- 競争の仕方

2013/12/03/Tue.競争の仕方

滞米中の私の最大の目標は日本の研究機関で PI の地位を得ることである。近年、文部科学省はテニュアトラック制度を推進しており、この欲求が比較的公正な公募によって達成できる環境が整いつつある(と希望的に観測される)。これに限らず、募集はいつも多数ある。

公募に限らず研究費申請や論文投稿でも同じことだが、これらは競争であって当て物ではない。多少の不確定要素があるとはいえ、巨視的には採択されるべき者が採択されるべくして採択される。巷間にいう競争倍率などは考慮に値しない。応募者の大半は有象無象の輩であり、最終選考の倍率は必ず二倍から数倍に収斂する。事前審査・書類選考には合格して当たり前、これが求められる最低限の水準といえる。でなければ採択経験者の勝率が説明できぬ。もっとも、最終的には実力勝負である。もちろん運も絡む。しかし天命を待つにはまず人事を尽くさねばならぬ。

ここで特に重要と思うのは、業績を積み上げ実力を蓄えるだけではなく、それらを正確に伝達する能力を涵養し資料を作成することが不可欠だという事実である。口演は練習するたびに上手くなるし、文章は書き直すたびに読み良くなる。これは、実験は繰り返すほど精度が増すのと本質的に同じことであり、今後の経歴を考えれば実験に等しい労力を割く価値がある。

手前の論文や研究なぞ誰も興味を持ってはいない、まずはこの現実を認識すべきである。貴方は隣の研究室の活動に関心があるだろうか、彼らの話を聞くほど時間に余裕があるだろうか。そんなものはどこにもない。そのような中で我々は、「研究がしたいので給料と研究費と人手と場所と時間と支援をくれ」と自信満々の体で要求しなければならぬ。無茶苦茶である。しかしこの無理を通さねばならない。

ところで、競争社会は有能な人間に有利であり無能な連中に不利である。したがって自分が優秀であることを求められる世界に身を置くなら、無条件で競争を歓迎しなければならない。これは非常に辛いことである。また、このような路を進むには前提として常に公正な競争の実施が求められるが、日本の社会にそれを期待することはできない。競争に曝されず分不相応な利益を甘受している蛆虫のような連中の存在が我々の苦悩をさらに根深くする。雑念を振り払い清々しい気分で己のするべき事柄に集中するのは生半のことではない。ここまで私が述べたことは全て綺麗事である。

実は——、このような世相や個人の心理までをも含めて競争というゲームが成り立っている。この理解を得るには少々の観察が要る。これは達観ではない。私の理解では、達観とは解釈の抛棄である。研究者であるなら、観察した事実をどうにか解釈せねばならぬ。