- Diary 2013/11

2013/11/11/Mon.

手元に蔵書がないので記憶を頼りに書く。司馬遼太郎が紹介していた逸話である。

明治期の工学者・古市公威こういは、国費でフランスに留学した。あまりにも熱心に勉強ばかりする公威を心配した下宿の女将が休養を勧めると、彼は「私が一日休むと日本が一日遅れる」と答えたという。

米国に来てから、この話をたびたび思い出す。もっとも、今と昔では状況が異なる。そして私は公威ではない。私は私がしたい研究をしているだけであり、日本のために学問をしているのではない。公威は日本の近代化に必要とされた人物であったろうが、私が消えたところで誰も困らない。にも関わらず公威のことが思い起こされるのは、彼の心情について考えるところがあるからである。恐らく彼は、我慢に我慢を重ねて勉強をしていたわけではない。単に休む気になれなかった、無為に休息することのほうが苦痛であっただけだと思われる。司馬が述べていたほどの悲愴感はなかったのではないか。

以下は現在の私の生活と心情である。

渡米以来、自宅と研究室を毎日往復している。観光したい遊びたい買物をしたいという欲求は今のところ絶無である。理由は幾つかある。まず米国如何を問わず、そもそも私はその種の行為に関心が薄い。次に、米国の物品やコンテンツやサービスは日本のそれらと比べて質で劣ることが多く、時間と金銭を消費してまで行きたいところ食べたいもの購入したいものがないことが挙げられる。本当に欲しいと思える米国のモノはアップル製品くらいしか思い付かない(そしてそれは日本でも容易に入手できる)。

無論、米国にも数多くの美点がある。そして実は、その最良の部分を体現しているのが大学なのである。それは多人種・多文化であり、効率的なシステムと制度であり、学問や芸術に対する理解と援助であり、自由で論理的な価値観である。これらは一般社会においてしばしば弊害をもたらす。すなわち人種差別・文化摩擦であり、複雑怪奇な事務と契約であり、似非科学の蔓延と商業的な汚染であり、社会的な無秩序に対する過剰な裁判である。しかし大学では、これらの不利益が可能な限り廃され、利益のみが享受できるよう運営されている。少なくとも私にとって、米国の大学は米国で最も感動できる場所なのである。

その他の理由はもっと卑近なものである。留学している日本人研究者の大半は将来帰国したいと考えている。日本に帰るには職(理想的には独立した PI のポジション)を得ねばならない。そのためには業績が必要である。帰りたいなら働くしかないという実情がある。彼は帰国する際、「もっと米国で遊んでおけば良かった」と後悔するかもしれない。しかしそれは、職が見付からなかった場合の、「もっと米国で働いておけば良かった」という悔恨に比べれば大したものではない。

というわけで——、私は緊張感とともに最優先するべき研究を、満足感とともに最高の環境で行っている。他のことをしたいとは露とも思わない。私の欲求は充足されているので、たまに心配されたりすると驚いてしまう。

俺はやりたいことだけをやっている、とても happy だ。同僚にはそう答えている。全き真実である。

2013/11/10/Sun.

ゲーム理論の主題の一つは、どのように行動すれば勝利する確率が最も高くなるのか、あるいは全員が勝利を目指した戦略を採ったときにどのような事態が出現するのか、というすこぶる実用的な設問に回答することである。

勝利とは何か。勝利条件を満たすことである。勝利ないし敗北条件は各ゲームで恣意的に設定される。だから論理的な定義は存在しない。これは意外と奇妙なことである。

一般的に、勝利は敗北より困難である。むしろ、困難の克服を勝利と呼んだのが時間的には先であろう。困難な条件を満たしたからこそ、勝者には栄光ないし報酬が与えられる。そしてこれこそが敗北ではなく勝利を指向する最大の理由となる。

「困難」の概念を確率的に定式化するのは容易である。サイコロの目を当てるという単純なゲームを考えよう。目が当たる確率は六分の一、外れる確率は六分の五である。前者のほうが確率が低い、すなわち条件を満たすのがより「困難」である。したがって「目が当たれば勝利、外れれば敗北」という条件を数学的に説明することが可能である。

「困難」の概念は、しかし対人ゲームにおいてより複雑な様相を帯びる。相手を殴って倒すというボクシングのようなゲームを考えよう。常識的に考えて、相手を倒すほうが自分が倒されるよりも困難である。そこで「相手を倒せば勝利、自分が倒されれば敗北」という条件が設定される。だがよく考えると、相手を倒すのが困難なのは、どちらも相手を殴ろうとしているからであり、なぜそうするのかといえば相手を倒せば勝利とされているからだということに気付く。逆に「相手を倒せば敗北、自分が倒されれば勝利」という条件であればどうなるだろう。両者が勝利を目指した場合、どちらも相手を殴らなくなるに違いない。このような状況で相手を殴ってみたら何が起こるか。相手は勝利のために喜んで倒れるだろう。すなわち、相手を倒すほうが自分が倒されるよりも容易となる。難度が逆になるのである。

つまり「困難」を定義するにはあらかじめ勝利条件が明らかにされなければならない。しかし最初の仮説では、勝利条件は「困難」の度合いによって設定されるはずだから、これは矛盾である。

上で私は「常識的に考えて、相手を倒すほうが自分が倒されるよりも困難である」と述べた。この言明は直感的に正しいと思われる。このような「常識」「直感」は何に由来するのだろう。私はそれを生物としての本能だと考える。自分が倒されるより相手を倒すほうが、自己の生存や繁殖に繋がる可能性が高まる。だから我々は互いに相手を倒そうとし、それによって相手を倒すことが「困難」となり、結果として相手を倒すことが「勝利」と見做みなされる。

より速くより高くより遠くを実現する身体能力が讃えられるのは、肉体が優れているものほど生き延びる確率が高いと無意識に判断されるからである。ビューティーコンテストで美人が優勝するのは、美しいものほど自己の遺伝子を残せる機会に恵まれると本能的に知っているからである。私が仮想的に設定した「相手を倒せば敗北、自分が倒されれば勝利」という条件は生物的な原理に反している。だからゲームにおいてこのような条件が設定されることはない。全てのゲームは生存競争の代替行為であると考えれば、「勝利」を生物学的に記述することができる。

もっとも、ヒトの生存競争は単純ではない。故意に負けることで八百長の報酬が見込めるのなら、人間は自ら敗北を選ぶこともできる。この種の選択は言語によって初めて可能となる。ゲーム理論が対象とするのはまさにこのような言語的・論理的なゲームであるが、その勝利条件はあくまで生物学的な制約に基づいている。この点が実に面白いのだが、ゲーム理論の書籍で触れられることはない。唐突にゲームが提示され、さあ戦略を考えましょうとなる。我々は、そもそもなぜそのようなゲームが成立し得るのかをまず問うべきであろう。

この疑問はときに、成立していないゲームへの参加を拒否しても構わないという選択肢を教えてくれる。例えば日本では、「毎日深夜まで働くか、解雇されるかを選べ」というゲームを提示されることがある。ここで重要なのは、どちらが自分の生存に有利かを考えることではなく、そのゲームが成立していない(私の生存戦略に則していない)と看破することである。

ゲーム理論では、全てのプレイヤーが無条件でゲームに参加し、ルールを遵守する。しかし現実は異なる。我々はゲームを降りたり、ルールを変更したり、自分で新たなゲームを作ることができる。そしてそのときにこそゲーム理論が役に立つ。ゲームでは、ゲームマスターが最も強く、胴元が一番儲かる。いつまでも諾々とプレイヤーに甘んじていては、それこそゲームの中の住人でしかない。

2013/11/09/Sat.

ワーク・ライフ・バランスという概念を考える上で肝要なのは、バランスは各人によって異なるということである。やりたくない仕事に長時間従事させられるのが苦痛であるのと同様に、やりたい仕事があるのに短時間で帰宅を強いられるのもまた苦痛である。したがって「当社は従業員のワーク・ライフ・バランスを考えて○曜日は早退日としています」という画一的な制度は矛盾している。ワーク・ライフ・バランスというカタカナからわかるように、そもそも日本にこの種の思想はない。理念なき実装が奇妙な結果を産むのは必然である。もっというなら、なぜワーク・ライフ・バランスであってライフ・ワーク・バランスではないのかと疑うこともできる。答えが存在しなくとも、我々は常に問える。些細な点に一々疑問を持つことが自由な人生に直結すると私は考える。

気分転換をしてストレスを発散する、というのも半ば自動化された言説である。ストレスが蓄積されている状況で転換するべきは、己の気分ではなくストレスを与えてくる環境のほうである。ストレスについて学ぶべきは、その発散方法という世俗的知識ではなく、ストレスは解消し除去すべきものだという原則のほうである。この基本的態度を全うするには各々の立場に応じた自由で柔軟な対処が要求される。気分転換で発散されるストレスは、気分転換で再び溜まるのである。しょせんは自身に対する詐欺でしかない。自分を騙しているうちは自由に生きているとは言えまい。