- 病気と目的

2011/02/24/Thu.病気と目的

明日から学会なので次の更新は月曜以降となる。

リチャード・P・ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』を読んで大変感銘を受けた。が、詳細を記すのは億劫なので省略する。

以前からぼんやりと、「病気の生物学」ということを考えているのだが、どうにもとりとめがない。以下はメモのようなものである。

例えば心臓の代償性肥大という現象がある。色々の理由で心臓に負荷がかかると、心筋細胞は自ら肥大して心臓の収縮能を高めよう=代償しようとする。しかしこの肥大は心筋細胞にとって負担であるから、最終的には破綻して心不全に陥る。これは何なのか。

ここで一つ気になるのは、「代償しよう」という意思の主体はどこに存在するのか、ということである。心臓に負荷がかかったときのための代償プログラムが、あらかじめ DNA に書き込まれているのだろうか? それともこれは、異常な入力に対する異常な出力という、それ自体は「正常な」反応であるに過ぎない(そもそも代償でも何でもない)のだろうか?

(下線部をもっと明確に表現できれば議論が楽になるのだが)

もう一つは糖尿病である。糖尿病は、生命史の尺度でいえば、つい最近まで存在しなかった病気であると思われる。糖尿病において発生する症状は、充分な自然淘汰を経ていない反応であろう。したがってその mechanism は、例えば発生の program のような系とは本質的に意義が異なるのではないか。

乱暴な予想だが、糖尿病に付随して顕現する各反応系は「完成度が低い」。それゆえに、甲ならば乙であろう式の演繹的推測が(科学的な作業仮説として)大した意味を持たない恐れもある。糖尿病で見られる症状群は、雑多なように見えて——本当に雑多なだけかもしれない。もしそうなら、「なぜ」を問うのは無意味である。

(科学は基本的に「なぜ」を問わないが、生物学では意義を追求することが多い。それは、生物が「遺伝子を残す」という目的を持っており、また実際に、その目的に対する適応度によって自然選択を受けている——ように信じられるからである)

(面白おかしく書くなら、我々は今まさに、糖尿病による淘汰に曝されているのである!)

ところで、病因に対する明白な防御機構というものも確かに存在する。免疫系がその典型であろう。これについては別に考えねばならない。それからまた、先天的遺伝子疾患は、ここでいう「病気」の範疇には入らない。設計図に異常があるのだから、それに則って作られた異常な system が異常な反応を返すのは自明だからである。

異常な反応と病的な反応を区別せねばならぬだろう。そして病的な反応は、合目的的な反応と無目的的な反応に分けられるだろう。無目的的な反応には、進化的に必然的な反応と偶然的な反応があるだろう。

しかし、そのような反応が「ある」と考えるのは、多分間違いであろう。恐らくこれは、視点や切り口の問題なのである。