- Book Review 2005/11

2005/11/28/Mon.

副題に「フツウの男をフツウでない男にするための 54章」とある。塩野七生による男性論であり、日本とイタリアとの対比が多い。たまにイギリス男も現れる。話題は多岐にわたる。

フツウでない男

塩野七生のいう「フツウでない男」は、文字通り「フツウでない」。

人々が拠って立つところの常識は、尊重はしなければならないが、自分自身では守らなくてもよい。

(『成功する男について』)

個人的に「考え方」としては大賛成なのだが、とても実行はできない。常識は守らざるを得ない、という場にいること自体がダメなのだ、といわれたら反論できないが。

セックスは、九十歳になっても可能だと思うこと。

(『男が上手に年をとるために』)

不可能だとかいう以前に、90歳まで生きる自信がない。

結局のところ、男にとっての勝負は、人間味に落ちつくということなのであろうか。

(『腹が出てきてはもうおしまいか』)

散々書いてきて、最後にコレ。そりゃないだろ、先生。タイトルもスゴいな。

自分で考えろ

とはいえ、何事も塩野センセイのおっしゃる通りにする必要はない (当たり前だが)。いみじくも、本書の冒頭に、こうある。

つまり、ここで言いたい「頭の良い男」とは、なにごとも自らの頭で考え、それにもとづいて判断をくだし、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べて柔軟性に富み、それでいて鋭く不快洞察力を持つ男、ということになる。

(『頭の良い男について』)

というわけで、「頭の良い」男性同志諸君には、自らの判断でこの書を読んで頂きたい。という他ない。面白い本であることは確かである……と、褒めようとしたら。

利口ぶった女の書く、男性論なんぞは読まないこと。

(『男が上手に年をとるために』)

続編『再び男たちへ フツウであることに満足できなくなった男のための 63章』の存在は何なんだ。

2005/11/27/Sun.

同じ著者による『新解さんの読み方』の続編。第5版と、当時出版された第6版との異同が主な内容となっている。新たに追加されたのは、やはりカタカナ語が多い。本文のスタイルは変わらず。新解さんは版を重ねるにつれて表現も丸くなっているが、ギョッとする語釈も健在。新明解国語辞典が「日本で一番売れている」のは本当のことだが、それで良いのか、という気にもさせられる。

付録として、新明解国語辞典の広告 (赤瀬川原平らが寄稿している) が掲載されている。

2005/11/26/Sat.

夏石鈴子は、赤瀬川原平『新解さんの謎』に登場した編集者「SM嬢」その人である。本書は、新解さんの発見者である彼女が書いた新解本である。第4版と、当時出版された第5版との異同が主な内容となっている。

新明解国語辞典の項目を引用し、それに対して簡単な感想や一言を付け加える、というのが本文のスタイル。正直にいえば、やはり赤瀬川の手による文章の方が数段面白い。とはいえ、新解さん発見者ならではの視点もあるし、何より採り上げられている項目の多さ、調査のマニアックさは感服に値する。

何かしら自分も辞書を引いてみたくなる、そんな一冊。

2005/11/19/Sat.

表題作『脳病院へまゐります。』は、第86回文學界新人賞受賞作である。が、購入した理由とは関係ない。単にタイトルが面白かったので手に入れたのである。ゆえに、2年以上も本棚の肥やしとなっていた。本書にはもう 1作、『カタカナ三十九文字の遺書』も収録されている。

『脳病院へまゐります。』

本作は、女から男への手紙という体裁を採っている。したがって、最初はどのような状況であるのかがさっぱりわからない。読み進む内に、時代は昭和初期、女は教養も家族も仕事もある、男は帝大出のエリートで財閥の御曹司、ということが判明してくる。

女と男が出会ったのは、東京のあるカフェで、そこは女の親族が経営している。その日、女はひょんな事情でカフェの女給として店を手伝っていた。そこに男がやってくる。昭和初期のカフェといえば、今でいうクラブをもう少し下品にしたところか。女は元々そこで働くような身ではないのだが、男が、「女給にしては高級な会話ができる女」と彼女を認識してしまったがために、彼女は小さな嘘をつく。

やがて彼らは男女の仲となる。男は谷崎潤一郎を崇拝しているのだが、ちょっと勘違いをしている人間で、谷崎の悪魔的神秘的思想を理解できるのは俺しかいないと思っている。女の感性では、谷崎の悪魔的側面は作品の中で昇華されたものであって、決して谷崎本人がそのような思想を持っているのではないと思っている。しかし女は、最初についた嘘のために、あくまで男から谷崎的悪魔主義について教えを乞う、という姿勢を貫く。

この下僕のような女に加虐心を刺激された男は、女との変態行為をエスカレートさせる。ついには性交において自分のうんこを女に食わせるまでに行き着く (本文には本当に「うんこ」と書いてある)。

女は男を愛しており、女にとって「この男」を愛することは、男に喜んで盲従することに他ならなかった。わざわざカッコを付けて「この男」と書いたのは、彼女が、一般的な愛が決して盲従ではないことを知っているからである。しかし、彼女が愛した男は、盲従によって表現される愛しか理解できなかったし、理解しようともしなかった。

この間に、彼女の夫の話や、相手の男の結婚などが描写される。それでも彼女達の関係は続くのだが。やがて心身ともにボロボロになった彼女は、男との縁を切るため、脳病院へ行くことを決意する。彼女から男へ宛てた最後の手紙には、しかし男への愛が絶ち難いものであることが告白されている。と同時に、彼女をここまで追いつめた男への鋭い言葉が。

『カタカナ三十九文字の遺書』

本作の主人公は、ある屋敷に数十年も勤めた老女中である。話は、彼女の主人の葬式から始まる。主を失った屋敷は近く売却されることになり、身よりもなく、主人を敬愛していた老女は、作家であった主人の書き損じ原稿とともに自らを始末しようと考えている。

主人の遠縁にあたる人間が屋敷を整理し始める。死に場所を探しながら後始末を続ける老女の描写の合間に、彼女の半生が追想として挿入される。

彼女は幼い頃からこの屋敷で奉公している。教養もなく、生来ほとんどしゃべることができない彼女は、屋敷の変遷を静かに眺めている。後に彼女の主人となる若主人は、次々と妻を変え、そのたびに屋敷の環境は、人間関係を含めて大きく変化する。以前から主人に目をかけられると同時に、虐待にも近い扱いを受けている彼女は、しかしあまりにも世間知らずなため、それが幸福であるのか不幸であるのかも判断できない。最後には、彼女が無学であることを見越した主人の、とんでもないペテンに嵌められる。その理由は後段で明らかにされるが、ヒドい話であることには違いない。

やがて一家に斜陽が訪れ、いつしか屋敷には主人と彼女の 2人だけが残ることになる。ただただ静かに過ぎていく毎日。昔を懐かしむことが多くなった主人は、ある日、彼女に対して「今までありがとう」と頭を下げる。彼女の魂が救われるのと同時に、ここで読者も感動を覚えることだろう。

しかし、物語はもう少し続く。主人の死後、彼女は「あるモノ」を見付ける。自分を取り巻く全ての世界が欺瞞であったことに、老女は気付いてしまう。呆然とする彼女。そして最後にもう 1つの山があるのだが、そこまでは書かないことにする。

感想

解説は島田雅彦。「この女、相当グレているな」と作者に抱いた感想を述べている。俺もそう思う。

大部分の男には多かれ少なかれ変態的加虐心があって、そのような欲求に諾々と屈してくれる女は、ある意味では一種の理想なのである。もちろん、そんな奇特な御仁はおられぬから、創作物の中にそのような女神を我々男は見出すわけである。ポルノの話をしているのではない。高尚な文学と称されるものの中にも、いかに多くの「男に都合の良い女」が現れてきたことか。

当然、このような女を創出するのは男である。「男に都合の良い女」を意識的に描ける女性は、だから非常に頭が良い。しかし大体において、頭が良いゆえに、「現実にあるわけない」と男を糾弾、あるいは男に報復するというパターンに (それが潜在的な形であるにせよ) 至る場合が多い。我々男はその言葉を真摯に受け止めねばなるまいが、著者・若合春侑が「グレている」のは、そんなレベルを軽々と超えているからである。

うまくまとめられないのだが、とにかく恐ろしい小説であった。

2005/11/18/Fri.

島田荘司御大の御手洗もの。1999年、彼がスウェーデンはウプサラ大学の教授であった頃の話である。

話は、御手洗潔がイギリスの画家、ロドニー・ラーヒムと面談することから始まる。この画家は 35歳までを精神病院で過ごした経歴の持ち主だが、社会復帰した後、ある異様な才能に目覚める。彼は夢のような幻覚のような、宗教的法悦をともなうイメージを得ては、それをカンバスに描き出すという行為に没頭する。彼がものする絵は全て、ある寒村をモチーフにしており、しかも写真のような精密さを伴っていた。例えば、ある城郭を描いた 2枚の絵は、石組みの数から個々の石の具合まで完璧な整合性を保っている、という具合。

続いて、ロドニーの手記が紹介される。彼はユダヤ教徒であり、ゆえあってイスラエルから母とともにイギリスへ流れてきた。落ち着いたのはネス湖畔のティモシー村で、そこの風景が彼の画題でもある。ユダヤ教徒である彼らは、村で執拗な迫害に遭い、ロドニーは不幸な少年時代を過ごす。そんな彼が心の支えにしたのが、ユダヤ教の神ヤーハエである。自らをモーゼに擬したロドニーは、村の人々に復讐を誓う。

そして時間は現在に戻り、ティモシー村での事件が綴られる。狂言回しはアル中の詩人、バーニー。彼と、警察署長であるバグリーのユーモラスな掛け合いは、なかなかに楽しい。

事件は、村の空でオーロラが輝く夜に始まった。闇夜に魔神の咆哮としか思えない音が響き渡る中、巨大な力で引きちぎられた女性の死体が発見される。身体の各部はバラバラに遺棄されており、その意図は不明。しかも、この夜から連続で女性が犠牲になる。いずれも頭部や手足がもぎ取られ、厳重な警備をあざ笑うかのように飾り立てられ、捨てられる。被害者達をつなぐミッシング・リングは何か。魔神ヤーハエの仕業としか思えない怪事件に、スウェーデンから来ていた御手洗教授が捜査に加わる。

探偵と推理

御大、相変わらず健在、というところか。今回の容疑者はヤーハエというのだから、もう誰にも止められない。近年ますます軽くなってきた文体とともに、長い割にはサクサクと読める。

島田荘司の近作に共通する傾向だが、もはや御手洗は「推理」を諦めたようである。事件を細密に描き、探偵が緻密に思考を巡らすという、探偵小説のオタク的要素には全く無関心だ。凡愚共が「何だこれは。XX の仕業としか思えない」となったところで、まるで最初から全てを知っていたかのような御手洗が登場、ペロペロっとトリックを明かしてすぐに物語に戻る、という作品が多い。あらゆる可能性を検討して排除する、という回りくどいことはしない。そして誰も疑わない。

島田荘司は元来、緻密な推理を探偵小説の必要条件とは考えていない。彼が『本格ミステリー宣言』『本格ミステリー宣言 II』『本格ミステリー館』などで執拗に主張しているのは、「ミステリーに必要なのは、冒頭に現れる詩美性の高い謎、そして後段に至る論理的解決、その落差がもたらすカタルシス」である。したがって、ゴチャゴチャと繰り返される探偵の推理思考は、(彼の理論によれば) 必須ではない。むしろ最近の島田は、それは物語を妨げる夾雑物と考えているフシがある。したがって、謎は途方もなく大きくなり、一方で解決編はアッサリとし、1つの「物語」としての完結性を高めようとしているのではないか、という印象を俺は持っている。

島田荘司に関しては、いつかまとまった評論を書いてみたいと考えているが、困ったことに、彼はいまだに進化途上なんだよなあ。老いてますます盛んな御大に乾杯、いや、完敗か。どこまでも突っ走ってほしいものである。

2005/11/06/Sun.

今更、という感もあるが、ついつい買ってしまった。簡単に紹介する。

「新解さん」というのは、三省堂「新明解国語辞典」のことである。辞典・辞書というものは常に正しくあらねばならず、それゆえに文章も最大公約数的な、無難な、没個性の、要するに「守り」の姿勢を貫くのが普通である。そこを「攻めている」のが新明解、いや、新解さんなのだ。

新解さん

新明解国語辞典から、一つの例を引用する。

れんあい【恋愛】
特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。(新明解国語辞典)

試みに、他の辞書で「恋愛」の項目を引いてみる。

れんあい【恋愛】
男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい。(広辞苑)
れんあい【恋愛】
男女が恋い慕うこと。また、その感情。ラブ。(大辞林)

新明解の「濃さ」が一目瞭然である。が、「新解さん」の楽しみ方は、そのような点を突っ込むことではない。異様に過剰な言葉の説明を拾い集めていく内に、一つの人格というべきものが浮かび上がってくるのだ。それが「新解さん」なのである。そこには物語があり、思想があり、人生がある。それを楽しもうというのが本書の目的である。

「新解さん」は数年前にブームになって、類書も出ている。また、ネットで検索すれば、大量の「新解さん」関連ページがヒットする。興味のある方は参照されたい。良い暇潰しになると思う。

2005/11/05/Sat.

司馬遼太郎随筆集第12巻。1983年 6月から 1985年 1月までに発表された文章が収録されている。

俺が特に興味深く読んだのは、日本語 (を初めとする言語) に関する一連の考察である。これらは「司馬遼太郎全集」の月報として書かれた。『ホジェン族と熊野炭』『文章語の成立について』『捨てられかけた日本語』『文章における耳と目』『漱石など』『昭和三十年代の意味』『子規と蘆花、あるいは漱石』などである。

文章語とは何か

主題は、

私は昭和二十七、八年ごろ——筆者は文芸評論家だったろうか——ちかごろの作家の文体が似てきた、という意味の文章を書いているのを読んで、じつに面白かった。ただ、惜しいことに、筆者はそのことを老婆のように慨嘆しているだけだった。なぜ驚かないのか。

(『昭和三十年代の意味』)

という問題提起から始まる。司馬自身は「一つの社会が成熟するとともに、文章は社会に共有されるようになって、たがいに似通う」(『文章における耳と目』) と考えており、つまり「作家の文体が似てきた」ということは、昭和30年代になって、ようやく現代日本語が文章語として熟成してきた証拠、と好意的にとらえる。

「日常生活単語をあつめると、四百か、多くて六百ぐらい」(『ホジェン族と熊野炭』) という語彙数で、我々は生活しているし、してきた。したがって、語彙数が膨大になる原因は、抽象、修辞、計量などを人間が行うようになったからである。それらが必要となる最も身近な行為は「経済」である、と司馬は繰り返し説く。商品経済が我々の語彙数を飛躍的に増加させる。

木炭でさえあればいいというのは、粗放な経済社会である。備長炭ともなると、「物」から品質を抽出して考えねばならない。また、寸法をそろえねばならないから、「物」を計量的に考えるようになる。すべてが、いわば知的になってくる。(中略)

備長炭の仲買人にいたっては、たとえ口語でも文脈をととのえて文章的表現をせねば、取引上の齟齬をまねくために、論理を通し修辞を加えるといったふうで、言語生活上の緊張はきわめて高いものになった。

(『ホジェン族と熊野炭』)

したがって、商品経済が活発化する室町時代は、「日本的散文の共有性がはじめて確立する時代」(『文章語の成立について』) となる。その時期まで、日本語はまだまだ完成度が低かった。高級な、複雑な、抽象的なことは、ほとんど全てが漢文、つまり中国語で書かれていた。諸子百家の時代を遠い昔に経験していた大陸の言葉は、そのような事柄を十全に表現できるほどに成熟していたからである。

第一の成熟

さて、中世文章日本語の原型として、司馬は『平家物語』や『太平記』を挙げているが、これらは「語り物」であって、厳密な文章語とはいえない。が、あれだけの膨大な量を、たとえ口語にせよ表現できるだけの成熟が日本語にもたらされてはいたのである。

文章語成立のはしりとして、司馬は慈円の『愚管抄』を例に出す。

『愚管抄』は、(中略) 叙事要素が濃厚ながら一個の観念をくりかえし述べ、読者の知的な部分の反応を期待しているという点で、十三世紀の文章日本語の一祖型といっていい。

それだけに『愚管抄』の日本語は難解である。その理由は、いつに未熟にある。慈円の文章力が未熟なのではなく、その時代の社会が共有している文章日本語というものがないにひとしいため、大げさにいうと慈円みずからが文章としての言語を創始せねばならなかったのである。

(『文章語の成立について』)

そしてもう一つは道元の『正法眼蔵』である。

道元も、十三世紀の日本で、文章日本語を手作りした人である。その大著『正法眼蔵』は、当時の日本語で形而上的分野を表現しきった最初の巨大な文章遺産といっていいが、言いまわしで強引に手作りでやってのけたところがあり、(中略) 文章としては孤立しているといっていい。

(『文章語の成立について』)

つまり、まだまだ「共有」には至っていなかったのだ。それが日本の津々浦々まで浸透するのは、江戸期である。しかし、文章日本語の最初の成熟は、明治維新によって白紙に戻される。「それらの共有財産がいっさい使用不能の過去のものになってしまった」(『文章語の成立について』)。

現代文章語

明治維新を経て、日本語は生まれ変わる。だが、その誕生が心から祝われたかといえば難しい。森有礼が「日本は日本語を捨て、英語を国語とすべきだと思いつめ」たのは有名な話だ (『捨てられかけた日本語」)。

その一方で、徐々に学校というものが整備され始め、それまでは誰も意識していなかった「国語」という科目が創設される。そして西洋に刺激された作家たちが、新しい日本語で新しい小説を書き出そうとする。しかしそれは困難の連続であった。

国語科というものがはじめて設けられた。学校当局も何を教えていいかわからず、近所の神主をよんできて祝詞を教えさせたという。

(『捨てられかけた日本語」)

明治のある時期から、小説を書くひとびとが、あらためて文章をそれぞれの手作りで創りださざるをえなくなったとき、他に参考にすべき見本がなかった。

(『文章における耳と目』)

その中で現代日本語に通ずる完成度で文章を書き切ったのが、夏目漱石であり、森鴎外であり、正岡子規の散文であった。逆に、その文章語が共有されるまでに至らなかったのが、泉鏡花であり、徳富蘆花であると司馬はいう (『子規と蘆花、あるいは漱石』)。世俗の「文豪」としての評価が高いのは前者である。この評価は、恐らく彼らの文学性の高さだけにあるのではない。

明治期の文人達の努力から 100年、週刊誌の記事であろうが作家の文章であろうが、どれもこれも似通ってくるのが昭和 30年ということで、話は冒頭に戻る。司馬は、この現象を大いなる成熟として受け止めている。

これからの日本語

ところで、21世紀に生きる我々としては、ここでもう少し考察を先に進めなければならない。文章語の共有化の結果、「書く」ことの敷居が大幅に下がった。言い換えれば、「書ける」人が増えた。膨大な人間が、ネット上で書きまくっている。これはインターネットの簡便性だけではない、と俺は思う。明治期にネットがあったとして、これだけの数の日本人が「書ける」とは考えられない。

IT コンサルタントなどがよく行うアンケートで、「あなたは blog や日記をネット上で書いていますか」という質問がある。「書かない、書いていない」と答える人の理由の大半は、「書くことがない、書く自信がない」というものである。つまり、パソコンの操作が難しいとか以前に、「文章を書く」という心理的障壁が大きく立ちふさがっているわけだ。

インターネットがもたらす言語変化が、更なる日本語の共有化なのか、それとも新たな革命なのか、ネットの片隅で日記でも書きつつ、これからも眺めていきたい。