- 閑話遊題

2008/10/05/Sun.閑話遊題

最近は昭和史に興味を持っている T です。こんばんは。

「連合艦隊」とは何と何の連合なのだろう。疑問である。満州の軍隊はなぜ「関東軍」なのか。陸軍が参謀本部で海軍が軍令部であるのは何故か。これらもわからない。時代の大筋を追うのに必要な知識ではないから、いまだ調べておらぬ。どちらかといえばマニアックな情報ではあるだろう。けれども、帝国軍のことを本当に理解しようと思えば、こういう一々を知っていかねばならんのだろうなァ、とも思う。

以上はあくまで例である。何も歴史に限った話ではない。

研究日記

やれやれ。

午前中に培養細胞のメンテナンス。雨が降っていたので、運動や外出は諦め、職場でプリント・アウトした論文を家に持ち帰り、10本程を精読。ふと思うのだが、学部生の頃に比べて、随分と読むのが早くなったものだ。当時のあの苦吟は何だったのだろう。

Reject された論文の書き直し。来週末からボスが出張なので、それまでには submit したいが、どうしてもやりたい追加実験があるので、再来週に持ち越しかもしれぬ。

閑話遊題

話が本線から逸脱すると、「閑話休題」などといって仕切り直したりするわけだが、休題しないでくれ!と頼みたくなるような面白いエピソードも多い。

ある逸話が「閑話である/ない」という判断は、あくまで相対的なものである。その文章が目的とするところの主題と関係があれば本筋、関係が閾値以下であれば閑話と見做される。閑話論とはすなわち主題との関係性に他ならない。逆にいうなら、主題がない文章とはこれすなわち全て閑話である。そういう話が好きだ。夏目漱石『吾輩は猫である』はその最たるもので、あれは閑話も閑話、大閑話である。あんな与太話を、「我が国最高の文学者の代表作」などという風に学校で教えるのはよろしくない。

閑話休題。

というのは冗談で、まァそのような、与太話の連続体みたいなものを書けないかと以前から考えている。肝心なのは、閑話でありながら連続していることで、単なる雑学の寄せ集めではダメである。あくまで一つの「話」であること、しかしながら特に主題があるわけではないこと、これが望ましい。閑話が巡り巡って、派生元の話題に戻ってくる、あるいは閑話で展開される議論が堂々巡りになる、時間軸を遡ってしまう、立場が逆になってしまう、などといった構成を (図らずも) 呈したりすれば面白そうだ。徳川家康の話をしていたのだが、その来歴の紹介をしている内に、いつの間にか新田義貞の話になってしまっている。単純な例だが、イメージとしてはこういう感じである。

閑話から閑話への変調は計算によってではなく、作者の気分次第である方が愉快だろう。各閑話の内容の精密さ、文章量などが、作者の興味をダイレクトに反映しているわけである。雑学的な興味を除けば、これが一等の興趣になるだろうか。