して明かさなかったアンヘラ・ビオリカだが、彼女にも「心の奥底でなお炎を放っていた真の不幸」を抱えたまま生きていたのである (と書かれる)。それは「彼女はバヤルド・サン・ロマンに実家に連れ戻されてからというもの、彼のことを常に想い続けてきたということである」。

ある「偶然」からバヤルド・サン・ロマンの姿を再見した彼女は、彼に手紙を書き送る。その内容は段々とエスカレートしていき、「初めのうちは紋切り型の簡単なものだった手紙は、その後、片想いの女の気持ちを短く綴ったものとなり、はかなかった新妻の香りのする手紙、仕事についての覚え書き、愛の記録、そしてついには、棄てられた妻がよりを戻すためにひどい仮病を使うような品のない手紙となった」「彼女はその中で、あの忌まわしい夜以来胸に抱き続け、もはや腐ってしまっている、苦い真実を、恥じらうことなくぶちまけた。彼が自分の体の裡に残した痕のこと、彼の気の利いた言葉、アフリカ人を想わせる熱い一物のことなどを書き連ねた」。

そして彼女の「想い」に審判が下される。

彼は着替えの詰まった旅行カバンのほかに、もうひとつ同じものを持ってきていた。それには彼女が彼に書き送った、二千通余りの手紙が詰まっていた。手紙は日付の順に束ねられ、色つきのリボンで縛ってあったが、すべて封は切られていなかった。

かつての彼女を規定していた古い家の慣習 (「町」の基本的な倫理の象徴) から「解放」された彼女の新しい精神は、外部に対して無効であったことがここで示される。しかしだからといって、彼女が「町」に戻るという選択肢は、無名の相手との初交渉 (これは「町」の崩壊の暗示でもある) と、バヤルド・サン・ロマンとの短い結婚によって、あらかじめ潰されている。

もっと読んでみる

事件に対する「町」の反応はどうであったか。

「事件から十二日後、調書作成のために検察官が、生皮を剥がれてぴりぴりとしている町を訪れた」ところ、「劇的事件において自分が重要な役割を果したことを誇示したくて、呼ばれもしないのに、先を争って証言しようとする群衆」が大挙して訪れる。

共同体は個々人がそれぞれの「役割」を演じてこそ維持される。実際、事件前の描写では、町の人々の様子が、その職業や生活習慣を含めて、極めて克明に描写される。だが、異邦人であるバヤルド・サン・ロマンが催した盛大な結婚式によって、住民は日常の「役割」から一旦解放され、弛緩する。その後、サンティアゴ・ナサールを中心とする事件の関係者が、「人生が自分たちに振り当てた得な役回りを、誇らしく、またある種の威厳をもって演じた」。

この事件が住民の意識を刺激し、誰もが「劇的事件において自分が重要な役割を果したことを誇示したく」なる。この過程で、検察官もまた異邦人として設定されていることに注意したい。住民は共同体外部からの評価を欲し始めた。かくして「町」は精神的に解体する。

——などなど、書きたいことは山ほどあるが、長くなってきたのでこのあたりで終了する。この書評では小説の枠組みを中心に感想を書いてみたが、本作の面白さはディティールに依るところが大きい。特にビカリオ兄弟が刃物を 2回研いだり、ペドロ・ビカリオが淋病であったりする場面は爆笑ものである。逆に、サンティアゴ・ナサールの母であるプロシダ・リネロが表玄関を閉じるあたりには戦慄を覚える。特にクライマックスの殺人シーンは圧巻であり、この部分は是非自身の眼で御一読願いたい。

殺人事件は「偶然」と揶揄的に自己言及されているが、全てのディティールは辻褄が合うように慎重に記述されている。その「偶然」がどのような経緯で起こったか、それは全て明らかになっている。そこに隠された意味を探すのもまた楽しいだろう。

最後に、愛すべきアポンテ大佐の描写を紹介する。本作は、このような細部の面白さに充ち満ちている。

「怪しいからといって人を捕まえるわけにはいかんのだよ」と彼は言った。「今すべきことは、サンティアゴ・ナサールに用心させることだ。謹賀新年、めでたし、めでたし」

クロティルデ・アルメンタはその後、アポンテ大佐のいかにも呑気な性格に不愉快な想いをさせられたことを、決して忘れなかった。それに対し、わたしの覚えている彼は、通信教育で習った交霊術を独りで試していたため、頭の方はいくらかおかしかったが、好ましい人物だった。

2008/07/26/Sat.

『MORI LOG ACADEMY』の第10巻。副題は「推定鼯鼠」。2008年 1〜3月のエントリーが収録されている。

2008/07/25/Fri.

『アインシュタイン伝』『角の三等分』などを著した矢野健太郎による数学者列伝。

算数や数学に対して興味をもつための一つの方法は、それを作り上げていった数学者の生涯や逸話を知って数学者に親しみをもち、さらに、大筋のまわりにある興味ある事実に目を向けることにあると私は考えます。

(「まえがき」)

内容は非常に易しい。列伝といっても一人あたり数頁の分量なので、主題に沿ったエピソードが披瀝される程度である。そして逸話を交えながら、初等数学の簡単な証明 (ピタゴラスの定理、球の面積・体積計算、2次方程式の一般解) が述べられる。確率論の話ではあり得る事象が全て列挙される、幾何の話題では図が添えられるなど、著者が想定する「学校で習う算数や数学を面白くないと思う人」に向けた、丁寧な解説が眼を惹く。

採り上げられた数学者は以下の通り。

興味深いエピソードが豊富な、親しみやすい名著。

2008/07/14/Mon.

吉本隆明が、本邦近代文学について語った 1冊。特定の作品について論じる形式ではあるが、他の作品や作家自身についての言及もある。「語った」と書いたのは以下の理由による。

日本の近代文学の名作について、わたしが語り、毎日新聞学芸部の大井さん、重里さんが、話の要約を構成するという形で、この本の内容は構成された。わたしの眼の視力がおぼつかないというのがこの形式をとった理由だ。

(「はじめに」)

本文は談話としてではなく、あくまで文章として構成されているが、語り聞き特有の平易さが感じられて読みやすい。比較的易しい文学論であるといえよう。

採り上げられるのは以下の作品。

評価の確立された名作文学から、詩、歌、評論、果ては大衆小説まで、幅広く論じられている。特に江戸川乱歩、それも『陰獣』を選ぶあたりは面白い。

本書の作品論で頻出するキーワードは「倫理」である。文学を、作家の倫理の反映という視点で語る場面が非常に多い。したがって本書は同時に作家論でもある。

言及されている作品を読んでみたくなる、秀逸な文学論。

2008/07/13/Sun.

「道具箱」には "TOOLBOX" とルビ (?) が振ってある。また、副題に 'The Spirits of Tools' とある。その名の通り、道具 (主に工作用具) に関するエッセイ集。

それぞれのエッセイは非常に短いが、含蓄のある言葉、斬新な視点も多い。

天秤を見て感じるのは、バランスがとれている平衡状態が、いかに不安定なもの、奇跡的な条件か、ということである。

(「測らない計ります図る量るとき謀れば諮ろう」)

あと、次の文章には爆笑した。

記録や申請を目的として書かれ、そして保存される紙のことで、日本の場合は、ほぼまちがいなく、枠線の中に文字を書き入れる形式になっている。そういうものが書類だ。枠があるせいで、電子化が遅れていることは明らかである。早く目覚めてもらいたいものだ。

(「パソコンで年賀状を作るという状況が納得できない」)

たかが事務書類にフォントまで指定されるのは「枠」がズレるからなんだよな。書類屋は Word の使い方よりも、XML/CSS の概念でも学んだ方が良い。

2008/07/12/Sat.

京極夏彦をホストとする、妖怪がテーマの対談集。対談 (鼎談) の相手は以下の通り。

対談相手によって、話題の選択や深度が全く異なってくるのが面白かった。小松和彦や西山克とは、アカデミックでかなり込み入った議論を繰り広げる一方で、唐沢なをきとは昔の妖怪図鑑で盛り上がるだけだったりする。

妖怪周辺の民俗学をテーマにした対談は面白かった。民俗学も色々と閉塞感を抱えているようで、にわかには信じ難い話も出てくる。

大塚「民俗学はとうに学問としては停滞しきっていますよね。去年、大学で民俗学を教えることになって本当に二十年ぶり位に学会報とかの論文とかチェックしたら、僕が学生だった頃から進歩してない印象でショックだった。それなりに論文の数は書かれているんだろうけど、僕が大学出て二十年の間にどう民俗学が変わったのか、発展したのかが全然、見えない。都市民俗学だって外に出ていった素人に何が出来るとか言われたわりに、それ自体なかったことになっている」

(「民俗学は偽史だったのか?」)

この話を聞いた小松和彦は以下のように述べる。

小松「だから民俗学は柳田教なんて言われるんですよ。その昔、日本民俗学会には会長がいた。柳田です。ところが、柳田が引いた後、誰も会長にならなかった、なれる人がいなかった」

京極「会長不在?」

小松「いまでも不在です。会長の代行の代表理事っていうのはある」

京極「永久欠番ですか (笑)」

小松「お笑いになるかもしれませんが、本当なんですよ。だから、私から見ればそうなった段階でもう滅びの道を歩き始めていたんだろうな、と思いますね (後略)」

(「妖怪学の現在」)

文系の学会のことは理系の俺からはよくわからんのだが、さすがに引いたわ。しかし、妖怪をテーマにゲリラ的 (と言って良いのだろうか) な復権が試みられているのは力強く思えた。