- 思想と肉体

2013/12/29/Sun.思想と肉体

思想は形而上的なものとされるが、その思想を抱くのは私というヒト、否応もなく形而下的な生物である。私に言わせれば、そもそも形而下的であるというのは生物的であるということと同値である。したがって思想で着目するべきは、その形而上的な内容と形而下的な事由との接続である。なぜ、生物である我々は一見して非生物的である思想(捨身飼虎など)さえ持ち得るのか。

「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言葉は様々な批判を呼ぶが、それは「健全」の定義が曖昧だからである。この言説が指摘しているのは、思想は肉体に依存するという事実に他ならない。ダンゴムシが思想を持たないのは、彼らにそれを許す身体能力がないという、ただそれだけの理由に拠る。

菜食思想というものがある。肉食は健康に悪いから、あるいは肉食は動物の命を奪うから肉は食べない、植物だけを摂るべきという思想である。この思想を信奉すること自体は簡単である。しかし「私は菜食思想を支持します」と言って肉を食べるのは許されない。菜食思想を抱いた者は菜食を実行する菜食主義者であらねばならない。言行一致が求められる。これは思想と肉体の合一でもある。マッチョイズムの信奉者となった者はまず筋力トレーニングをして己の肉体を改造する。痩せこけた者が「男はやはり肉体である」と主張しても構わないのだが、なぜかそうはならない。三島由紀夫ほどの知性をもってしてもそうであった。

思想が肉体に隷属するのか、思想が肉体を導くのかは重大な問題ではない。重要なのは両者が不可分だということである。私の外部に何か素晴らしい思想が存在するわけではない。私は私が理解できる思想しか理解しないし、私の肉体が許す思想しか受容しない。思想や宗教の弾圧が苛烈な拷問や処刑を伴うという歴史は、思想の肉体依存性をよく物語っている。