- 富と時間

2013/12/15/Sun.富と時間

経済学によれば富の本源は労働であるという。そして私が思うに、労働力の原資は時間である。教育や機械化によって単位時間あたりの労働量は増大したが、労働時間は大きく減ってはいない。過労死の裁判で争われるのも、もっぱら労働時間についてである。

時間は蓄積できない。今日は暇だから一日を十二時間にして、明日は忙しいから一日を三十六時間にしよう。そんなことはできない。また、私の五分を他者に譲渡したり、他者の五分と交換することもできない。しかるに富は蓄積や交換が可能である。労働とは、蓄積不可な時間というものを、蓄積可能な富に変換する行為と言えなくもない。これが、我々が決して労働時間を大幅に削減しない一因ではないか。

何のために我々は富を蓄積するのか。富を持つ者は生存に有利であるという生物学的な議論を展開することはできる。しかし百人分の食料を購入したところで食べ切れるわけがないのである。富の蓄積・交換の可能性はそれよりも遙かに大きい。

例えば、一時間働いて給料を貰う。そして翌日、その賃金でタクシーに乗り、移動時間を一時間短縮する。ここで行われているのは、前日と翌日の一時間の疑似的な交換である。富を媒介することで、時間は蓄積・交換可能になる。労働時間=交換可能な時間と考えれば、我々が労働時間を極端に減らそうとしない理由がわかる。

この観点から、低賃金労働者、高給取り、生まれながらの大富豪が持つ時間概念を考察すると面白いかもしれない。また、共産主義社会における時間についても調べてみるべきだろう。