- Book Review 2005/12

2005/12/28/Wed.

司馬遼太郎随筆集第14巻。1987年 5月から 1990年 10月までに発表された文章が収録されている。

司馬遼太郎が大陸、それも蒙古や新疆といった周辺 (あくまで中華から見た周辺だが) や朝鮮、あるいは中国そのものに強い興味を持っていたことはよく知られている。彼らの風貌が特に鮮やかに浮かび上がるのは古代であり、その光芒が遥か日本列島に届いたことによって現在の我々がある。それが司馬の世界の一つの軸となっている。

大陸と日本の結びつけ方において、司馬の想像力には常に感心させられる。「大陸で鉄を作り過ぎたせいで渡来人が日本に来た」という説については、第9巻で紹介した。本書でも、例えば「華厳をめぐる話 (井上博道写真集『東大寺』)」で、タクラマカン砂漠で誕生した華厳経が日本に渡ってくるまでの風景が描かれる。もちろん証拠はない。しかし妥当性に富み、何よりもまずダイナミックである。

あれほどものを知った上で、なお妄想ができる。凄いと思うのだが。

2005/12/27/Tue.

養老孟司が、自身の専門とする解剖学について書いた初期の著作。「中高生向けに」という版元の要請があってか、文体は割合に平易であるが、あくまで相対的にいえばの話であって、やはり切り口は鋭い。

解剖とは何であるか、という話題から始まり、本邦および世界の解剖の歴史、死あるいは死体とは何か、生命の基本としての細胞、などなど、テーマは多岐に渡る。そこここで、後に発展する養老孟司の思想の芽が見られて興味深い。詳細な各論は後の著作に任せ、本書ではその原点をじっくりと読みたい。

2005/12/26/Mon.

ナンシー関のテレビ評論。文庫未収録のエッセイ集で、収録作の発表期間は 1989年 (!) から 2002年となっている。

驚くべきは、そのスタイルの完成度の高さだろう。時事ネタ、それもテレビの話題であるから、扱う題材は非常に短い間隔で目まぐるしく移り変わる。が、彼女の視点や文体は一貫してブレることがない。その善し悪しについてはともかく、仕事の質として、これは驚異的なことではないか。

であるからこそ、ともすればすぐに古くなってしまうこのようなエッセイが、今読み返しても面白いのである。当時のことを思い出しながら、笑って読める 1冊。

2005/12/25/Sun.

『エンパラ』とは、小説宝石に掲載されていた大沢在昌のインタビュー連載『エンタテインメント・パラダイス』の略である。副題に「旬な作家 15人の素顔に迫るトーク・バトル」とあるように、当時 (1995〜1996年)、話題の娯楽小説を上梓した作家を招き、大沢がホストとしてインタビューを行うという趣向である。その旬な作家らとは、

の面々。いずれも、前半で作品や仕事に触れ、後段で私生活などが話題になっている。共通する大きな主題の一つは「エンターテイメントとは何か」であって、いずれの対談においてもジャンル分類の無意味なこと、ひたすらに面白い小説こそを書くべきであること、読者もそれを望んでいるし、そのようなものしか見向きもしないこと、などが語られている。狭隘な議論は皆無で、読んでいて楽しいインタビューである。

2005/12/12/Mon.

ビートたけしと各界の「巨頭」との対談集。登場する巨頭らは、

の 10人。普段はインタビューされる側であることが多いビートたけしがインタビュアーに徹しているのが面白い。インタビューイに、たけしより年長の人間が多いことも特徴である。

金田正一との対談では、天然ボケの金田に対し、たけしの冷静な受け答えが爆笑を誘う。一方で、自衛隊の制服組トップである竹河内には、日本における核戦略を語らせたりと、その話芸はさすがである。相手も、「あのビートたけしが相手だから」という気分もあるのだろう。色々な逸話が垣間見える興味深い対談集。

2005/12/11/Sun.

司馬遼太郎随筆集第13巻。1985年 1月から 1987年 5月までに発表された文章が収録されている。

エッセイにしてはなかなかの分量であり、同時に、俺が興味深く読んだのは、「樹木と人」「浄土——日本的思想の鍵」「大阪の原型——日本におけるもっとも市民的な都市」などである。それぞれの内容については詳しく触れない。注目したいのは、これらの叙述方法である。

歴史の叙述

紀伝体や編年体を代表として、歴史には幾つかの記述の仕方があり、それらは常に検討されてきた。どのようにすれば歴史の実態を捉えられるのか。この難問への回答の数だけ、叙述の仕方があるといって良い。

それぞれに一長一短がある。例えば通史。巨細あまねく書くこの方法は、しかし全体像が把握しにくく、ときに複雑になり過ぎる。例えば分野史。政治史、社会史、外交史などといった縦割り型の記述であるが、それぞれが相互作用した結果が歴史であるだけに、視点が偏るきらいがある。例えば時代史。平安史、鎌倉史、江戸史という横割り型の方法論であるが、これも前時代の結果が新時代の原因となる歴史の記述方法としては不完全である。

上記に挙げた 3編は、この問題に対する 1つの回答であるように俺は思った。「樹木と人」では、木を通じて歴史を語っている。「浄土」では浄土宗、「大阪の原型」では大阪という節穴から歴史を覗いている。ある意味で分野史のようでもあるが、それよりも圧倒的にテーマが小さい。しかし、これらは分野史が矮小化されたものではない。専門家は、政治史ならば政治史しか扱わない。重要なのは、様々な題材から捉え直した略史を 1人の人間が書き、読者はそれらを重層的に読めることである。結果、立体的に歴史が浮かび上がる。

特定の視点から述べた歴史を、薄いレイヤーを重ねるようにして何層も何層も積み上げていく。重ねられ、厚みが出てきたセル画を上から見れば、そこには曼荼羅のような歴史が見えてくるのではないか。そんなことを考えた。

2005/12/10/Sat.

間羊太郎の名著、『ミステリ百科事典』に『ミステリ・ジョッキー』『妖怪学入門』を加えた完全版。本文中で取り上げられた作品の索引が巻末に付されている。間羊太郎は、あの SF作家、式貴志の別名であり、同時に熱心な探偵小説愛好者としても知られている。

ミステリ百科事典

『ミステリ百科事典』はその名の通り、「血」「猫」「氷」などといった、探偵小説でお馴染のモチーフを項目として掲げ、それぞれの細目で、博物学的知識、トリック、印象深いエピソードなどなどを、豊富な引用で縦横無尽に語っている。

マニアならニヤリとするような鋭い突っ込み、あるいは探偵小説の歴史的変遷、優れた読書ガイド、比較文学論として、色々な角度から楽しめる。一気に読んでも良いし、気になった項目を拾い読みしても良い。頁数は多いが、語り口は軽やかである。とにかく、著者の博識には舌を巻かざるを得ない。

ミステリ・ジョッキー

雑誌の廃刊とともに休筆となった『ミステリ百科事典』を追補する意味で、新たな雑誌に連載された分をまとめたもの。したがって、体裁は『ミステリ百科事典』と大差ない。ここでも、その知識が遺憾なく発揮されている。

妖怪学入門

間羊太郎の博識は探偵小説のみに留まらず、古今東西の怪異・妖怪・怪物にまで及んでいる。『妖怪学入門』で述べられるのは、河童や天狗といった一般的な日本の妖怪だけではない。龍や吸血鬼といった、神話的存在や、西洋の伝説をも対象としている。

古書古典からの引用も多く、文献学的な論が繰り広げられたかと思えば、極めて近代的な社会科学的アプローチも採られている。様々な伝承のあらすじも、できるだけ詳細に書かれており、それらを読むだけでも楽しい。

大部の文庫だが、極めて密度の高い 1冊である。

2005/12/09/Fri.

板垣恵介先生が武道界の「本物」と、言葉だけではなく、ときには拳まで交わした対談本。本書に登場する達人は、

の 4人。いずれも劣らぬ超人である。

最強は誰だ

武道界、格闘界において、「最強は誰だ」というのは非常な難問である。板垣先生もこの問題に捕らわれた 1人であり、本書もこの問い掛けから始まる。

ところで、武術、特に古武術の開祖なんかには、にわかには信じ難い武勇伝がつきものである。それを聞いて「スゲえ」と心酔するか、あるいは「ウソ臭え」と思うかは人それぞれだ。板垣先生は懐疑論者である。疑ってかかる。と同時に、伝説が本物であってほしいという気持ちもある。「本物を見たい、讚えたい、皆に知ってほしい」というのが彼の願いであり、本書が生まれた経緯である。

実際に対面し、あるいは技をかけられ、板垣先生の「最強」を求める旅は続く。真摯で熱い板垣先生と、一歩間違えばただのアブない人である達人との会話は、とにかく面白い。達人との写真や、板垣先生の画も豊富に掲載されている。

2005/12/03/Sat.

伝説的なジャーナリストにして風刺家、アンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) による辞典。原題は『The Devil's Dictionary』。

最近、立て続けに赤瀬川原平『新解さんの謎』夏石鈴子『新解さんの読み方』および『新解さんリターンズ』を読んだのだが、そのときにずっと思い浮かべていたのが本書である。『悪魔の辞典』は最初から風刺を目的とし、その語釈も皮肉と毒がふんだんに盛られているが、「独特の語釈」という意味では、『悪魔の辞典』も「新解さん」も変わらない。言葉を単一の説明で定義できない以上、ではどの辞書が有用か、というのは利用者の問題に過ぎないのではないか。

久し振りに『悪魔の辞典』をひもといてみた。数日前の日記に、「『詩』を定義しなければならないが、ちょっと手に余る」と書いたが、『悪魔の辞典』では、こうある。

POETRY, n.【詩】
「雑誌」のはるかかなたの「地方」にある特有の表現形式。

爆笑である。それは (少なくとも一片の) 真実であることからの笑いである。その点では「新解さん」と何ら変わらない。違うのは、それが筆者の意図したことかどうか、という点にある。

『悪魔の辞典』は読む人の模倣意欲を刺激するようで、多くの人が様々な分野で「XX版 悪魔の辞典」というものを作っている。俺も作ってみようかなあ。こんなのはどうだ。

【遺伝】
劣悪な形質が親から子に伝わること。優良な形質は、多くの場合その個体の認識において、後天的に獲得したとされる。

2005/12/02/Fri.

森巣博の長編。他の作品と同様、事実なのかフィクションなのかわからぬ文体で書かれている。主人公もいつも通り、作者と思しき「わたし」ことヒロシ。ヒロインは、彼が東京に戻った際に賭場で知り合った若い女性、舞ちゃん。

舞ちゃんは良家の娘で女子大生である。賭場で異様な勝負強さを発揮する彼女は、その瞬間、非常な美しさをもまた魅せる。これも、森巣博の小説で頻繁に登場する女性像である。彼女に興味を持ったヒロシは、彼女が若さ故に持つ「甘さ」を看破する。いくら自分では制御しているつもりでも、一度博打の深みにはまれば、後はズブズブと地獄に沈んでいくだけだ。しかし、彼女に博打をやめさせるわけではないところが面白い。

ヒロシのアドバイスもあり、賭博で大金を手にした 2人は、オーストラリアのカシノでの再開を約する。賭事を極めたい舞ちゃんを、ヒロシが本場でレクチャーするためだ。カシノに乗り込んだ 2人は、東京でボコボコに負かした男と再び出会う。双方のプライドと大金を賭けた、乾坤一擲の勝負が始まった……。

ハッキリいって、作者の他の小説とあらすじはよく似ている。それでも面白いのは、博打という世界自体がスリリングで刺激的であるからだろう。結局、小市民である我々はその深みにはまることはできない。ヒロシと舞ちゃんの活躍にスカッとできること請け合いの良作。