- 『ダーウィン以来』スティーヴン・ジェイ・グールド

2008/10/19/Sun.『ダーウィン以来』スティーヴン・ジェイ・グールド

浦本昌紀、寺田鴻・訳。原題は "EVER SINCE DARWIN"、副題は 'Reflections in Natural History' (「進化論への招待」)。

断続平衡進化説を唱えるグールドは根っからのダーウィン主義者である。一口に「ダーウィニズム」といっても色々と (それこそ社会学的なダーウィニズム [しばしば生物学とは全く関係ない] まで) あるのだが、グールドは良い意味でのファンダメンタリストというか。

ダーウィンが『種の起源』で述べている進化論の骨子は、

である (と私は理解している)。私は以前から「進化」という言葉に一抹の疑問を覚える (「言葉の対応」「進化と退化」) 一方、それを上手く表現することができていなかった (これらの議論は私の不勉強で非常に未熟である)。しかし本書の一節を読んで、まさに我が意を得た気分になった。

まず、思いがけない話からはじめることにしよう。ダーウィン、ラマルク、ヘッケルの三人は、それぞれ進化について論じたイギリス、フランス、ドイツを代表する十九世紀最大の学者だが、三人とも彼らの代表的な著書の初版では、エヴォリューション (evolution) という言葉を使っていなかった。

(略)

ダーウィンはこの言葉 (T 註、「進化」) をずいぶん稀にしか使わなかった。彼は、今日われわれが進化 (エヴォリューション) と呼んでいるものを、どんな進歩 (プログレス) とも結びつけたくないとはっきり考えていたからである。

ダーウィンはある有名なエピグラムの中で、自分が生物の形態を記すときに、「高等」とか「下等」とかいった言葉は決して使わなかったということを思い起こしている。なぜなら、もしアメーバが、われわれ人間が自分たちの環境に適応しているのと同じようにその環境にうまく適応しているなら、われわれのほうが高等な生きものであると誰が言うことができるだろうか。

(第3章「ダーウィンのジレンマ」)

一言でいえば「進化は必ずしも進歩ではない」ということだ。この進歩史観というのは、進化を考えるときに非常に邪魔なパラダイムである。

以下は別のパラダイムについて述べられた一節ではあるが、グールドの姿勢をよく示している。すなわち、

偏見に挑戦するには、その前にそれが偏見であることを認識しなければならない。

(第26章「姿勢がヒトをつくった」)

さて、本書の紹介が遅れた。

本書は「ナチュラル・ヒストリー・マガジン」に掲載されたエッセイをまとめたものである。一つ一つの短くも鋭いエッセイはそれ自体で完結しているが、配列の順序はよく考えられており、順番に読み進めることで議論が深まっていくのを見ることができる。

話題は多岐に渡る。

ダーウィンの進化論の解釈、古生物の進化の解釈とそれを支える地学の発展、進化論の科学史、そして社会学に適用される (されてしまった) ダーウィニズムとその問題、などなど。

グールドの処女作である本書には、彼の考え方の基本となる側面がよく現れていて、非常に面白い。