- Book Review 2008/08

2008/08/30/Sat.

『ローマ人の物語』単行本第XII巻に相当する、文庫版第32〜34巻。『ローマ人の物語 終わりの始まり』の続きである。

3世紀、北方からの蛮族の侵入が激化し、ローマ帝国に絶え間ない混乱が生じる。それを端的に表すのが、皇帝の目まぐるしい交代だ。本書の冒頭にもまとめらているが、211〜284年の 73年間に、実に 22人の皇帝が登極する。まるで平成の総理大臣のようだが、ローマ皇帝が負う責は日本の首相の比ではない。それがこの有り様なのだから、帝国の衰亡、推して知るべし。

以下、全ての皇帝について記すのは不可能なので、ターニング・ポイントになる (と俺が思った) 皇帝の事跡について書く。

前巻で登場したセヴェルス帝の跡を継いだのは、息子であるカラカラである。まず、彼が発した「アントニヌス勅令」によって、全ての属州民にローマ市民権が与えられた (212年)。現代から見れば開明的な法のように思えるが、あながちそうでもない。ローマ市民、属州民というのは固定された階層ではなく、極めて流動的なものであった。差別意識もない。実力と実績のある属州民は当然のようにローマ市民へと推挙された。この流動性 (特に属州民の上昇志向) がローマ帝国の人材活力の源泉の大きな部分を占めていたのだが、全員がローマ市民となることによってそれが徐々に失われていく。

カラカラ帝は東方パルティア王国との戦争でもたつき、皇帝警護隊の兵によって暗殺される。軍団の推挙によってマクリヌスが新たな帝位に就くが、以後、このような皇帝の廃位 (殺害) → 新皇帝の名乗り → 元老院の追認、が常態化する。皇帝は兵の誤解やヒステリーによって簡単に殺され、それまで聞いたこともなかったような人間が、急遽新たな皇帝として登場する。とても大帝国の皇帝を選ぶプロセスとは思えない。皇帝の威厳は坂を転げるように堕ちていく。

軍隊と元老院の乖離が激しいな、と一読して思った。両者を有機的につなぐのが皇帝の重要な役割なのだが、上記のような経過を経て登板した皇帝にそれを望むべくもない。また、軍隊と元老院 (これは現場と後方と言い換えても良い) の距離は、「制度的」にも隔絶されていく。ガリエヌス帝が制定した、元老院と軍隊を分離させる法律である (261年)。軍務で功績を挙げた者が元老院に議席を持つ、あるいは元老院議員の子弟がキャリアとして軍隊を経験する、というこれまでのローマでは普通だった経歴が、これ以後失われる。これもまた人材活力の低下に拍車をかけることになる。

東方ではパルティア王国が解体しササン朝ペルシアが勃興する。ペルシアはローマを地中海に追い落とすことを悲願として戦端を開いてくるわけだが、260年の戦争において、ヴァレリアヌス帝がペルシア軍に捕縛されるという前代未聞の事態が発生する。ローマ帝国は大混乱に陥り、ユリウス・カエサル以来「ローマの優等生」であったガリアがローマから独立してしまう。また、東方司令官オデナトゥスの没後、その妻ゼノビアが東方パルミアの支配権を握り、やはりローマから分離する (267年)。帝国は三分されてしまったのだ。

その間にも、毎年のようにゲルマン蛮族が侵入してくる。かつては防壁の外、つまり帝国の外で行われていた蛮族との戦闘も、ゲルマンの侵攻が激しくなるにつれて帝国領内で争われることが多くなる。ゲルマンはついにエーゲ海を侵入するようになり、地中海沿岸は彼らに荒らされる (252年〜)。

これら未曾有の危機は、からくもアウレリアヌス帝によって回避される。彼はパルミラを陥落させ (272年)、ガリア帝国を降伏させ (273年)、帝国の再統一を実現する。しかし、叱責した秘書に恨みを買われ、実につまらぬ方法で暗殺される (275年)。本巻に登場する皇帝からは、かつての皇帝が発していたような威厳・威光が全く感じられない。とはいえ、これはむしろ皇帝を受容する市民・兵士達の変化による部分が大きい。

元老院の機能不全、通貨の質の低下、社会の硬化には目を覆うばかりだ。そこに付け込むかのように、キリスト教が帝国内で勢力を拡大する。なぜキリスト教はローマ帝国内において迫害されたのか、いかにしてキリスト教は信者を増やしたのか、などなどについての論考も本書ではなされている。

この時期のローマ帝国は、まこと「斜陽」という形容が相応しい。現代日本にも通じる部分があるという点で、貴重な示唆に溢れている。

2008/08/28/Thu.

高野優・監訳、柴田淑子・訳。副題に「活魚で窒息、ガムテープぐるぐる巻き死、肛門拳銃自殺」とある。原題は "Viande Foide Cornichons"、副題は 'Crimes et Suicides a Mourir de Rire'。『変な学術研究 1』の続編である。

副題にあるように、本書は、法医学などの専門誌から奇妙な自殺 (自傷) の例を集めたものである。

六〇歳の男性が掃除機を修理していた。すると突然この機械がひとりでに作動して、この男性の……性器を吸い込んだというのだ。これは大惨事だ。掃除機はフーバー・ダステット社製のもので、吸引力を起こすためのプロペラが、開口部から一五センチメートルほど内側に取り付けられているという構造だった。男性の亀頭は思いがけない事故によってひどく傷つけられた。病院ではできるかぎりの縫合手術が行われた。

(中略)

この記事を書いた医師たちによると、実はこの男性たちは掃除機を修理したり、掃除をしたりしていたのではなく、「おそらく、性的な興奮を求めていたのだろう」というのだ。(中略)「患者たちはおそらく自分のペニスがプロペラにまで届くとは思ってもいなかっただろう。しかし実際にこの器官が予想以上の長さに伸びてしまった」

(中略)

このような事故を防ぐためには、家庭電化製品のメーカーも、何か使用上の注意を書いたほうがよいのではないだろうか。「マスターベーションにはご使用にならないでください」とか……。

(「6 掃除機の吸引力」)

このような痛々しくもバカバカしい話が 50編も収録されている。

「変な」のは、自殺 (自傷) の方法であり、そしてそれを真面目かつ律義に記載する医学者の研究である。このギャップが愉快なのだ。そして冷静な著者が贈る、フランス風の突っ込み。前作同様、テンポの良い構成で楽しめる。

ただ、とにかく自殺の描写が生々しくて、読んでいると身体のアチコチがムズムズしてくる。薄い本なのに、読むのに随分と時間がかかったのはこのため。1日 1編といった具合に読むのが良いかもしれない。

2008/08/27/Wed.

一九七〇(昭和四十五)年十一月二十五日、三島由紀夫は、楯の会の会員とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁し、自衛隊員にクーデターを呼びかけた後で割腹自殺した。この事件は一般に「三島事件」と呼ばれる。ただし筆者は、三島由紀夫が、作家であることと楯の会会長であることとを峻厳に区別していたという理由から、これを「楯の会事件」と呼んでいる。事実、楯の会会長としての三島に、作家・三島由紀夫の影はあまり見受けられない。

この事件は何だったのか。その答えはあまりにも多岐に渡るので、ともかく本書(あるいは類書)を読んでほしい、としかいえない。以下、本書の特徴と、個人的な感想を述べる。

一九八〇年に刊行された本書は、楯の会事件の関係者に綿密な取材を行い、楯の会創立から事件までの経過を丁寧に再現している。特に楯の会内部の描写には瞠目する。「作家・三島のお遊び」「三島の親衛隊」といった印象もある楯の会だが、実態は、極めて高い作戦・軍事・情報能力を持つ、高度に訓練された若者の集団であった。彼らの多くは、学生運動を経て楯の会に参加した。面白いのは、会員の大部分が三島の著作など読んだことがない、読む気もない、という部分である。また三島も、彼らに自分の小説を読んでほしいとは思っていなかったようだ。楯の会は、作家・三島のカリスマに依らない、純粋に政治的な結社であった。

もっとも会員の多くは、楯の会会長としての三島に絶大なカリスマを感じていたという。その源泉はどこにあったのか。崇高な理念か、緻密な論理か。ここがよくわからない。確かに三島の掲げる理想は高邁で、よく論理武装されていた。三島は左翼の学生を何度も公開討論において論破している。けれども、それは表層的な部分においてであって、徹頭徹尾の論理性や、それを支える理性的な哲学というものが見えてこない。三島の思想は、彼独特の美学を基盤にしている。ゆえに楯の会が「何をしたかったのか」がわからない。この事件が一種不思議である原因がそこにある。

三島と楯の会の仮想的は国内左翼であった。それらと対決するのが自衛隊である。楯の会は、左翼との決戦において自衛隊の先兵となることを目的とし、日常の活動、訓練を行っていた。そして、思想に潔癖な三島は、自衛隊がその使命のために機能することを願うのと同じく、「敵」である左翼も(彼らの思想において)正しく強くあることを望んでいた。

一九六九年(昭和四十四)年十月二十一日、国際反戦デーにおいて左翼が爆発し、自衛隊の出動が要請されることを三島は願っていた。その日こそ、楯の会が立ち上がるときなのである。しかしその願いは叶わなかった。

反日共系のセクトは、「十月決戦」を叫び、大衆の意識に火をつけ、それで七〇年になだれこもうとしていた。しかし、それは不発に終った。機動隊の壁に阻まれ、大衆の支持を得ることができず、孤立して終ったのである。

新聞や雑誌は、この反戦デーの動きが不発に終った理由をつぎのように理解していたようだ。

<東京地検では騒乱罪を適用しようとしていたが、警察力が強化されていて、学生側は正面から衝突できなかった。しかも指導者の多くはすでに逮捕されていた。それに、新宿では地元民が自警団をつくり、彼らが学生たちの動きを克明に警察に伝えた>

ある新聞は、「市民、学生を見放す」という見出しを掲げたが、それは状況を的確にあらわす言葉であった。

この日、三島は、楯の会の会員とともに新宿駅付近を歩きまわった。騒動が最高潮に達し、警察力ではどうにも押さえがきかなくなり、そのうえで自衛隊の治安出動が発動される状況を、三島は望んでいた。しかし、事態はそこまでいかない。いや、もし反日共系セクトの実力行動がそこまで辿りつかなくても、政府は意識的に、自衛隊の出動をすべきであった。政治的な効果を狙って、そうすべきであったのだ。そうすれば、自衛隊と警察と国家権力の相違が明確に浮かびあがってくる。

しかし、三島の想いは幻と終った。

三島は、新宿を歩きながら、ひとり憤慨しつづけた。「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と、ひとりごとをくり返し、自棄になったように、「だめだよ、これでは」と叫びつづけた。

(「第四章 邂逅、そして離別」)

三島のシナリオは画餅に帰した。彼は、自衛隊と左翼の両方に対し、深い絶望を覚えた。何より、楯の会は目的を失ってしまった。逆にいうなら、三島の美学と現実的な政治活動の接点は、そこにしか存在しなかったのである。この点が非常に危うく、脆い。

三島は、学生との討論において次のようなことを語っている。

学生のひとりが、「擁立された天皇、政治的に利用される天皇とは醜いものではないか」とたずねたときの答である。

そこで、三島はつぎのように答えているのだ。

しかし、そういう革命的なことをできる天皇だってあり得るんですよ、今の天皇はそうでないけれども。天皇というものはそういうものを中に持っているものだということをぼくは度々書いているんだなあ。[略]ひとつ個人的な感想を聞いてください。というのはだね、ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなことを言いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしてもおれの中で否定できないのだ。[略]

三島としばしば天皇論を交わした持丸は、天皇についてのこういう個人的体験をきいたことはなかった。

(「第四章 邂逅、そして離別」)

ここに出る三島の思想を脆弱と非難するのは簡単だ。しかしそれはひとまず措く。ともかく、三島の美学的政治思想は、その発露の機会を奪われた。楯の会事件の本質は、その目的の消失に依る部分が大きい。それが本書を読んでの感想である。本当に三島は左翼と闘いたかったのか、とすら思う。単に、大義名分が必要なだけだったのではないか。その疑念がどうしても拭えない。

三島の絶望が割腹自殺へと結実する過程も細かく描写されている。しかし、三島が何を考えていたのかは、やはり類推する他ない。楯の会事件に触れる人間が、ひとりひとり考える問題であろう。

三島と楯の会会員の紐帯は非常に強い。三島が会員に宛てた遺書も本書で公開されている。きめ細かく、感動せずにはおられぬ名文である。三島が最後に心配したのは、日本の末路ではなく、残される会員たちの未来であった。

どうか小生の気持を汲んで、今後、就職し、結婚し、汪洋たる人生の波を抜手を切って進みながら、貴兄が真の理想を忘れずに成長されることを念願します。

(「三島由紀夫の遺書」倉持清への遺書)

私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。

(「三島由紀夫の遺書」楯の会会員への遺書)

楯の会会員の多くは、三島の言葉をよく守り、商業右翼や政治結社に取り込まれることなく、市井の人間として堅実に生きているという。これは特異なことであろう。あくまで三島の思想に殉ずるのが楯の会なのである(会自体は事件後すぐに解散している)。その意味で、楯の会事件はやはり三島事件なのである。三島由紀夫のパーソナリティを無視してこの事件を論じることはできない。

2008/08/26/Tue.

京極夏彦、多田克己、村上健司による鼎談——などという堅苦しいものではなくて、妖怪馬鹿による雑談を収録したもの。豊富な脚注も付されており、中身は非常に濃い。京極夏彦による漫画 (有名漫画の筆致をそのまま再現した、大変テクニカルなパロディ。ただし内容は馬鹿馬鹿しい) が随所に挿入されている。

2001年に新潮OH!文庫の 1冊として発行されており、俺もそのときに購入して読んだ。今回、新潮文庫に収められたわけだが、「完全復刻」ということは、新潮OH!文庫版は絶版なのだろうか?

復刻版の特典として「新章 二十一世紀の妖怪馬鹿」が加えられている。京極夏彦のファンなら読んでおいて損はない 1冊。

2008/08/25/Mon.

大森望と豊崎由美の対談。本書の内容は「はじめに」で簡潔に紹介されている。

本書の主な目的は、無数の文学賞を明快かつわかりやすく分類整理することにある。どんな傾向のどんな賞で、過去にどんな受賞作を出し、読む価値があるのかないのか。

各賞の成立事情や選考過程はもちろん、選考の内幕や賞をめぐる文壇ゴシップやトラブル・喧嘩・騒動にも斬り込み、歴史の古さや賞金額だけでは判断できない賞の「格」や「権威」についても、歴代受賞作をもとに独断と偏見で判定した。「選評」を肴に選考委員を品評する一方、主要各賞最新受賞作を実際に読んで採点することで、文学賞ブックガイドとしての役割も持たせてある。

(大森望「はじめに」)

取り上げられる賞は、芥川賞のようなメジャーな賞から地方主催のマイナーな賞、エンターテイメントから純文学、新人賞から功労賞まで、多岐に渡る。それぞれの代表的な受賞作に対しては、寸評 (あるいは酷評) が交わされる。充実した脚注と併せて、読書案内としても役立つだろう。話者二人の読書量には、とにかく目を見張るばかりだ。

目玉であるゴシップ関連の話題にも事欠かない。特に「ROUND 4 選考委員と選評を斬る!」は爆笑ものである。有名な賞であっても選考は意外にいい加減なものだが、その実態が選考委員の選評に現れてくる。

大森 でも、今回大発見だったのは、津本陽先生の直木賞選評ですね。まるで清水義範が書いた文学賞ネタのパロディ小説かと思うような、超弩級のすばらしさ。例えば『プラナリア』(山本文緒 124回) が受賞したときの選評なんですが、津本先生いわく、

「プラナリア」は、五つの短篇である。内容はたいしたことではない。市井のゴミのような話である。

ありえないでしょう、これ (笑)。ふつう絶対書けない。

(「ROUND 4 選考委員と選評を斬る!」)

ゴミなのか。逆に読んでみたくなる。

本文で語られているのは日本の文学賞だが、コラムでは海外の文学賞についても触れられており、海外作品の愛好者も得るものがあるだろう。豊崎由美による「コラム 5 海外のおすすめ受賞作品」では、現代の海外作品が簡単な紹介を付されて大量にピック・アップされており、普段あまり翻訳物を読まない私も食指を動かされた。

文学賞を介して、いつもなら目にしないような作家、タイトルに出会えるかもしれない 1冊。

2008/08/24/Sun.

太田光の思想がかなり左寄りであることは彼の言動を見ればすぐにわかる。結構なことではあるが、しかしその立ち位置から大日本帝国の十五年戦争を「漫才」にするのは極めて難しい。本書の切れ味は、例えば 9・11 をネタにしたときに比べ、随分と鈍い。いつもの「原論」とは違い、退屈だった。

2008/08/23/Sat.

公安調査庁 (PSIA; Public Security Intelligence Agency) は法務省の外局であり、「公安」という単語ですぐに連想する、警察庁 (NPA; National Police Agency) 内のいわゆる公安警察とはまた別の組織である。公安調査庁は、破壊活動防止法 (破防法) に基づく団体規制請求が本来の業務であるが、周知の通り、破防法を適用された団体はこれまでない。したがって「何をやっているかわからない」というのが、公安調査庁に対する大方の感想だろう。

公安調査庁は、破防法の対象となり得る団体の調査を日常の業務としている。そのような団体に対する調査は、いきおい諜報活動レベルにならざるを得ない。現在の公安調査庁は、諜報組織 (しかし極めて規模の小さい未熟な) であるというのが実態のようだ。破防法という存在理由により、諜報対象の多くが、左翼、北朝鮮関係である。特に北朝鮮関係の情報蓄積は、世界的にも評価されているらしい。

とまァ、そのような公安調査庁の概要、歴史、実際が本書では述べられている。著者は公安調査庁の元キャリアで、現在は退職してジャーナリストをしているという。ただ、Wikipedia によれば、彼の退職理由は、女性上司に対する暴力行為にあるらしい。また、

依願退職に追い込まれるに至った事件とその後の経緯に対する屈折した感情が、公安調査庁に対する批判の原動力と評価する声もあり、記事内容の客観性や信憑性については疑問視するマスコミ関係者もいる。

(野田敬生 - Wikipedia)

という指摘もあり、本書の内容を鵜呑みにするのは危険であるかもしれない。ちなみに、著者は「はじめに」でこう述べている。

自ら諜報活動を展開するわけでもない一般国民がインテリジェンスに関心を持つ必要があるとすれば、それは外国政府あるいは自国政府がリークするインテリジェンス情報をどのように解釈し、判断するのか、その能力を身に付けることに尽きると筆者は考えている。

(「はじめに——誤解と幻想を超えて」)

本書も疑って読めという反面教師からのメッセージですね。わかります。

冗談はともかく、それでも本書は貴重な情報に溢れている。公安調査庁の実態については、上記の通りやや批判的ではあるが、概観するには充分だろう。また、公安警察との確執、外国諜報機関との活動協力、特に CIA における情報分析研修に関する記載は興味深く読んだ。紹介されている初歩的な情報分析の方法も、なかなか面白い。

これからの日本が諜報活動を展開する上で、どのような制度、法律、組織が必要となるのか。彼我の諜報組織との格差はどれくらいか。そのような展望も述べられている。

2008/08/22/Fri.

『ジョジョの奇妙な冒険 43 ストーンオーシャン 4』の続き。

プッチ神父が所有していた DIO の「骨」を追って、闘いの舞台は『厳正懲罰隔離房棟』(ウルトラセキュリティハウスユニット) に移る。そういえば、物語の序盤で徐倫もエンポリオから「骨」を貰っていたはずだが、あれはどうなったのだろう。ざっと読み返してみたが、これまでに以後の描写はない。加えていうと、「骨」は第7部にも登場するモチーフなんだよな。

徐倫の救出に向かう F・F にアナスイが協力を申し出る。彼のスタンド『ダイバー・ダウン』も登場するが、この巻では戦闘には参加しない。

(特に敵の) スタンドの能力が段々と複雑になっていく、戦闘が難解になっていく、というのはシリーズで一貫して観察される傾向である。第6部では急ごしらえのスタンド使いも多く、運用方法が浅いなあ、スタンド使いの人格とスタンドの性質の関連が薄いなあ、と思うことも少なくない。あと、第4部以降で主人公側の「回復」が常態化したことにより、肉を斬らせて骨を断つ戦術がやたらと多くなったのも大きな変化である。

ところで本巻では、DIO (本編でも「ディオ」と表記されたり "DIO" と書かれたりするが、基本的に該当箇所の記述を踏襲する) のスタンドに対する考え方 (1988年当時) が表明されている。

「どんな者だろうと人にはそれぞれその個性にあった適材適所がある」「王には王の……料理人には料理人の……」「それが生きるということだ」「スタンドも同様 「強い」「弱い」の概念はない」

(「看守ウエストウッドの秘密 その 2」)

DIO よ……、その謙虚さがあれば第3部で承太郎に敗れはしなかったろうに。

余談だが、DIO をはじめとする吸血鬼の描写を検討すると、彼らは明らかに他者の血を自らの肉体に取り込んでいることがわかる。血液型を考慮しなくても良いのかな、といつも心配になる。DIO が AB 型だというのなら、何の問題もないが。

2008/08/02/Sat.

最近、何度か本書の名前を日記や書評で出しており、良い機会なので再読してみた。

本書は、筒井康隆が「文藝」誌で行っていた文芸時評をまとめたものである。つまり評論の本なのであって、それをまた書評するというのも珍妙な話だが、とにかく面白いので紹介する。俺は以前にこう書いた。

困ったことに、筒井の書評はわかりやすい上にメチャクチャ面白く、原作を読まずとも理解した気にさせられる、それどころか、ひょっとしたら原作はこの書評よりもつまらないのではないかとすら思ってしまう、という部分がある。

(『予告された殺人の記録』ガブリエル・ガルシア = マルケス)

筒井の評論が持つこの面白さは、以下の信念に基づいている。

小説を評論する時には、論者は当然その小説を面白いと思ったからこそ評論するのであろうから、まずその面白さを評論の中で表現してみせなければならないだろうということ。

(「第3回」)

これを読んで以来、俺も自分の書評では作品の面白さを引き出すように努めてはいるが、なかなか難しい。どうすれば「面白さを評論の中で表現」することができるのだろうか。その答えも本書にある。

大杉重男「『あらくれ』論」のことである。これはみごとな分析で、古臭い自然主義リアリズム小説と思われていた徳田秋声の「あらくれ」を、現代文学として現前させている。(中略) 面白さゆえにおれも夢中で読んでしまったのだが、読んだあとで考えこんだ。評論がこんなに面白いわけがない。これはもしや「あらくれ」そのものの面白さではないのか。

(中略) 案の定だ。特に最初の第一、二、三章など原文の約三分の一が引用され、地の文に含まれる原文を加えれば二分の一、(中略) これだけ丹念に引用し紹介すれば誰だって「あらくれ」の世界に引き込まれ、あとは論者の思うがままということになるのである。いやあ狡い狡い。こういう手があるとはなあ。

(「第3回」)

なるほど。面白い部分を引用すれば良いわけだな。というわけで、本書の紹介もまた引用によって代える。

俺が最も好きなのは、小島信夫『殺祖』に対する評である。

小島信夫の小説はいつも面白いが、その冗長ぶりが常に否定的に指摘されるのは不思議なことだ。長い小説の長所のひとつが「長いこと」であるのは小説というジャンル発生以来の真実なのだから、冗長を批判するのなら小島信夫ほどの作家がそれを冗長と思わないで書いた、イコール、ボケているという失礼な判断をしているのではないことを証明するためにも、それをどこが「いたずらに」長く「無駄が多い」のかを指摘しなければなるまい。そこを見極めようとすればその冗長さにとてつもないユーモアの仕掛けがあることくらいすぐわかる筈だ。作者自身がそのことをどうやら「殺祖」(群像・十一月号) という短篇でわかりやすく教えようとしているらしい。(中略)

のっけから笑ってしまう。

九月某日、東京近代文学館において。

出席者、文学館理事とか評議員とかのうち五、六名の方々、ほか職員の方々。

「小島信夫氏について御本人から色々とおききする集り」

近代文学館関係者を馬鹿にしていると同時に小島信夫本人もまた馬鹿にしているのであり、とてつもなくふざけた話であろうと奇態させる。その期待は裏切られない。

(中略)

この面白さは説明するよりパロディにすればたちまちわかってもらえるのだがなどとだんだん書きかたまで小島信夫に似てきたりして、しかしながらその面白さの仕掛けは原典たる「殺祖」ですべて仕掛けられている以上おれが書いてもそれはパロディにならず盗作になってしまうのであり、さらにまたそれは単なる某老大家のボケぶりを笑うというだけの話になってしまい、自分でとぼけて見せるこの「殺祖」の本当の面白さは表現不可能である。

(「第1回」)

ね、面白そうでしょ?

2008/08/01/Fri.

夏目漱石には『写生文』という小文があって、青空文庫でも読める。「写生文の特色についてはまだ誰も明暸に説破したものがおらん」ところを、漱石先生が縦横に語ってくれる。

小供はよく泣くものである。小供の泣くたびに泣く親は気違である。親と小供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。

では漱石のいう写生文とはいかなるものか。

人間に同情がない作物を称して写生文家の文章というように思われる。しかしそう思うのは誤謬である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔する底の同情ではない。傍から見て気の毒の念に堪えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

何だかハードボイルドのようだ。あるいはユリウス・カエサル『ガリア戦記』か。『ガリア戦記』が写生文であるというのは実に得心がいくし、何となく理解できる気がする。また、あまり関係はないかもしれないが、「写生」という観点から芥川龍之介『薮の中』を読み返すと面白いかな、とも思った。

現在の世に言う「写生文」のイメージのほとんどはアララギ派のそれであり、漱石の写生観は一般に浸透していない印象がある (漱石の説く文章は脈々と受け継がれているが、それが「写生」という語と対応して語られていない)。

「写生」という日本語は (漱石の写生観からすれば) あまり良い言葉ではないかもしれない。風景に人物の心理や感情を練り込むというある種のナマナマしさは、「写"生"」という語感に大きく影響されているようにも感じる。これを東洋的アニミズムの発露と見ることもできるし、漱石は西欧精神の人間だから、と付け足すこともできる。無論、全て妄想である。

ともかく、今や「写生」を論じる必要もなくなってしまったのだろうが、先達の言うところを知っておくのは無駄ではない。温故知新。

それにしても漱石の文章が面白くて、写生文などどうでも良くなるのは困ったものだ。上に引用した、「小供の泣くたびに泣く親は気違である」という一文も爆笑ものだが、他にもまだまだある。

普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りのお嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙りたい。

かくのごとき (T註: 写生文の) 態度は全く俳句から脱化して来たものである。泰西の潮流に漂うて、横浜へ到着した輸入品ではない。

唐突に思い付いたのだが、ハードボイルド俳句という考えは面白いかもしれない。尾崎放哉とか。Wikipedia に「代表句」として挙げられているものを見てみよう。

結構ハードボイルドだよなあ。同じことが短歌でできるだろうか——、というのは宿題にしておく。