- Book Review 2008/09

2008/09/29/Mon.

2004年、2005年の時事がネタにされている。なかなか面白かった。

2008/09/27/Sat.

松本清張『昭和史発掘 2』の続き。本巻の内容は以下の通り。

「『桜会』の野望」「五・一五事件」

昭和6年、陸軍参謀本部第二部第四班長・橋本欣五郎中佐 (当時) が首魁を演じる、陸軍少壮士官の結社「桜会」は、軍事政権の樹立を目的としたクーデターを計画する。これらは後に「三月事件」「十月事件」と呼ばれるわけだが、いずれも未遂に終わっている。しかしこの構想は生き残り、橋本のプランを下敷きとして、五・一五事件および二・二六事件が引き起こされる。橋本自身は計画に失敗したが、「桜会の野望」は後の者に大きな影響を与えている。

橋本欣五郎および桜会が政府転覆を謀ったのは何故か。橋本による手記にはこうある。

政治は何ら国民の幸福を願うの政治ではなくて、政権の争奪に日を暮らし、政党は資本家の走狗となり、その腐敗は極度に達している。(略)

経済は大いに発展したが、これはみな個人資本主義の極地であって、国家の利益は考えず、自己の利益のみに汲々とし、貧富の差は隔絶し、さらに資本家を代表する政党政府もまた国民の敵たるの観を呈している。(略)

外交もまた不甲斐なき有様で、恰も国際女郎の観がある。

(略) いかにしてこの有様を挽回し、天皇一本の政治にしたいため、吾等同志は日夜深く思いを凝らしているところである。

(「『桜会』の野望」)

現在の日本とまるで同じではないか——、というのはさておき、橋本および桜会はこのような社会を憂えていた。彼らは憂国の士であって、その志は悪くない。しかし手段が未熟かつ浅薄であった。

帝都に騒擾を起こし、政府・財閥の要人を暗殺し、同時に天皇に奏上して、陸軍大臣宇垣一成に組閣の大命を拝受してもらう。これが橋本の計画であった。市外の暴動は大川周明が民間右翼を組織することになったが、そこに至るまでも色々とややこしい。右翼の巨頭といえば北一輝が思い浮かぶが、大川と北は互いに反目しあっており、右翼の中にも派閥がある。その間を橋本は奔走する。資金も要る。クーデターは秘密裏に起こさなければならぬが、しかし同時に人員も必要である。誰にどこまでを明かし、協力を要請するのか。もちろん軍部内にも派閥があって、橋本が担がんとした宇垣は、荒木貞夫一派と抗争しておる。グズグズとしている内に、宇垣は計画から降りてしまった。——クーデターなど起こさずとも、いずれ総理に任命される目処が立ったからであるという。上層部と、それ以下の乖離。こうして三月事件は未遂に終わった。何とも情けない話である。

三月事件の計画は、しかし政治家たちを震撼させた。「橋本らが大川周明一派を使う一方、社会民衆党を使おうとしたところに狼狽があった」という。近衛文麿の指摘が面白い。

これら軍部内一味の革新論のねらいは必ずしも共産革命にあらずとするも、これを取り巻く一部官僚および民間有志 (これを右翼というも可、左翼というも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり) は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無智単純なる軍人これに躍らされたりと見て大過なしと存じ候。

(「『桜会』の野望」)

「いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり」という一節は強烈である。確かに、後に起こる五・一五事件や二・二六事件ではクーデターというよりも革命の匂いが強くなる。桜会は参謀本部を中心とした中堅将校によって組織されたが、五・一五事件や二・二六事件で立ち上がるのは実動部隊の人間となる。これらの中には貧農の出身も多い。

三月事件からの一連の流れには、首謀者に同情するべきところもある。だがやはり、クーデターという手段を講じようとした点には弁護の余地がない。そして何より、彼らを厳罰に処せなかった軍部の落ち度は糾弾されてしかるべきだろう。

三月事件で処分者が一人も出なかったことは、処分しようにもするほうにその加担者があったために手がつけられなかったのである。しかし、これが部内に大きな禍根として残り、やがて満州侵略に暴走させるのである。橋本らは処分されなかったことで、上部何するものぞ、という驕慢に駆られた。

(「『桜会』の野望」)

彼らも、彼らが憎んだ政党、官僚、財閥と全く同じであったのだ。

「スパイ "M" の謀略」

日本共産党に潜入した伝説的なスパイ "M" の話。これがすこぶる面白い。

三・一五および四・一六検挙で日本共産党は壊滅的な打撃を被ったが、共産主義運動の灯は消えず、過去の教訓から、その活動と当局からの潜行はますます巧妙になった。しかし警察も負けてはいなかった。共産党の中央に位置する M (松村という偽名を使っていた) をスパイに仕立て、M に組織を育てさせた上で一網打尽にしたのである。M が最初からスパイであったのか、途中でスパイになったのかはわからない。清張は後者であろうと推理している。

M と連絡していたのは、特高課長の毛利基である。彼は前の三・一五および四・一六検挙でも辣腕を奮っている。

毛利特高課長は、前にもふれたように、まるで特高警察のために生れたような男だった。彼くらい共産党検挙に有能だった警察官はいない。(略)

毛利は、或るとき、日本の共産主義運動はおれの掌の上にある、と豪語していたそうだが、「M」を操っている彼は、まさにその通りだったといえるのである。

(「スパイ "M" の謀略」)

その M というのはどういう男であったか。これが皆目わからない (というか、記録に残っていない)。本名、出身地、経歴、何もかもが不明である。M は共産党入党後、次代を担う闘士としてロシアのクートベ (スターリン大学) で共産主義を学ぶ。帰朝後、壊滅した日本共産党を立て直すために中央組織で活躍するのだが、どうもこの間に検挙を受け、スパイへ転身したらしい。

M は精力的に組織を拡充した。理論や闘争などの「表」の顔は他の同志に任せ、自らは資金繰りを始めとする裏方の仕事を牛耳った。かくして、日本共産党の全貌は、M の眼前に一望のものとなる。

以下は M の部下・久喜勝一の回想。

M は非常に能力のある男だった。私は M に直接指導されたのだからよく知っているが、あれほどの男がザラにいるとは思えない。とくに組織力、タイミングのつかみ方、方法の選び方、重点のおき方、活動面における人間の動かし方などの非合法技術にはすぐれていた。そしてシンパ組織、資金関係、会合場所、住居、地方との安全な連絡場所、敵の中枢に結びつく情報活動など、その他、資金・技術関係のあらゆる活動に前代未聞の能力を発揮した。あれだけ強力なものを短期間にしたのは M の能力である。党の中央部の他のだれがやっても出来ることではなかった。

(「スパイ "M" の謀略」)

こんな奴がスパイなのだからたまったものではない。

そして銀行襲撃事件が起こる。これは、資金に窮した日本共産党が銀行強盗によって金銭を収奪するという、前代未聞の事件である。これを計画・指揮したのが M であった。彼は巧みに若手党員の心を掴み、共産党の危地を救うには、闘争資金の入手に手段を選んでいる場合ではない、と力説した。

銀行強盗は成功したが、これは共産党に汚名を着せるためである。実行者の居場所は M によって警察に筒抜けなので、逮捕はいつでもできる。事件を防ぐよりは、事件を起こさせて世間の注目を集める方がよろしい。事件後も、警察は実行犯を泳がしている。一網打尽にするための準備に専念していたのだ。

数ヶ月後、M からの情報によって実行犯が捕らえられる。そして、実行犯の「自供」により、地下に潜行していた幹部たちの所在が明らかにされた——。そういうことになっているが、幹部たちの情報は、実は M からもたらされたものである。果たして幹部連中は一斉に逮捕され、日本共産党はまたしても壊滅的な状態に陥るのであった。

銀行強盗事件の裁判でも、その計画の首謀者であるはずの M の名前はほとんど出てこない。判決に必要な部分でのみ、非常に曖昧な形で登場する。いわんや、警察の記録には全く残っていない。

以下に彼が巧妙に立回ったかをみよ。松村は、こうして次々に中央委員を官憲の手に引渡してしまった。もちろん、彼もいっしょに逮捕された。だが、他の党員で松村のその後を知る者はいない。彼は捕縄をかけられ、どこかの警察の門だけをくぐったあと、いずこともなく逃げ去ったままである。

(「スパイ "M" の謀略」)

2008/09/24/Wed.

このシリーズはとにかく密度が半端じゃない。セクションを読み終わってから頁数を確認すると、内容の濃さに比べて、その文字数の少なさに驚く。記述は簡にして要を得ており、かといって決して退屈ではなく、清張円熟期 (本書の初出は 1965年) の名文に酔うことすらできる。史料はふんだんに引用されており、構成も起伏に富む。まさに名著であろう。

本書の内容は以下の通り。

「三・一五共産党検挙」

草創期の日本共産党の奮闘と、その弾圧の歴史が語られる。

本邦の共産主義者は長らく地下に潜って非公然活動を行ってきたが、モスクワのコミンテルンを通じた指導を受け、日本共産党を正式に発足し、組織の拡充、機関誌の発行、そして普通選挙への出馬を通じて民衆の前に姿を現す。もちろんこれは当局の好むべからざるところであり、果たして共産党は、2回に渡る全国一斉検挙 (昭和3年 3月 15日、昭和4年 4月 16日) で壊滅的な打撃を被ることになる。

この検挙に至るまでには色々とあるのだが、一つには日本共産党の組織作りがまだ未熟であったということ、それからスパイの存在 (の可能性) が挙げられる。共産党内部には理論の対立があったり、また党設立にあたって党員名簿・党員章を作成してしまう (秘密組織においてこれらは致命的な証拠となってしまう) など、まだまだ警察に対抗するだけの充分な成熟がなかった。コミンテルンからの指導がこれを補うわけであるが、これもまた情けないというか。問題が起こるたびに海外にお伺いを立て、譴責されたといってはヘコみ、承認されたといっては喜ぶ。警察がブルジョワ政権の走狗であるというのなら、共産党はモスクワ政権の手下ではないのか。そんな素朴な疑問もないではない。

検挙によって共産党は壊滅寸前に至るが、この事件を通じて成長した部分もある。転向者も出たけれど、党員の多くは立派な態度で共産主義に殉じており、このあたりの風景はなかなか読ませる。一般にアカ狩りというと暗いイメージがあるが、裁判にも爽やかな光景を見ることができる。

さて、検挙後の日本共産党員がとった戦術といえば法廷闘争であろう。

後半は宮城裁判長によって昭和六年六月二十五日から東京地方裁判所で開かれたが、このとき被告が強く要求したのは裁判の公開であった。

その主張するところは、この公判を通じて国民に対し、党の真の姿を闡明する必要がある、世間に流されているデマによってわれわれの目的の真の正しさが歪められているから、この際これを正したいというのであった。(略)

被告側は、もし、この要求が受容れられない場合は、絶対に陳述しないと繰返し、三田村は、非公開ならばハンガーストライキを決行すると宣言した。

(略)

宮城裁判長は、尋問するに当って、事前に彼自身も社会科学を勉強し、相当その理論を掴んでいたといわれている。そして、佐野学に対しては、マルクス・レーニン主義の根本についてもかなり突っ込んだ訊き方をしている。

(略)

もとより、検事側は公開禁止を要求したが、宮城裁判長はこれを斥け、刑事訴訟法にもない被告らの陳述上の相談さえ許した。新聞はこれを「被告会議」と名づけた。

(「三・一五共産党検挙」)

なかなか粋な裁判長である。「各被告の代表陳述は、速記者を入れてことごとく記録されたから、あたかも法廷は放送局の一室でマイクを前にして講演しているような観があった」(名古屋地方裁判所判事辻参正『法廷心理学の研究』) というから、まさに奇観と言えよう。

そして本節の劇的なラスト。

——徳田が日本の軍国主義の役割を述べている際、法廷の窓外に号外売の鈴が鳴り渡り、法廷に一種名状のできない緊張が漲った。満州事変の突発である。彼は、このことをどこで聞いたのか、その鈴の音を聞くや、一段と声を張上げて、

「ただ今、帝国主義は満州に出兵した。日本の青年は、断然、これに反対して戦うであろう」

と絶叫した。

(「三・一五共産党検挙」)

「『満州某重大事件』」

満州某重大事件というのは、言うまでもなく張作霖爆殺事件 (昭和3年 6月 4日) のことである。この事件が関東軍によって起こされたことは世界中で報道されたが、唯一日本の新聞だけは「満州某重大事件」と称して、グズグズと議会を長引かせていた。

事件を起こした関東軍に厳罰を、という声も大きくあった。当時の総理大臣は、第1巻でも取り上げられた田中義一である。彼は昭和天皇に対して、満州某重大事件の明白な解決を約束している。ところが田中は陸軍大将でもあった。関東軍に対する処罰は我々に対する裏切りだという声が軍部で大きくなり、田中は板挟みに悩んだ揚げ句、枢密院からも嫌われ、天皇に対する不明から遂に辞職する。この人はどこか田舎親父みたいなところがあり、悪い人間ではないのだろうが、すぐに弁を左右するので、結局は何も果たせぬまま表舞台を降りることとなった。

軍部が独走するに至った、その論理的支柱が、かの悪名高い「統帥権」である。統帥権干犯問題については、司馬遼太郎『この国のかたち』でも詳しく触れられている。統帥権を振りかざした軍部の悪については論を待たないが、それにしても政治家の方も腰が砕けている。

(略) 下手人が河本大佐や東宮大尉だとは陸軍部内の調査で早くからわかっていたのだ。しかし、これを処分することができない陸軍側は、事件首謀者の志は国家に対する忠誠から出たものだとして、称賛する声すら内部からあがっていた。内閣糺弾に起った民政党も、関東軍の警備や満蒙の権益の点だけをとりあげて政府を攻撃するだけで、事件の核心を衝くことができない。これを突きすすめると、軍部は、その常套手段の「統帥権」をふりかざしてきそうである。次期政権を眼の前にした民政党も軍部の反撥を怖れた。

(「『満州某重大事件』」)

軍部の反感を買うと、陸軍大臣・海軍大臣の推挙が得られず、よって組閣ができないからである。この点が非常に問題であって、明らかな制度上の欠陥であろう。いくら軍部が統帥権を持ち出してきたところで、具体的に圧力をかけられないと実効性はないのだが、大臣制度がこれを担保してしまっている。統帥権干犯問題——、その実態のいくらかは現役軍人による軍務大臣制度の問題といって良い。

「佐分利公使の怪死」

昭和四年十一月二十九日、支那公使・佐分利貞男は、箱根は富士屋ホテルで死体となって発見された。ベッドに仰臥し、頭を撃ち抜かれた状態であった。右手には拳銃が握られている。誰もが自殺と思ったが、しかし佐分利は左利きなのであった——。

そのまま、松本清張の社会派推理小説になりそうな事件である。清張はこの事件の背景を述べながら、事件を詳しく分析し (現場の見取り図まで付されている)、関係各位の証言を丹念に集めながら真相を推理する。さながら、彼の小説に登場する刑事のように。

佐分利は支那公使として対中問題にあたっていた。当時、満州某重大事件で田中義一内閣が斃れ、浜口雄幸が総理の座に就いている。外相は幣原喜重郎であり、協調外交を掲げて対中内政不干渉を唱えていたが、これは右派から「軟弱外交」と謗られていた。佐分利公使は、幣原の右腕として、その「軟弱外交」に辣腕を奮っていたのである。それゆえ、他殺説の匂いはどうしても消せない。

まだ生きていた頃の丸山鶴吉 (当時の警視総監) は、この事件をひとにきかれて、「あの事件の真相は、日本の黒体が変ったときに初めて判る」といったという。この辺のところが真相かもしれない。

(「佐分利公使の怪死」)

「潤一郎と春夫」

谷崎潤一郎が、その妻・千代を、しかも公然と、佐藤春夫に「譲った」という事件である。第1巻でも「芥川龍之介の死」に触れているが、こういう話題を取り上げるところが小説家・松本清張らしい。

谷崎、千代、春夫は、以下のような書状を知人に宛てており、これは広く報道されもした。

拝啓 炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候 陳者我等三人此度合議を以て千代は潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く素より双方交際の儀は従前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度何れ相当仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候

敬具

谷崎潤一郎
千代
佐藤 春夫

ここに至るまでに、三者の間でどのような葛藤があったか。谷崎と佐藤の作品を縦横に分析しながら、清張がこのドラマに迫る。もとより昭和史に直接の影響を与えた事件ではないが、当時の慣習、風俗、人々の心理、文壇事情、そして谷崎と佐藤の人間的刻苦と文学的成長が存分に織り込まれていて、非常に面白い。事態の経緯も、およそ常人とは異なる、いかにも作家的な経緯を辿るのだが、そのあたりは実際に読んでみてほしい。

そして、清々しい読後。

谷崎、佐藤の択んだ方法が正当だった証拠には、その後、佐藤が幸福な結婚生活を送ったこと、谷崎も松子夫人を得てますます旺盛な創作活動に入ったことでも分る。

(「潤一郎と春夫」)

2008/09/23/Tue.

『ジョジョの奇妙な冒険 44 ストーンオーシャン 5』の続き。

本編とは関係ないが、本巻の口絵がスゴい。何というか、スゴいとしか言い様がない。この絵は連載当時のものではなく、現在の荒木が描き下ろしたものだと思うが、……いや、スゴいわ。

ケンゾー『ドラゴンズ・ドリーム』および D アン G『ヨーヨーマッ』との戦いで、ついにアナスイ『ダイバーダウン』の本領が発揮される。

スタンド名——『ダイバーダウン』
本体——アナスイ

破壊力——A
スピード——A
射程距離——E
持続力——C
精密動作性——B
成長性——B

能力——物体の中へもぐり込む。その内部の構造までも破壊したり、ついでに組み立て直したりする。

『ダイバーダウン』の能力、特に「内部の構造を組み立て直す」というのはシンプルで力強く、絵としても面白い。やっぱりスタンドはこうあってほしい。

前巻の感想で、「(特に敵の) スタンドの能力が段々と複雑になっていく、戦闘が難解になっていく」と書いた。「(あらかじめ明らかにされた) スタンドの能力を駆使した戦い」「スタンドの能力とその作戦を逆手にとった反撃」という黄金パターンが、第6部では随分と減っている。「敵のスタンド能力は何であるか」がわかっておらず、その解明に力が注がれる、というパターンが多い。これはこれで悪くはないんだけど……。

『ヨーヨーマッ』戦では結局、『ヨーヨーマッ』の攻撃方法を解明できぬままに『ダイバーダウン』が圧勝する。これはアナスイの頼もしさを表現しているのだと思われるが、であるならば、読者にはあらかじめ『ヨーヨーマッ』の攻撃方法を明らかにしておくべきだった。その方が効果的だったと思う。

あと、何度読んでも、『ヨーヨーマッ』の攻撃方法がヨダレであると結論付けた経緯がよくわからなかった。

それから、『ドラゴンズ・ドリーム』の「方角」についてもよくわからない。方角は相対的な方向である。3つの地点が A - B - C という具合に並んでいたとして、B地点は、A にとっては「東」にあるが、C にとっては「西」になる。『ドラゴンズ・ドリーム』が差すところの「大凶」「大吉」の方角が、「どこを基準にしての方角なのか」が不分明なので、やはり何回読んでもよくわからない。

2008/09/22/Mon.

福田和也『乃木希典』には、旅順攻略戦の戦闘描写がほとんどない。そこが不満であった。

本書には「要塞」「腹を切ること」という 2つの文章が収められており、前者は旅順攻略戦を、後者は殉死の様子を仔細に述べている。これらはそれぞれ、愚将と詩人、乃木が持つ両面に対応する。

「要塞」

乃木は戦術的——いわゆる実際の戦闘——に劣った武将であった。西南戦争では、薩摩軍に敗れて退却している。

乃木少佐は植木方面でこの敵と遭遇し、激戦になった。兵力は乃木隊が四百余人、薩軍の支隊とほぼ同勢であった。昼間は官軍の銃器の性能が優越しているため戦況はほぼ互角であったが、夜に入り、薩軍の抜刀による夜襲に抗しきれず乃木隊は算を乱して退却した。

(「要塞」)

このときの混乱で乃木隊は軍旗を奪われるのであるが、私は別に大した問題だとは思わない。乃木を擁護するなら、官軍は平民を徴兵して仕立て上げた弱兵であったし、一方の薩摩軍は日本最強の武士であった。戦闘には不確定要素もあり、また運もある。一合ぶつかって敗れることもあろう。退却も恥ではない。

将にとって重要なのは、戦術的な強弱ではない。ともすれば予測が外れがちな戦術的結果を吸収し得る、戦略的な思考であり、展開である。目の前の戦闘結果に一喜一憂するのは、戦略的位置に立つべき指揮官の仕事ではない。だから私は乃木の軍旗事件を責めようとは思わない。

乃木はしかし、戦略的にも愚将であった。それが顕になるのが旅順攻略戦である。旅順戦最大の戦略的目標は、旅順港内に停泊しているロシア艦隊の壊滅、あるいは港からの追い出し (港外には連合艦隊が待機している) である。旅順港の艦隊がバルチック艦隊と合流すれば、連合艦隊の敗北は必至であり、それはすなわち日本の滅亡を意味する。それを阻止するのが旅順戦の目的である。繰り返すが、旅順艦隊の撃滅が第一であり、それが達成できるのならば要塞の攻略などはどうでも良い。

これが乃木にはわからなかった。要塞の死角となっている二〇三高地を奪取すれば、そこから旅順港が一望できること、そこから大砲を撃ち込めば艦隊を一掃できること、したがって戦略的目標は要塞ではなく二〇三高地であること——、これらのことごとくを乃木は理解しなかった。あくまで目の前の要塞の攻略に拘った。結果、数万人の日本兵が死んだ。

近代要塞の攻略には、乃木が採ったような正面攻撃を要求する。当然、多大な犠牲が出る。だが、そうしなければ要塞は落ちないのだ。戦術的に杜撰なところはあったけれども、血みどろの白兵戦を演じた乃木軍は、基本的に間違えてはいない。ただ、戦略的に無駄だっただけだ。愚将・乃木の誹りは、やはり免れるものではないだろう。

乃木はその遺書で、殉死の理由に触れている。

「明治十年の役に軍旗を失ひ、その後死処を得たく心がけ候もその機を得ず」

(略)

それ以外に、理由は書かれていない。要するに二十九歳のとき軍旗を薩軍にうばわれたことについての自責のみが唯一の理由になっており、この一文あるがためにかれの殉死は内外を驚倒させた。

(「腹を切ること」)

乃木が最期まで気にしていたのは、西南戦争における戦術的敗北だった。それは、旅順において自分が戦略的に誤っていたこと、まさにそれゆえに、自分が将官に適していなかったことよりも大事であった。一軍の指揮官としては、やはりどうしようもないと思わざるを得ない。

将軍ではなく、一介の軍人として乃木が存在したら——、どうしてもそう考えてしまう。しかし将軍であればこそ、乃木希典は乃木希典たり得たのだが。とにもかくにも、これが歴史の配材であったとしか言い様がない。

「腹を切ること」

乃木の思想の背景には陽明学があった、という指摘が面白い。乃木は最後の陽明学者であった。

陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動をおこさねばならず、行動をおこすことによって思想は完結するのである。

(「腹を切ること」)

そして恐るべきは、「この学派にあっては動機の至純さを尊び、結果の正否を問題にしない」ことである。「学問というよりも宗教であることのほうがややちかい」。陽明学を補助線にしてみると、乃木の人間像が明確になる。乃木が殉死の直前、山鹿素行の『中朝事実』を裕仁親王 (昭和天皇) に贈っているのも興味深い。昭和天皇はこれをどう読んだであろう。

さて、長らく戦場で死に場所を求め続けるも、ついにその処を得なかった乃木にとって、明治天皇に殉じて死ぬのはもはや必然であった。その最期の場面が凄まじい。乃木は最初、妻・静子を道連れにするつもりはなかった (遺書にも、妻に残す財産のことを書いている)。しかし結局、乃木と妻は共に死んだ。何があったのか。

「もうすぐ、そう午後八時に御霊柩が宮城を御出ましになる。号砲が鳴る。そのときに自分は自決する」

あと、十五分しかない。静子は、そのことを冷静にきいた。

(略) 自分も生きていない、いずれおあとを追って死ぬ、と言ったにちがいない。

それまで希典は静子を道連れにするつもりはなかった。(略) が、いまはそのことが一変した。静子はあとで死ぬという。

「それならばいっそ、いまわしと共に死ねばどうか」

(略) このことに静子は驚いた。あとわずか十五分で死ねということであった。

(略) 静子は当惑した。当惑のあまり叫んだ声が、階下にまできこえた。

——今夜だけは。

(「腹を切ること」)

静子は、乃木に手伝ってもらって自死を遂げたことになっているが、実際はどうだったのだろう。乃木の陽明学的行動が、静子に対して起こされはしなかったろうか。ともかく、乃木は腹を切った。

軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍のやや上方を経て右へひきまわし、いったんその刃を抜き、第一創と交叉するよう十字に切りさげ、さらにそれを右上方へはねあげた。作法でいう十文字腹であった。しかしこれのみでは死ねず、本来ならば絶命のために介錯が必要であった。(略) 軍刀のつかを畳の上にあて、刃を両手でもってささえ、上体を倒すことによって咽喉をつらぬき、左頚動脈と気管を切断することによってその死を一瞬で完結させている。

(「腹を切ること」)

凄絶というよりない。

三島由紀夫の切腹にしてもそうだが、思想だけで腹が切れるものだろうか、といつも思う。試しに包丁を手に持って想像してみたのだが、これを自分の腹に突き刺すというのは、やはり尋常ではない。首を吊ったりするのとは訳が違う。切腹という自殺様式については、また別に考えてみたい。

2008/09/21/Sun.

副題に「昭和の悲劇」とある。前著となる『乃木希典』と対を成すものとして本書は著された。

乃木希典について小文を書いた後、山下奉文について書かなければなるまい、と思うようになった。

明治の、悲しみを背負っていても否むことのできない爽やかさを思うにつけ、昭和の重苦しさ、やりきれなさがこみ上げてくる。

(略)

乃木の殉死にたいする、山下の刑死という最期は、その激しいコントラストにおいて明治と昭和、それぞれの宿命を示している、そのように考えるようになった。

(「英雄」)

筆者は山下を「英雄」と規定する。

山下は、ヘーゲルがイエナ会戦で勝利したナポレオンのことを馬上の世界精神と呼んだような意味で、一つの時代を終焉に導き、新しい時代の幕開けを知らせた生ける稲妻であった。

その終末は、絞首刑だった。

勲しの輝かしさと末路の悲しさの、その双方の激しさによって、彼は、やはり英雄であった。セント・ヘレナのナポレオンとは異なっていても、ロス・バニョスの山下奉文は、悲劇的である。

(「英雄」)

さすがにこれは、ちょっと褒め過ぎではないのか。

山下は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校とエリート街道を驀進して軍人となるが、二・二六事件においてはエリート集団である統制派に与せず、青年将校を主体とする皇道派と交り、昭和天皇の不興を買う。

太平洋戦争では難攻不落と言われた英領シンガポール要塞を、持ち前の合理的精神から的確に分析・攻略し、電撃的な勝利を収める。しかし、兵員不足からシンガポール統治に不安を覚え、華僑の不当な殺害を部隊に許してしまう。これが山下刑死の原因となるのだが、兵員不足は大本営の無能によるものであり、一概に山下だけを責めるわけにはいかない。組織人としてのこのような山下の不幸——、これは本書の主題でもある。

シンガポール攻略後、山下は凱旋も許されずに満州に覆面将軍として飛ばされる。対ソ戦の準備を進めていたところ、またしても南方に飛ばされ、フィリピンでの指揮を委ねられる。帝国軍は既にミッドウェーで大敗しており、アメリカ軍の上陸が迫っていた。山下はルソンでの決戦を唱えるが、大本営はレイテで米軍を叩けと命令する。保阪正康『大本営発表という権力』でも触れたが、これは台湾沖航空戦の虚報を元に立てられた、根拠のない愚かな作戦である。神風特攻隊まで投入したレイテ決戦は、果たして惨敗に終わる。

山下はルソンに撤退し、山中での悲惨なゲリラ戦を展開する。アメリカ軍をフィリピンに釘付けにするためである。玉砕を禁じ、生き抜くことを命じた。

あくまで組織の人、帝国陸軍の人であった山下は、その組織に最期まで忠実であった。在フィリピンの将兵が玉砕するのではなく、組織だって降伏し、帰国すること、それが自分の責任であると考えた。

(「敗北」)

山下自身、自裁されよという部下からの進言を退けている。結果、山下は生き延びて杜撰な裁判にかけられ、異国の地に縊られた。これについては筆者の評価も揺れている。

自決することで、武人としての名誉を貫いた方が、千載の後に帝国陸軍の名誉を輝かせ、後世の日本人を鼓舞することになったのではないか、という思いもないではない。だがまた、山下が持っていた、軍事組織の長としての考え方には、共感できないこともない。

(「敗北」)

私が一番不思議なのは、このような「組織の人」が「英雄」であると指摘する筆者の論拠である。山下は合理的で優秀な将軍である、悪い人間でもない、部下に慕われ、魅力溢れる人間像だと思う。しかし果たして「大衆が己の夢を託し、ともに喜び、ともに悲しむ、輝ける偶像」(「英雄」) であったか。どうもそこが納得できない。

さて。

本書で最も感動的なのは、文庫版で増補された最終章であろう。山下の部下が筆者宛てにしたためた手紙が紹介されている。部下氏は、山下とともに絶望的なゲリラ戦を戦った人である。最悪の戦闘を経験してもなお衰えぬ山下への敬愛が、手紙には溢れている。特筆すべきことであろう。

少なくとも部隊の者にとって、山下は確かに英雄だったのかもしれぬ。

2008/09/20/Sat.

乃木希典——、そう聞いて思い浮かぶ事柄は二つ。旅順攻略戦と殉死である。

軍人としての乃木の評価は低い。司馬遼太郎『坂の上の雲』以来、乃木愚将論は国民的なコンセンサスとなっている。

戦後、『機密日露戦史』など、参謀本部文書が公開されて研究者の間にも (T 註、乃木は) 無能だという認識が広まっていったが、やはり決定的なのは、司馬遼太郎の著作だった。

『坂の上の雲』における、旅順で、無策のままに数万の人名を浪費した愚将。『殉死』における、軍人ならざる詩人乃木、というイメージは強力である。「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」(「要塞」)

(「面影」)

「詩人」というのは詩才を指して言っているのではない。一人の人間でいながら——そして愚将とまで罵られる程度の軍人でありながら——、死後、神にまで祀り上げられたその高潔な生き方、詩としての乃木の人生のことを意味している。その乃木の詩は、明治天皇の崩御に対する殉死で完結する。

軍人・乃木と、詩人・乃木は別物であるのか。あるいは両者は不可分のものであるのか。本書ではそこに眼目が置かれている。キーワードは「徳」である。

長州藩で松下村塾門 (師は玉木文之進 [吉田松陰の師]) でありながら、戊辰戦争には参加せず、維新後、軍に入ったものの、軍閥 (= 藩閥) とは疎遠で、それゆえ純粋に新政府 (= 明治天皇) に忠を捧げるに至った。

西南戦争で軍旗を奪われ、以後、死に場所を求め続けた。

乃木は放蕩を繰り返したが、当時の軍人が料亭で遊ぶのは普通のことであった。乃木の遊びは、彼が「軍人らしい軍人たろうと」したがためであると、本書では説明される。

もっとも盛大に、臆面もなく、遊び続けることで、放胆で度外れという、一つの理念的軍人像を描こうとしたのではないか。それは、同時に、緩慢なる自殺であったか。

(「徳義」)

乃木のこの思想は、ドイツ留学を経て 180度転換する。ドイツ陸軍を多分に誤解した乃木は、「宜シク徳義ト名誉ヲ勧メテ、全文ノ軍紀ヲ厳正ニシ、即チ我ガ陸軍ノ大元帥タル 天皇陛下ノ威武、人徳ヲ軍隊ニ拡充シ、上下軍人ニ忠君愛国ノ念ヲ固クシ、名誉ヲ貴ブノ心ヲ奨励」(「徳義」) することを志す。

何だ、旧軍の悪弊そのままではないか。確かにそうであろう。ある時期以降の陸軍の狂的な精神主義は、乃木と、乃木の神格化に寄るところが大きいかもしれない。しかし乃木は大真面目に考え、しかもそれを完全なまでに実行した。体現した。貫徹した。彼は常に軍服に身を包み、有徳の人物としてその生を生きた。

もちろん、乃木の努力は軍服だけではない。

料亭、芸妓を遠ざけたという話はすでにした。

生活をとことん質素にした。

家での食事は、稗飯だった。

客が来れば、「御馳走だ」と云って蕎麦を振る舞う。

軍務についている時には、兵隊と同じものを食べた。

特別な食事を供されると、食べずに返した。

田舎親父が、好意で用意してくれたものは、喜んで食べた。

宿で、畳に直接軍服で寝た。

煙草は一番安い「朝日」だった。

自動車には乗らなかった。

雨でも馬にのった。

傘をささずに、豪雨の下を歩いた。

負傷兵に会うと、どんなところでも馬を下りて、「ご苦労だったなあ」とねぎらった。

夏でも蚊帳を使わなかった。

身の回りのことは、すべて自分でした。

従卒や副官の手を煩わせなかった。

(略)

馬を可愛がった。

長年仕えた馬丁に年金がつかなかったので、毎年、年金にあたる分の金を送ってやった。

怪しげな依頼にも、感じるところがあれば、金を送った。

乃木は次第に、一つの詩のようなものになった。美しいが、人工的で、非現実的なもの。しかし、彼は紛れもない、生身の人間だった。

(「徳義」)

これは明治帝、大日本帝国元首としてその人生を捧げなければならなかった天皇その人と同じではないのか。否、明治天皇より厳しい生き様である。明治帝にはまだ後宮があった。そこでは大いにくつろがれたという。しかし乃木は、365日 24時間「有徳の将軍・乃木希典」であった。そこが凄まじい。戦慄すら覚える。

そんな乃木を明治帝は愛し、皇太孫 (昭和天皇) の学習院院長たることを命じた。こうして、明治天皇と乃木希典の精神は昭和天皇に結実する。

昭和天皇は、乃木希典の名前をもっとも印象深い人物として挙げ続けた。

即位の御大礼をすまされた昭和三年十二月十四日、二重橋前で東京府の主催により、総勢八万人の在郷軍人と男子学生による行進、女子学生による奉祝歌の合唱が催された。

当日、雨が降り出し、参加者たちは、寒風のなかで凍えて出御を待たなければならなかった。陛下は、側近に御自分が立つ場所から天幕をはずされるとともに、参加者に雨具を使用させるようにと命じた。

天幕がはずされると、天皇は玉座の前にお立ちになり、侍従から渡されたマントを捨てた。それを知った参加者たちも雨具をしまった。昭和天皇は、雨中、一時間以上、行進する軍人、学生にたいして挙手の礼をとり、微動だにしなかったという。

(「葬礼」)

腐ったような生活を送っている俺は随分と色んなことを考えさせられた。

さて、乃木の最大の悲劇は、旅順攻略戦の指揮官に任命されたことだろう。旅順戦がなくとも、乃木は高潔な軍人として、少なくとも当時の人々の記憶には残っただろう。しかしまた、これほどまでに神格化されることもなかっただろう。乃木の名前が現在にまで語り継がれているのは、旅順戦があったためである。旅順戦によって我々は、乃木希典という精神が明治に存在していたことを知る。だがそのことで、旅順に失われた数多の人命が救われるわけでもない——。評価はぐるぐると巡り、いずれ定まることはないだろう。

愚将か。詩人か。どちらも乃木希典である、と片付けるのは簡単だが、それを許さぬ迫力が本書には——乃木の生き様には——ある。

2008/09/19/Fri.

副題に「英国王室と関東大震災」とある。

前半は欧州遊学、後半は原敬暗殺〜関東大震災の記述に当てられている。欧州遊学は、昭和天皇(当時皇太子)にとって最も甘美な思い出である。一方、帰朝後に摂政となってからは、天皇としての責任を負った日々が始まる。

欧州遊学

皇族、それも皇太子が海外へ赴くなど古今に例がない。欧州遊学に対しては、母である大正天皇妃節子皇后を始め、随分と反対があった。遊学を積極的に進めたのは、元老や政治家だった。次期天皇として世界を検分し、大いに見聞を広めてほしいというのがその願いだ。宮内大臣牧野伸顕の働きによって、ようやく外遊が実現した。

欧州に向かう途中の船上で、皇太子は宮城での日々から解放される。一行がデッキでゴルフや相撲に興じる場面が良い。

西園寺八郎は、山本信次郎と申しあわせて、一切、皇太子にたいして、手加減をしないことにしていた。御学問所では、東宮大夫の浜尾新が、御学友や侍従たちに、相撲でも何でも、けして殿下に勝ってはいけないと、厳命していた。浜尾にしてみれば、殿下を傷つけてはならない、という気持ちから出たものだったろうが、少年の心にどんな屈託を刻んだか。

(略)

彼の人が好む相撲や、柔道でも、西園寺は容赦しなかった。

力一杯、皇太子を投げとばした。

甲板にしつらえられた土俵に皇太子は何度もひっくりかえり、そのたびに、これまでいかに手加減されてきたかを、思いしった。

みずからの身体で甲板が軋むたびに、桎梏から、少しずつ解き放たれていくように彼の人は感じた。

(「イギリスの立憲君主制」)

これらの体験が功を奏したのか。

外遊前、皇太子のコミュニケーション能力には疑問がもたれていた。とにかく無口・無表情なのである。そんなことで、英国王室を始めとする世界の貴顕と上手く交流できるだろうか。しかしその心配は杞憂に終わった。皇太子はいずれの場においても、立派に立ち振る舞い、明晰なスピーチを演じ、深い洞察と教養を見せた。その姿は各国で好意的に報道され、特に日本では皇太子の一挙一動に国民が熱狂した。

英明な青年君主として、国民の熱狂的な歓迎を受け、皇太子は帰朝した。

摂政

身体の優れぬ大正天皇に成り代わり、皇太子は摂政に就任する。以後、その生活は全て公に捧げられる。

世情は少々騒がしかった。巷間にはアナキストや共産主義者が蠢いていた。原敬が暗殺され、健全な政党政治への動きは後退した。そして関東大震災、それに伴う三国人殺害事件、そして皇太子暗殺未遂事件(虎ノ門事件)。その後の歴史を知っている我々からすれば、どうも時代がキナ臭くなりつつあるなという感想を抱いてしまうが、当時の人々はどのように思っていたのだろうか。

話は逸れるが、大杉栄のエピソードが面白かった。

杉山(註:茂丸)は、大杉栄に、このように問いかけたという。

「君はまだその主義を押通すつもりかい。なぜ罷めてしまはないんだ」

大杉の答えが凄まじい。

「実は罷めたいとも思ふのですが、罷めたら仲間に殺されてしまひます。それから主義者でゐるからこそ食つて行かれますが、主義を棄てたら、口が干上つてしまひます」

ここまで率直に語られては、さすがのホラ丸も笑うしかなかった。

(「虎の門事件」)

関東大震災後、延期になっていた、久邇宮良子女王との婚儀が行われた。結婚に際し、皇太子は、女官を通勤制にする、子供は自らの手で育てるなどの宮中改革を提案している(しかし結局、明仁親王[今上陛下]は里子に出されたが)。英国王室の見聞が大きく影響していると考えられる。

宮中のしきたりは、明治以降、意外と漸進的に改革されている。大正天皇は側女を廃した。行幸もよくした。大正天皇妃は皇后として積極的に公務をこなした。昭和天皇・皇后両陛下は、夫妻で共に行動するようにした。今上陛下は平民と結婚し、親王を初めて手元で育てた。固陋では決してない。むしろ革新的な面すらある。この一連の意志(があるとすれば)は、どこから来ているのだろうか。それを考えるのも面白い。

本巻の最後で大正天皇が崩御する。皇太子迪宮裕仁は以後、昭和天皇として生きることとなる。

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2008/09/18/Thu.

副題に「日露戦争と乃木希典の死」とある。

天皇、特に明治帝や昭和帝について語るという行為が、いきおい自分語りになってしまいがちなことについては、最近の日記で述べた。要点を述べると、超人的君主であることを求められた天皇、その心象風景の実際は誰にもわからない、したがって天皇を語る者がそれを忖度し代弁することによってしか天皇を語り得ない、そこに一種の、天皇とそれを語る者の同一化が生じる——。

本書では頻繁に、昭和天皇を指して「彼(か)の人」と記述される。この言葉に、筆者の昭和天皇に対する想いが簡潔に込められている。

とはいえ、彼の人の、その存在と心象は想像を絶しているというのも否定しようがない事実である。

(略)

だが、何よりも測りがたいのは、歴史の渦巻きのなかに立ち続けた、その姿である。

ときにひとり屹立し、ときに誰よりももみくちゃにされた、彼の人。

彼を、どのように語ればいいのだろう。

その姿は、ときに悲しいほどに小さく、ときに仰ぐように巨きい。

この齟齬は、錯覚によるものでもなく、矛盾ですらない。彼の宿命であり、つまるところ昭和という時代の宿命がもたらすものだ。

(「明治の精神」)

昭和天皇の心象について、筆者が想像を巡らすことはほぼ皆無である。ひたすら昭和天皇が歩いた道の風景を描写するのみである。この点、空海自身を書き尽くすこと能わぬため、その風景を述べることで存在を浮き彫りにするしかなかった司馬遼太郎『空海の風景』の手法と似ているかもしれない。

本書では、後に昭和天皇となる迪宮(みちのみや)裕仁の誕生から、明治帝の崩御と大正天皇の即位、立太子を経て皇太子として欧州に外遊するまでが描かれている。

迪宮は生後直後から里子に出され、厳しい帝王教育を受ける。それが当たり前であったからか、それとも天性の資質であったか、迪宮は不満を漏らすこともなく、忍耐強く、我慢強く、辛抱強く、その幼い日々を過ごした。迪宮を取り巻く状況——皇族、華族、元老、議会、宮城、そして日本社会のあらゆる階層——、そこに棲む様々な人物が、迪宮との関係を通じて活写される。幼き迪宮は当然、いまだ主体的に世界に干渉する存在ではない。この巻で述べられている世界は、まだ迪宮を育む背景としてのみ存在する。

彼が初めて世界と接触するのが欧州への外遊であり、世界に干渉するのは、帰国後、摂政となってからである。しかしそれらは「以後の話」ではなく、あくまで幼少時代の延長なのである。当たり前のことではあるが、その意味で、昭和天皇の幼年時代を精緻に叙述した本書の役割は、続巻においてますます重要性を増してくるだろう。

関連

2008/09/10/Wed.

俺は『武将列伝』を始めとする海音寺潮五郎の「〜伝」が大好きなのだが、それは、僅々数十余頁で浮き彫りにされる筆者の思考が興味深いからである。紙数が限られているので、筆を執る者の重点は自ずと絞られる。読む方も焦点を合わせやすい。このことは、あらすじが決まっている歴史という物語をなぜ何度も読むのか、という問題とも関係している。要するに、我々読者は「歴史の読み方」を読んでいるんだよな。

本書に収められている合戦は以下の通り。

島原の役、西南戦争が入っているのが面白い。松本清張は、菊池寛の『日本合戦譚』(池島信平の下書きによる) に影響を受けて本書を編んだらしい (「あとがき 菊池・池島『日本合戦譚』其他と『私説・日本合戦譚』との間」)。

清張合戦譚の特徴は、

  1. 積極的な野史の引用 (愉快なエピソードの紹介)
  2. 同時に行われる史料の批判 (正確な史実の追求)
  3. 現代社会、特に会社組織と大名家の対比

の 3つかと思われる。次の一節が典型的であろうか。

(T註・三方ヶ原の戦では) 果たせるかな、家康さんざんの敗北で、わずか旗本五騎で浜松城に逃げ帰った。夏目小左衛門が防ぎ死ななかったら家康もどうなったか分らず、彼の生還は奇蹟といわれたくらいだ。

家康は城門を開いて篝火を焚かせ、奥に入って湯漬けを三椀までお替りして大鼾をかいて寝たというが、家康を偉くする後世の御用史家の創作にすぎぬ。家康が本気で信玄と戦う気だったら、全軍体当たりで甲州勢に向かうはずだが、初めからなるべき損害を少くするように計算して出兵している。それでも、家康はこの敗戦によって多大な痛手をうけ、しばらくは意気銷沈、商売不振の中小企業のごとく吐息をついた。

(『長篠合戦』)

特に「現代社会、特に会社組織と大名家の対比」が独特で面白く、社会派作家の面目躍如といった感を覚えた。信長、秀吉、光秀の心理を忖度した『山崎の戦』は出色であり、「人使いのうまい信長だが、部下の心理を解することでは欠点があった」という一節には感銘を受けた。人材登用術と人身掌握術は別物である。当たり前のことだが、同一に論じられていることも多い気がする。

清張の「歴史の読み方」で一等愉快だったのが、西南戦争、そして西郷隆盛に対するそれである。

西郷はブルドーザーのごとく旧制度を破壊したが、緻密に鉄筋を組み立ててゆく建築家ではなかった。武人は敵の破壊が任務であって建設者ではない。「一介の武弁」とは山県有朋がいつも自己を評して口癖にいう言葉だが、山県にはまだ妥協性ががあり、政治性があった。西郷にはそれがなかった。彼は根っからの武人だった。

(『西南戦争』)

政治的社会的リアリズムを重視する清張の視点は、海音寺潮五郎や司馬遼太郎によって確立された理想の西郷像が広く受け入れられた今日からすると、意外と新鮮に感ずる。また、山縣有朋といえば、西郷を引き立てるために評されるという不遇の扱いが多いのだが、清張の評価はそうでもない。これも面白い。

「西郷の人情が鹿児島県人にのみ慕われる」(『西南戦争』) とも書かれてある。本書の初出連載は 1965年であり、司馬の『竜馬がゆく』(1966年)、『翔ぶが如く』(1975年) よりも早い。西郷の全国的な人気は、司馬以後に生じたものであることが窺われる。たまに司馬以前の歴史譚を読むと、「司馬以前・以後」なるものが本当に存在するんだなあと実感できる。これって結構危険だよな。

まァ、清張も、日本探偵小説史において「清張以前・以後」を現出させているのだが。

2008/09/07/Sun.

権力による情報統制・情報操作という意味で、現代でも「大本営」「大本営発表」という表現が使われる。しかして実際の大本営発表とはいかなるものであったか、これを正確に知っている人間は少ないのではないか。

大本営発表とは何か

そも大本営とは何であるか。法律では下のようになっている。

昭和に入って、日中戦争が始まってから四ヶ月後の昭和十二年十一月に前述の戦時大本営条例に代わって新たに大本営令(勅令第六百五十八号)が裁可された。「戦時又は事変に際し(大本営は)設ける」ことができることになったのである。この大本営令は三条から成っていて、第一条には「天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」とあり、天皇の大権である統帥権を戦時、あるいは事変時に陸軍と海軍が共通の組織(これが大本営というのだが)をもって戦略案や戦争遂行計画を練ることが明記される。

(第二章「大本営発表という組織」)

しかし、実態は望まれたものとは異なっていた。

大本営といってもその実体はあまりにも曖昧で、その内部には陸軍と海軍の日々の調整機関もなければ、統一した見解を打ち出す機関もなかった。参謀本部[陸軍]も軍令部[海軍]もそれぞれ別々に天皇に戦略や戦果を伝え、天皇が結果的に調整するケースもしばしば見られた。

(第二章「大本営発表という組織」、[]内引用者、以下同)

大本営発表を起草するのは大本営報道部であるが、これも陸軍報道部と海軍報道部に別れている。相互の発表は事前に回覧されるようになっているが、それも陸軍と海軍の対立抗争を煽っただけのようである。文言のささいな表現を巡って何時間も議論を重ねたり、あるいは相手より優位に立たんと戦果を過大に粉飾して報告するようなことが日常的に行われた。

ケッサクなのは、台湾沖航空戦の虚報である。昭和十九年十二月の台湾沖航空戦において、大本営海軍報道部は、日本海軍航空部隊がアメリカ海軍の「航空母艦十一隻」を「轟撃沈」したという発表を行った。これは虚報なのであるが、その頃にはもう天皇にすら正確な報告がなされていない。この嘘の戦果を喜んだ天皇は、軍に感謝の勅語を下賜してしまった。

富永書(『大本営発表の真相史』)には、さすがに大本営海軍報道部のなかでも「(真相がわかるにつれ)戦果訂正の意見も出たが、勅語も出ていることなので今更何ともならないことだった」とあるのだが、このことは図らずも天皇に真実を伝えていなかったことを裏づけている。

(第二章「大本営発表という組織」)

さらに問題なのは、

台湾沖航空戦の真実を、海軍側は陸軍側に伝えなかった。そのことを堀[栄三による『大本営参謀の情報戦記』]は、

「デタラメ大戦果発表を鵜呑みにした陸軍が、急遽作戦計画を変更して、レイテ決戦を行うハメに陥るのであるから、海軍航空戦の戦果の発表は、地獄への引導のようなものであった」

と怒りの筆調で書いている。虚構の大本営発表が、実は十万、二十万という単位で日本軍の将兵を死に至らしたという現実、それは大本営発表そのものの罪悪であるといってもいいわけである。

(第二章「大本営発表という組織」)

何のための大本営であるのか。そう思わざるを得ない。

大本営発表の虚構世界

しみじみ思うのだが、大本営発表は名文であり名調子である。以下、真珠湾攻撃(昭和十六年十二月八日)の大本営発表を追ってみる。

第一回 大本営陸海軍部発表(昭和十六年十二月八日午前六時) 帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり

第二回 大本営陸軍部発表(八日午前十時四十分) 我軍は本八日未明戦闘状態に入るや機を失せず香港の攻撃を開始せり

第三回 大本営陸海軍部発表(八日午前十一時五十分) 我軍は陸海緊密なる協力の下に本八日午前早朝マレー半島方面の奇襲上陸作戦を敢行し着々戦果を拡張中なり

第十回 大本営陸海軍部発表(八日午後九時) 帝国陸海軍航空部隊は本八日緊密なる協力のもとに比島敵航空兵力ならびに主要飛行場を急襲し、イバにおいて四十機、クラーク・フィールドにおいて五十乃至六十機を撃墜せり、わが方の損害二機

「抜刀隊の歌」(陸軍)や「軍艦マーチ」(海軍)のメロディとともに、こういった調子で続々と戦果が報告されるわけだ。

もし今「抜刀隊の歌」や「軍艦マーチ」の CD でもかけながら、発表文を読んでいくと、日本はなんと強い国だろうと昂奮を味わうことができるだろう。

(第三章「大本営発表の思想」)

その通りだと俺も感じた。また、大本営発表の本文自体は短いのだが、翌日に印刷される新聞が物凄い。大本営発表をコアとした虚構世界が、様々な粉飾(大本営報道部長談、大日本言論報国会[会長:徳富蘇峰]、外電、写真、庶民への取材などなど)を施され、異様な高揚感とともにリアルに立ち上がるように作られている。本書では当時の紙面も詳しく分析されているのだが、実に危険な内容であると言わざるを得ない。何が危険か。この新聞が魅力的に過ぎる(と思ってしまう)のが本当に危ないと思う。「人間は自分が信じたいことを喜んで信じる」(ユリウス・カエサル)その好例がここにある。

このような紙面ができたのは、大本営が言論の検閲権を握っていたからである。しかしそれに喜んで協力した言論人、ジャーナリストがいたこともまた事実である(もちろん弾圧を恐れずに反対した人間もいたが)。この面に関してはまだ充分な反省がなされていないのではないか。

長くなるのでこのあたりで止めるが、上記のような虚構世界に国ごと陥ってしまった心理過程、制度の問題、実際に招いてしまった事実の検証などなどが、本書では十全に行われている。特に、大本営発表の内容を時系列を追って分析することによって、当時の時間経過を顕にしている点が素晴らしい。

大本営発表に躍らされたくなければ、大本営発表について知悉しなければならぬ。大本営発表を立体的に把握する上で、本書は格好の一冊となるだろう。

2008/09/06/Sat.

保阪正康をホストとした対談集。各対談の内容は以下の通り。

タイトルを見て、保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』の副読本に良いかなと思って購入したが、三島が登場するのは松本健一との対談においてのみ。全体としては、昭和天皇を中心に戦前〜戦後を俯瞰するという構成になっている。現代天皇制の問題、宮中祭祀、戦後政治家と天皇など、様々な話題について論じられ、いわゆる秘話なども数多く紹介されている。大変面白い。

以下、それらの中から、二・二六事件について述べる。

保阪の昭和天皇観がまず面白い。

保阪——私自身は、一九四五 (昭和二十) 年八月十五日の「終戦の詔勅」から始まって、一九四六年一月一日の「新日本建設に関する詔書」、いわゆる「人間宣言」まで、あの時期に発する詔書を分析すると、昭和天皇自信が歴史的な戦いを挑んだというふうに思える。

どういう意味かというと、"天皇制下の軍国主義" というものを天皇自身は否定しようとしている。例えば「新日本建設に関する詔書」のなかの冒頭部分に五箇条の御誓文を入れています。「あれは絶対に入れたかった。あれが目的なんだ」と昭和天皇はのちの記者会見で語っている。

これらの事実を勘案すると、"天皇制下の軍国主義" は "天皇制下の民主主義" にきわめてスムーズにスライドさせることができると昭和天皇は判断していた。(略)

しかし、結果的に昭和天皇は勝負に敗れた、というのが私の考え方です。なぜなら "民主主義下の天皇制" に変容していくからです。

(原武史×保阪正康「昭和天皇と宮中祭祀」)

そして「民主主義下の天皇制」を自ら進んで体現しているのが、今上陛下と皇后陛下である——、という理解である。良くも悪くも、現在の皇室問題の裏には「昭和天皇の敗北」があるのではないか。

大日本帝国憲法下における皇族は、軍属でもあり貴族院議員でもあった。

半藤——一九一〇 (明治四十三) 年に「皇族身位令」が制定された。要するに、皇族の男子である宮様はすべて原則として終身陸海軍の武官となる、死ぬまで陸海軍の軍人であるということが、天皇だけではなくてその他の弟宮、あるいはその孫の皇太孫まで、皇族身位令によって定められることになりました。

また「貴族院令」によって、皇族の成人男子は全員が貴族院議員になることが定められました。したがって、皇族は貴族院議員であると同時に軍人であり、両方の資格を有することになる。

(半藤一利×保阪正康「昭和の戦争と天皇」)

昭和天皇はこの環境で生まれ育った唯一の天皇であった。そして昭和天皇は、政治的存在、軍事的存在、それからもちろん「天皇」であるという歴史的存在、宗教的存在、文化的存在である自分を非常によく理解していた。これは話者全員が認める観察である。

この多重性の中、それぞれの歴史的場面において昭和天皇は適切な衣装を身に纏う。その歴史的センス、精神的タフネスにはやはり畏敬の念を抱かざるを得ない。

しかしながら、複雑に過ぎるその在り方において、どうしても矛盾が露呈することがある。その一つが二・二六事件ではなかったか。

松本——二・二六事件のときの昭和天皇はきわめて政治的な決断をして処置をした。「私の大事な重臣たちを殺してしまって!」と激怒する。即座に「あれは反乱軍である」というふうに呼び始める。もちろん初めは「朕が股肱の臣を殺して!!」という私怨みたいなものがあるわけですが、立憲君主という立場からすれば、非常に理性的な対応だった。

では、二・二六事件のときの青年将校は、間違ったことをしたから理性的に政治的に処罰されたのかというと、国民のほとんどは「青年将校たちは可哀想」という反応だろうと思います。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

そして 25年後、三島由紀夫は天皇制を擁護しながらも、「人間宣言」をした昭和天皇には絶望する。

松本——<美しい天皇>を汚したのは、一つには昭和天皇ご自身であるという考え方がありますね。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

<美しい天皇>への渇望と昭和天皇への絶望にさいなまれた三島は、自らを二・二六事件の青年将校になぞらえるようになる。

松本——三島さんはあきらかに "遅れてきた青年将校" ですね。ですから、一九六一 (昭和三十六) 年の『憂国』あたりから、遅れて "二・二六事件に参加する" という明確な意識を持っていたと思います。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

三島の自決は不可避であるばかりか、むしろ当然の結末という流れになる。そして「三島事件にもっとも恐怖感を持ったのは天皇その人じゃないか」(保阪) という推測。これは非常に興味深い。

松本——私は、昭和天皇が生涯、口にしなかった三人の人物の名前があると確信しています。この三人については絶対名前を覚えているはずなのに、決して公には口にしない。彼らの起こした運動や行動に対して驚愕し、まさに戦慄した。それは二・二六事件の北一輝、大本教の出口王仁三郎 (略) そして三島由紀夫である、と。

(松本健一×保阪正康「二・二六事件と三島由紀夫」)

二・二六事件は、昭和天皇にとってまさしく急所なのである。そこを衝いた三島の鋭さを称揚するのは簡単ではあるが、そこにしか行き着きようがなかった、と解釈をすることもできる。もしも後者であるならば、その歴史的・思想的導線を詳しく検証する必要があるだろう。それは「昭和天皇の敗北」とも密接に関係しているに相違ない。