- 切腹列伝

2008/10/04/Sat.切腹列伝

今夜もシチューを作った T です。こんばんは。

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ペダルを漕ぎながら読書。尻が痛くなってきたので、45分程で終了。

切腹列伝

切腹は、自死の中でも最高度の勇気と苦痛を伴うものだと思われる。余程のことがないとできない。したがって、「思想だけで腹が切れるものだろうか」という疑問が湧く。

「切腹列伝」というものを作ってみたら面白いかもしれない——。松本清張『昭和史発掘 5』を読みながら、そんなことを考えた。はたして、この本にも幾つかの自殺が登場する。

一人は山田長三郎帝国陸軍兵務課長である。彼は相沢事件 (軍務局長永田鉄山少将が、皇道派の相沢三郎中佐に殺害された事件) の後に自刃する。事件当時、山田はまさに永田の部屋に居た。

正面に坐って二人と話していた永田は、入口から軍刀を抜いて入ってきた相沢を見ると、椅子からすっくと起ち上がった。永田は難を避けるように二人の将校 (T 註、前記山田と新見英夫東京憲兵隊長) のほうへ寄った。

ところがその相沢に気付かなかったのかどうか、山田兵務課長はさっさとその部屋を出て行ってしまった。つまり、相沢が抜刀して闖入したのと入れ違いに退室したのである。当然にあとで大問題となった。山田は上官の危機を見捨てて卑怯にも逃げたと非難された。のち山田は自刃する。

(松本清張『昭和史発掘 5』「相沢事件」)

この本には「自刃」としか書いていないが、調べてみると、軍刀で頚動脈を切ったものらしい。切腹ではない。

もう一人は帝国海軍軍令部参謀、草刈英治少佐である。ワシントンおよびロンドン海軍軍縮条約によって、帝国海軍の艦船保有量は米英の 7割とすることが決められた。ロンドン条約を受け容れた首席全権は若槻礼次郎であるが、海軍大臣財部彪 (たからべ・たけし) も全権として参加していた。大臣は軍政の長であるから当然である。

草刈少佐の所属する軍令部 (陸軍の参謀本部に当たる) はロンドン条約の締結に絶対反対であった。軍政が軍令に上位するのがシビリアン・コントロールだが、この当時の日本にそんなものはない (そも大臣からして軍人なのだ)。帝国軍では軍政と軍令が並立しておるような状態で、大臣と参謀総長も同格であるとされていた。

大日本帝国憲法では、軍令は陸海軍の大元帥、つまり「軍人としての」天皇が統帥するところであると解釈されており、これを天皇の統帥権という。軍政が軍令に介入したり、軍令の意向を無視したりすると、それは「統帥権干犯」として非難される。これは最大級の罪であるとされた。司馬遼太郎はこのことを指して「鬼胎」と呼んだ (『この国のかたち 一』「"雑貨屋" の帝国主義」)。

一方、軍政を担当する軍部大臣は「国家元首としての」天皇から親任され、これを輔弼する。だから、別に軍政が軍令より下というわけでは決してない。軍政と軍令のこの関係は、大日本帝国憲法における天皇の鵺的な性格を反映している (美濃部達吉の天皇機関説問題もこれと多いに関係する)。

話が逸れた。とにかく、ロンドン条約反対派の軍令部・草刈少佐は、条約内容を呑んだ財部海軍大臣を暗殺しようと考えた。ところがである。

軍令部参謀の草刈英治少佐は帰国した財部全権を統帥権干犯で暗殺するつもりだったが、自分が海軍大臣を暗殺することも「統帥権干犯」になるのではないかと悩んで決行ができず、東海道線の寝台車の中で自刃した。

(松本清張『昭和史発掘 5』「軍閥の暗闘」)

上記山田長三郎の自死もそうであるが、淡々と書いてあるその最後で唐突に自刃するから、読んでいるこちらは驚いてしまう。

清張はやはり詳細を書いていないが、草刈少佐の自刃は「割腹自殺」、つまり切腹であったらしい。統帥権の論理的解釈に悩んだ揚げ句に電車内で腹を切るというのはどういうことなのだろう。やはり理解に苦しむ。

いや、理解に苦しむからこそ、切腹の事例を集めようかなと思ったわけだけれども。