- 『司馬遼太郎が考えたこと 12』司馬遼太郎

2005/11/05/Sat.『司馬遼太郎が考えたこと 12』司馬遼太郎

司馬遼太郎随筆集第12巻。1983年 6月から 1985年 1月までに発表された文章が収録されている。

俺が特に興味深く読んだのは、日本語 (を初めとする言語) に関する一連の考察である。これらは「司馬遼太郎全集」の月報として書かれた。『ホジェン族と熊野炭』『文章語の成立について』『捨てられかけた日本語』『文章における耳と目』『漱石など』『昭和三十年代の意味』『子規と蘆花、あるいは漱石』などである。

文章語とは何か

主題は、

私は昭和二十七、八年ごろ——筆者は文芸評論家だったろうか——ちかごろの作家の文体が似てきた、という意味の文章を書いているのを読んで、じつに面白かった。ただ、惜しいことに、筆者はそのことを老婆のように慨嘆しているだけだった。なぜ驚かないのか。

(『昭和三十年代の意味』)

という問題提起から始まる。司馬自身は「一つの社会が成熟するとともに、文章は社会に共有されるようになって、たがいに似通う」(『文章における耳と目』) と考えており、つまり「作家の文体が似てきた」ということは、昭和30年代になって、ようやく現代日本語が文章語として熟成してきた証拠、と好意的にとらえる。

「日常生活単語をあつめると、四百か、多くて六百ぐらい」(『ホジェン族と熊野炭』) という語彙数で、我々は生活しているし、してきた。したがって、語彙数が膨大になる原因は、抽象、修辞、計量などを人間が行うようになったからである。それらが必要となる最も身近な行為は「経済」である、と司馬は繰り返し説く。商品経済が我々の語彙数を飛躍的に増加させる。

木炭でさえあればいいというのは、粗放な経済社会である。備長炭ともなると、「物」から品質を抽出して考えねばならない。また、寸法をそろえねばならないから、「物」を計量的に考えるようになる。すべてが、いわば知的になってくる。(中略)

備長炭の仲買人にいたっては、たとえ口語でも文脈をととのえて文章的表現をせねば、取引上の齟齬をまねくために、論理を通し修辞を加えるといったふうで、言語生活上の緊張はきわめて高いものになった。

(『ホジェン族と熊野炭』)

したがって、商品経済が活発化する室町時代は、「日本的散文の共有性がはじめて確立する時代」(『文章語の成立について』) となる。その時期まで、日本語はまだまだ完成度が低かった。高級な、複雑な、抽象的なことは、ほとんど全てが漢文、つまり中国語で書かれていた。諸子百家の時代を遠い昔に経験していた大陸の言葉は、そのような事柄を十全に表現できるほどに成熟していたからである。

第一の成熟

さて、中世文章日本語の原型として、司馬は『平家物語』や『太平記』を挙げているが、これらは「語り物」であって、厳密な文章語とはいえない。が、あれだけの膨大な量を、たとえ口語にせよ表現できるだけの成熟が日本語にもたらされてはいたのである。

文章語成立のはしりとして、司馬は慈円の『愚管抄』を例に出す。

『愚管抄』は、(中略) 叙事要素が濃厚ながら一個の観念をくりかえし述べ、読者の知的な部分の反応を期待しているという点で、十三世紀の文章日本語の一祖型といっていい。

それだけに『愚管抄』の日本語は難解である。その理由は、いつに未熟にある。慈円の文章力が未熟なのではなく、その時代の社会が共有している文章日本語というものがないにひとしいため、大げさにいうと慈円みずからが文章としての言語を創始せねばならなかったのである。

(『文章語の成立について』)

そしてもう一つは道元の『正法眼蔵』である。

道元も、十三世紀の日本で、文章日本語を手作りした人である。その大著『正法眼蔵』は、当時の日本語で形而上的分野を表現しきった最初の巨大な文章遺産といっていいが、言いまわしで強引に手作りでやってのけたところがあり、(中略) 文章としては孤立しているといっていい。

(『文章語の成立について』)

つまり、まだまだ「共有」には至っていなかったのだ。それが日本の津々浦々まで浸透するのは、江戸期である。しかし、文章日本語の最初の成熟は、明治維新によって白紙に戻される。「それらの共有財産がいっさい使用不能の過去のものになってしまった」(『文章語の成立について』)。

現代文章語

明治維新を経て、日本語は生まれ変わる。だが、その誕生が心から祝われたかといえば難しい。森有礼が「日本は日本語を捨て、英語を国語とすべきだと思いつめ」たのは有名な話だ (『捨てられかけた日本語」)。

その一方で、徐々に学校というものが整備され始め、それまでは誰も意識していなかった「国語」という科目が創設される。そして西洋に刺激された作家たちが、新しい日本語で新しい小説を書き出そうとする。しかしそれは困難の連続であった。

国語科というものがはじめて設けられた。学校当局も何を教えていいかわからず、近所の神主をよんできて祝詞を教えさせたという。

(『捨てられかけた日本語」)

明治のある時期から、小説を書くひとびとが、あらためて文章をそれぞれの手作りで創りださざるをえなくなったとき、他に参考にすべき見本がなかった。

(『文章における耳と目』)

その中で現代日本語に通ずる完成度で文章を書き切ったのが、夏目漱石であり、森鴎外であり、正岡子規の散文であった。逆に、その文章語が共有されるまでに至らなかったのが、泉鏡花であり、徳富蘆花であると司馬はいう (『子規と蘆花、あるいは漱石』)。世俗の「文豪」としての評価が高いのは前者である。この評価は、恐らく彼らの文学性の高さだけにあるのではない。

明治期の文人達の努力から 100年、週刊誌の記事であろうが作家の文章であろうが、どれもこれも似通ってくるのが昭和 30年ということで、話は冒頭に戻る。司馬は、この現象を大いなる成熟として受け止めている。

これからの日本語

ところで、21世紀に生きる我々としては、ここでもう少し考察を先に進めなければならない。文章語の共有化の結果、「書く」ことの敷居が大幅に下がった。言い換えれば、「書ける」人が増えた。膨大な人間が、ネット上で書きまくっている。これはインターネットの簡便性だけではない、と俺は思う。明治期にネットがあったとして、これだけの数の日本人が「書ける」とは考えられない。

IT コンサルタントなどがよく行うアンケートで、「あなたは blog や日記をネット上で書いていますか」という質問がある。「書かない、書いていない」と答える人の理由の大半は、「書くことがない、書く自信がない」というものである。つまり、パソコンの操作が難しいとか以前に、「文章を書く」という心理的障壁が大きく立ちふさがっているわけだ。

インターネットがもたらす言語変化が、更なる日本語の共有化なのか、それとも新たな革命なのか、ネットの片隅で日記でも書きつつ、これからも眺めていきたい。