- 『魔神の遊戯』島田荘司

2005/11/18/Fri.『魔神の遊戯』島田荘司

島田荘司御大の御手洗もの。1999年、彼がスウェーデンはウプサラ大学の教授であった頃の話である。

話は、御手洗潔がイギリスの画家、ロドニー・ラーヒムと面談することから始まる。この画家は 35歳までを精神病院で過ごした経歴の持ち主だが、社会復帰した後、ある異様な才能に目覚める。彼は夢のような幻覚のような、宗教的法悦をともなうイメージを得ては、それをカンバスに描き出すという行為に没頭する。彼がものする絵は全て、ある寒村をモチーフにしており、しかも写真のような精密さを伴っていた。例えば、ある城郭を描いた 2枚の絵は、石組みの数から個々の石の具合まで完璧な整合性を保っている、という具合。

続いて、ロドニーの手記が紹介される。彼はユダヤ教徒であり、ゆえあってイスラエルから母とともにイギリスへ流れてきた。落ち着いたのはネス湖畔のティモシー村で、そこの風景が彼の画題でもある。ユダヤ教徒である彼らは、村で執拗な迫害に遭い、ロドニーは不幸な少年時代を過ごす。そんな彼が心の支えにしたのが、ユダヤ教の神ヤーハエである。自らをモーゼに擬したロドニーは、村の人々に復讐を誓う。

そして時間は現在に戻り、ティモシー村での事件が綴られる。狂言回しはアル中の詩人、バーニー。彼と、警察署長であるバグリーのユーモラスな掛け合いは、なかなかに楽しい。

事件は、村の空でオーロラが輝く夜に始まった。闇夜に魔神の咆哮としか思えない音が響き渡る中、巨大な力で引きちぎられた女性の死体が発見される。身体の各部はバラバラに遺棄されており、その意図は不明。しかも、この夜から連続で女性が犠牲になる。いずれも頭部や手足がもぎ取られ、厳重な警備をあざ笑うかのように飾り立てられ、捨てられる。被害者達をつなぐミッシング・リングは何か。魔神ヤーハエの仕業としか思えない怪事件に、スウェーデンから来ていた御手洗教授が捜査に加わる。

探偵と推理

御大、相変わらず健在、というところか。今回の容疑者はヤーハエというのだから、もう誰にも止められない。近年ますます軽くなってきた文体とともに、長い割にはサクサクと読める。

島田荘司の近作に共通する傾向だが、もはや御手洗は「推理」を諦めたようである。事件を細密に描き、探偵が緻密に思考を巡らすという、探偵小説のオタク的要素には全く無関心だ。凡愚共が「何だこれは。XX の仕業としか思えない」となったところで、まるで最初から全てを知っていたかのような御手洗が登場、ペロペロっとトリックを明かしてすぐに物語に戻る、という作品が多い。あらゆる可能性を検討して排除する、という回りくどいことはしない。そして誰も疑わない。

島田荘司は元来、緻密な推理を探偵小説の必要条件とは考えていない。彼が『本格ミステリー宣言』『本格ミステリー宣言 II』『本格ミステリー館』などで執拗に主張しているのは、「ミステリーに必要なのは、冒頭に現れる詩美性の高い謎、そして後段に至る論理的解決、その落差がもたらすカタルシス」である。したがって、ゴチャゴチャと繰り返される探偵の推理思考は、(彼の理論によれば) 必須ではない。むしろ最近の島田は、それは物語を妨げる夾雑物と考えているフシがある。したがって、謎は途方もなく大きくなり、一方で解決編はアッサリとし、1つの「物語」としての完結性を高めようとしているのではないか、という印象を俺は持っている。

島田荘司に関しては、いつかまとまった評論を書いてみたいと考えているが、困ったことに、彼はいまだに進化途上なんだよなあ。老いてますます盛んな御大に乾杯、いや、完敗か。どこまでも突っ走ってほしいものである。