- 帯に短し襷に長し、けれども襟巻きには良いかもしれない

2008/04/06/Sun.帯に短し襷に長し、けれども襟巻きには良いかもしれない

桜を眺めてきた T です。こんばんは。

ゲーム日記

この週末は MHP2G をやり込んでいる。ゲームは真剣にやるべきだが、必死になってはいけない。ところで、普段ゲームをやらない人の方がゲームに対して必死であるのは面白い現象だ。

俺は MHF・MHP2・MHP2G と女キャラでプレイしているが、いまだに「プレイヤーが男ならキャラクターも男に設定するべき」という意見を見かけて滑稽な気分になる。ゲームのキャラクターはプレイヤーの自己像の投影であるべき (そしてゲームとはそういうものだ) という考え方はむしろかなり幼稚であり、「ゲームと現実の区別を付けるべき」という愚かな主張とも整合性が取れていない。あまりに白痴的だ。

もちろん、自我をキャラクターに投影することを否定しているわけではない。RPG の原典はそこにある。しかしこれは、一部の私小説においては「私 = 作家」であるのと同じことで、「そういうジャンル」というだけの話に過ぎない。全ての小説で「私 = 作家」であるべき、と言ったらどうなるか。それこそ知性が疑われる。

少し話は逸れるが、ゲームの裏側にプログラムを感じ取れるかどうかでその受容の仕方が変わってくるんじゃないか、ということに最近気付いた。音楽を聴いて楽譜が思い浮かんだり演奏を想像できたりするようになると、その音楽に対する評価が変化するのと同じ。ゲームをプログラムと見れるかどうか、変数とアルゴリズムからなる系として実感できるかどうか。これはかなり大きいと思うんだよね。

例えば生物を分子機械として認識できるかどうか、遺伝を情報の伝達として理解できるかどうか、生命現象を化学反応として把握できるかどうか。頭で理解するだけではなく、実感として手に触れるように想起できるようになると、随分と生命観が変わってくる。もちろん、その見方が「正しい」と言っているわけではない。ただ、系に対する認識が異なると、全く別の景色が見えてくるということは再確認しておきたい。