- 『脳病院へまゐります。』若合春侑

2005/11/19/Sat.『脳病院へまゐります。』若合春侑

表題作『脳病院へまゐります。』は、第86回文學界新人賞受賞作である。が、購入した理由とは関係ない。単にタイトルが面白かったので手に入れたのである。ゆえに、2年以上も本棚の肥やしとなっていた。本書にはもう 1作、『カタカナ三十九文字の遺書』も収録されている。

『脳病院へまゐります。』

本作は、女から男への手紙という体裁を採っている。したがって、最初はどのような状況であるのかがさっぱりわからない。読み進む内に、時代は昭和初期、女は教養も家族も仕事もある、男は帝大出のエリートで財閥の御曹司、ということが判明してくる。

女と男が出会ったのは、東京のあるカフェで、そこは女の親族が経営している。その日、女はひょんな事情でカフェの女給として店を手伝っていた。そこに男がやってくる。昭和初期のカフェといえば、今でいうクラブをもう少し下品にしたところか。女は元々そこで働くような身ではないのだが、男が、「女給にしては高級な会話ができる女」と彼女を認識してしまったがために、彼女は小さな嘘をつく。

やがて彼らは男女の仲となる。男は谷崎潤一郎を崇拝しているのだが、ちょっと勘違いをしている人間で、谷崎の悪魔的神秘的思想を理解できるのは俺しかいないと思っている。女の感性では、谷崎の悪魔的側面は作品の中で昇華されたものであって、決して谷崎本人がそのような思想を持っているのではないと思っている。しかし女は、最初についた嘘のために、あくまで男から谷崎的悪魔主義について教えを乞う、という姿勢を貫く。

この下僕のような女に加虐心を刺激された男は、女との変態行為をエスカレートさせる。ついには性交において自分のうんこを女に食わせるまでに行き着く (本文には本当に「うんこ」と書いてある)。

女は男を愛しており、女にとって「この男」を愛することは、男に喜んで盲従することに他ならなかった。わざわざカッコを付けて「この男」と書いたのは、彼女が、一般的な愛が決して盲従ではないことを知っているからである。しかし、彼女が愛した男は、盲従によって表現される愛しか理解できなかったし、理解しようともしなかった。

この間に、彼女の夫の話や、相手の男の結婚などが描写される。それでも彼女達の関係は続くのだが。やがて心身ともにボロボロになった彼女は、男との縁を切るため、脳病院へ行くことを決意する。彼女から男へ宛てた最後の手紙には、しかし男への愛が絶ち難いものであることが告白されている。と同時に、彼女をここまで追いつめた男への鋭い言葉が。

『カタカナ三十九文字の遺書』

本作の主人公は、ある屋敷に数十年も勤めた老女中である。話は、彼女の主人の葬式から始まる。主を失った屋敷は近く売却されることになり、身よりもなく、主人を敬愛していた老女は、作家であった主人の書き損じ原稿とともに自らを始末しようと考えている。

主人の遠縁にあたる人間が屋敷を整理し始める。死に場所を探しながら後始末を続ける老女の描写の合間に、彼女の半生が追想として挿入される。

彼女は幼い頃からこの屋敷で奉公している。教養もなく、生来ほとんどしゃべることができない彼女は、屋敷の変遷を静かに眺めている。後に彼女の主人となる若主人は、次々と妻を変え、そのたびに屋敷の環境は、人間関係を含めて大きく変化する。以前から主人に目をかけられると同時に、虐待にも近い扱いを受けている彼女は、しかしあまりにも世間知らずなため、それが幸福であるのか不幸であるのかも判断できない。最後には、彼女が無学であることを見越した主人の、とんでもないペテンに嵌められる。その理由は後段で明らかにされるが、ヒドい話であることには違いない。

やがて一家に斜陽が訪れ、いつしか屋敷には主人と彼女の 2人だけが残ることになる。ただただ静かに過ぎていく毎日。昔を懐かしむことが多くなった主人は、ある日、彼女に対して「今までありがとう」と頭を下げる。彼女の魂が救われるのと同時に、ここで読者も感動を覚えることだろう。

しかし、物語はもう少し続く。主人の死後、彼女は「あるモノ」を見付ける。自分を取り巻く全ての世界が欺瞞であったことに、老女は気付いてしまう。呆然とする彼女。そして最後にもう 1つの山があるのだが、そこまでは書かないことにする。

感想

解説は島田雅彦。「この女、相当グレているな」と作者に抱いた感想を述べている。俺もそう思う。

大部分の男には多かれ少なかれ変態的加虐心があって、そのような欲求に諾々と屈してくれる女は、ある意味では一種の理想なのである。もちろん、そんな奇特な御仁はおられぬから、創作物の中にそのような女神を我々男は見出すわけである。ポルノの話をしているのではない。高尚な文学と称されるものの中にも、いかに多くの「男に都合の良い女」が現れてきたことか。

当然、このような女を創出するのは男である。「男に都合の良い女」を意識的に描ける女性は、だから非常に頭が良い。しかし大体において、頭が良いゆえに、「現実にあるわけない」と男を糾弾、あるいは男に報復するというパターンに (それが潜在的な形であるにせよ) 至る場合が多い。我々男はその言葉を真摯に受け止めねばなるまいが、著者・若合春侑が「グレている」のは、そんなレベルを軽々と超えているからである。

うまくまとめられないのだが、とにかく恐ろしい小説であった。