- 『茂木健一郎の脳科学講義』茂木健一郎

2008/10/17/Fri.『茂木健一郎の脳科学講義』茂木健一郎

歌田明弘が聞き手となって茂木健一郎が脳科学を語る——というスタイルになっているが、歌田は空気的な相槌を打つだけなので、ほとんどが茂木の語りである。読みやすいといえば読みやすい。

誰であったか、「茂木は脳科学者ではなく、脳科学のエヴァンジェリストである」と書いていたのを読んだことがある。随分と以前のことなので、ちょっと原典が思い出せないが、妙に納得した記憶がある。

茂木がクオリアを語るとき、俺はいつも小さな不審を覚える。彼が例に出すクオリアのイメージは、なぜいつも美的なものであるのか。これは非常に恣意的な行為ではないのか。

例えば、本書の「はじめに」で例出されるクオリアは、「チョコレートを舌に載せたときのまろやかな甘さ」「バターをつけたトーストを噛みしめたときのさくさくとした感覚」「はじめて訪れたレストランのドアを開けるときのなんとも言えないわくわくした感じ」「もう何年も会っていない友人のことを思い出すときにこみあげるなつかしさ」などなどなど、全部「美しい」クオリアなんだよね。

「電車で隣に座ったオッサンの強烈な体臭」「黒板を爪で引っ掻いたときに出る音」「アホがいちびっているときに感じる憎悪」などもクオリアであるはずなのだが、茂木はそういう不快な例を一切出さない。これって誘導じゃないの? といつも思う。

「脳のなかに棲む小さな神」

上の見出しは巻末に収録された「特別講義」(茂木の書き下ろし) のタイトルである。

クオリアは複合的な観念である。例えば、「赤いつやつやとしたリンゴ」を見たときに感じるクオリア、これがどのように感得されるのか。これはクオリアに関する最も難しい問題である。

「赤いつやつやとしたリンゴ」を見たとき、網膜から入った刺激によって、「赤」を感じるニューロン群、「つやつやとした」質感を捉えるニューロン群、「リンゴ」という形状を把握するニューロン群がそれぞれ発火する。この様子は MRI などで見ることもできる。では、これらのニューロン群の発火を「赤いつやつやとしたリンゴ」という概念として統合し、その独特のクオリアを感じる仕組みは何か。

脳の各部位を統合する、一段とメタなレイヤー、すなわち「脳のなかに棲む小さな神」(ホムンクルス) を仮定すればこの問題は上手く解決するとはいうものの、その機構は現状では未知である。

さて、以下は俺の疑問である。

例えば「カレーの香ばしい匂い」というクオリアがある。普段それは、「旨そう」「カレー食いたくなってきた」という反応を引き起こす。しかしたまたまヘビーな食事を済ませた後では、「おえッ」「カレー臭い」という反応を引き起こす。この場合、どういう解釈をすれば良いのか。

「カレーの香ばしい匂い」というクオリアは、化学物質が嗅覚細胞の受容体に結合することで引き起こされる。したがって、「カレーの香ばしい匂い」というクオリアの質は常に同じ (静的) であると解釈し、それに対する反応はホムンクルスが (動的に) 決定すると考えるのか。あるいは、「空腹時に嗅ぐカレーの香ばしい匂い」と「満腹時に嗅ぐカレーの香ばしい匂い」は、全く異なる (動的な) クオリアであり、それらに対するそれぞれの反応は「当然の結果」(静的) と考えるのか。これがよくわからない。

(茂木がこの問題を指摘しないのは、彼が例に出すクオリアがいつも「美的」であり、反応が「快」に限られるからではないだろうか、という疑念が俺にはある。彼の「素晴らしいクオリア」という前提は、いささか単純に過ぎはしまいか)

この問題を解決するには、クオリアを感じた瞬間のシナプスの結合状態や脳内化学物質の分泌状況をモニターする必要があると思われるが、現実的に不可能である。

静的なクオリアの感受に対して反応が動的に生起されるのか、それとも、クオリアの感じ方が動的であり反応は機械論的に発生するのか (あるいはまた全く別のモデルであるのか)。以上、本書を読んで抱いた俺の疑問を書いて、感想に代えておく。