学会で宮崎に行ってきた。
飛行機の中でダニエル・タメット『天才が語る』を読む。サヴァン症候群である著者自身がサヴァンを語るということで、アレクサンドル・ルリヤ『偉大な記憶力の物語』のような話を期待したのだが、中身は一般的な啓蒙書であった。オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』についての批判的な記述があり、「サヴァンは特別な症状ではない」という主張が繰り返しなされている。
学会では自閉症マウスに関する講演があった。染色体のある領域が duplicate されると、自閉症のような表現型が出る。複製領域にある遺伝子は、野生型に比べて発現量が二倍前後になる(ものがある)。当然といえば当然だし、取り立てて激烈な変化でもないように思えるが、極めて特徴的な行動が観察される。
行動はともかく、マウスの知能を測定するのは難しい。この自閉症マウスがサヴァン症候群のような感覚を持っているのかはわからない。しかし染色体の一部が複製されるだけでこれだけの変化があるのなら、突然変異によって知性が獲得されることも充分に起こり得るだろう、という気にさせられる。研究の進展に期待したい。
講演された先生も、サヴァンやアスペルガーは特殊な病気ではないと言っておられた。「特に基礎の先生の中にはそのような方もいらっしゃるかと思いますが」というジョークには爆笑するしかない。
話題を変える。心筋肥大反応のメモについて、もう少し補足したい。
心筋細胞が病的に肥大するときには、遺伝子の発現が成人型から胎児型へと変わる。肥大時に見られる胎児型の遺伝子 program は、心臓の分化・発生に見られるそれと類似している。というよりも、強い自然選択によって洗練された発生のための program がまず存在し、その機構が病的肥大の過程で再び現れている——、というのが順当な考え方だろう。問題は、これが program の意図した使い回しなのか、そうでないのかということである。
(ヒントになりそうなのは、ある環境において、健康な状態と病的な状態のどちらが物理化学的に安定した反応なのであろうかという考え方である)
病気の発症機序を議論するとき、その system の目的が問われることは少ない。病気が起きる機序は当然存在するが、「病気を起こすための機序(病気を起こすことを目的とした機構)」は存在するのだろうか。普通に考えると、そんな program はあるわけがないように思える。この直感が上記の仮説の源にある。すなわち病気の mechanism は、他の目的のために作られた program の別な形での顕れ、という考え方である。
(全く無秩序な命令文の集合として病気の program を考えることも不可能ではないが、実際にそういうことは起こりそうにもない。生命現象は化学反応の連続であり、部分部分には、エネルギー的に安定して自動的に進行する回路が存在する。このような subroutine は一つの塊として実行されるだろう。しかし引数や戻り値が異常な値を取れば、メインの函数にも影響が出るに違いない)
ここで apoptosis を考えると話が複雑になる。Apoptosis によって細胞は自殺するが、それは組織や個体を生かすためでもある。したがって理屈の上では、個体や個体群を保存することを目的とした病気、つまり「病気を起こすための機序」があってもおかしくはない。
結局、わからないことばかりである。
明日から学会なので次の更新は月曜以降となる。
リチャード・P・ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』を読んで大変感銘を受けた。が、詳細を記すのは億劫なので省略する。
以前からぼんやりと、「病気の生物学」ということを考えているのだが、どうにもとりとめがない。以下はメモのようなものである。
例えば心臓の代償性肥大という現象がある。色々の理由で心臓に負荷がかかると、心筋細胞は自ら肥大して心臓の収縮能を高めよう=代償しようとする。しかしこの肥大は心筋細胞にとって負担であるから、最終的には破綻して心不全に陥る。これは何なのか。
ここで一つ気になるのは、「代償しよう」という意思の主体はどこに存在するのか、ということである。心臓に負荷がかかったときのための代償プログラムが、あらかじめ DNA に書き込まれているのだろうか? それともこれは、異常な入力に対する異常な出力という、それ自体は「正常な」反応であるに過ぎない(そもそも代償でも何でもない)のだろうか?
(下線部をもっと明確に表現できれば議論が楽になるのだが)
もう一つは糖尿病である。糖尿病は、生命史の尺度でいえば、つい最近まで存在しなかった病気であると思われる。糖尿病において発生する症状は、充分な自然淘汰を経ていない反応であろう。したがってその mechanism は、例えば発生の program のような系とは本質的に意義が異なるのではないか。
乱暴な予想だが、糖尿病に付随して顕現する各反応系は「完成度が低い」。それゆえに、甲ならば乙であろう式の演繹的推測が(科学的な作業仮説として)大した意味を持たない恐れもある。糖尿病で見られる症状群は、雑多なように見えて——本当に雑多なだけかもしれない。もしそうなら、「なぜ」を問うのは無意味である。
(科学は基本的に「なぜ」を問わないが、生物学では意義を追求することが多い。それは、生物が「遺伝子を残す」という目的を持っており、また実際に、その目的に対する適応度によって自然選択を受けている——ように信じられるからである)
(面白おかしく書くなら、我々は今まさに、糖尿病による淘汰に曝されているのである!)
ところで、病因に対する明白な防御機構というものも確かに存在する。免疫系がその典型であろう。これについては別に考えねばならない。それからまた、先天的遺伝子疾患は、ここでいう「病気」の範疇には入らない。設計図に異常があるのだから、それに則って作られた異常な system が異常な反応を返すのは自明だからである。
異常な反応と病的な反応を区別せねばならぬだろう。そして病的な反応は、合目的的な反応と無目的的な反応に分けられるだろう。無目的的な反応には、進化的に必然的な反応と偶然的な反応があるだろう。
しかし、そのような反応が「ある」と考えるのは、多分間違いであろう。恐らくこれは、視点や切り口の問題なのである。
Amazon や電子書籍に圧倒され、本屋の経営が厳しいと聞く。この流れに対し、大手は街中に巨大な店舗を出し、利便性と品揃えで対抗しようとしている。しかしこの戦略は基本的に間違っている。
流通しているモノの大半は本の形をした便所紙の束なので、書店としての方針を変えずに床面積だけを増やしたところで、便所の拡大にしかならない。読書家=単価の高い客が足を運びたいのは、本屋であって厠ではない。だだっ広いトイレを歩いても足が疲れるだけである。
これから生き残るのは、良書ばかりを揃えた本屋であろう。どの本を買ってもアタリ、少なくともハズレではない——、そういう書店が理想である。この条件で全ての分野をカバーするのは難しい。そこで専門化が進む。探偵小説ならこの店、医学書ならあの店、という具合である。これは古書店の在り方に近い。古本屋の息の長さ、しぶとさは見習うべきである。というよりもその内、専門化した書店と古書店は融合していくのではないか。同じ本を扱っているのだから、分かれている必然性はない。
このような本屋が寄り添って街を作れば、赤字覚悟で大袈裟なビルを建てる必要もなくなる。各書店には同好の士が集うので、自然とコミュニティが形成され、同人活動なども盛り上がるだろう。
前々から思っていることだが、本屋はもっと客単価を考えるべきではないか。ベストセラーは一時的な収入になるかもしれないが、そのような本だけを手に取るような連中と、水を飲むように本を読み続ける者とでは、生涯を通じて本に使う金額が大きく異なる。逆に言えば、一年に一冊の本を買う百人と、一年に百冊の本を買う一人は、金額的に同等である。どちらに訴えかけていくべきかは自ずと明らかだろう。
独り暮らしの男が日中に家に居ることはまずない。
また一つ宅配便を受け取り損なった。不在票を見るたびに、これから電話をし、荷物番号を伝え、再配達の日時を指定し、当日はその一時間前後を必ず空けておかねばならないのかと思うと面倒臭いし腹が立つ。無論、運送屋に非はない。配達時間も知らせずに手前の都合だけで勝手に荷物を寄越してくる送り主が悪い。そもそも、荷物の受け渡しに署名捺印を要求するのは送り主の都合であり、受け取り人には関係のないことなのだ。だがこの事実は軽視されているようである。
(書き添えておくと、自分が欲しくて注文した品については自分で配達時間を指定できるのでこの問題の対象とはならない)
玄関のノブに印鑑をぶら下げてやろうかと、半分本気で考えることがある。これで捺印問題は解決するわけだが、身勝手な送り主の欲求に応じるためにしては、あまりにもリスクが大き過ぎる。何か良い案はないか。
昨日の日記を書いてから一日も経たぬ間に、それとはまた別の book の chapter について、ボスから contribution を要請された。ありがたい……のだが、主題の広さと分量の多さと期間の短さを聞いて尻込みをする。執筆だけに集中できるのならば構わないが、来月からは新しいボスの許で新しい仕事もしなければならないのが辛いところである。しかし、これくらい切羽詰まっていた方が勉強にも身が入るだろう。
これら諸々の締め切りに加え、細々とした予定、手続き、買い物が山積しているので、備忘のために手帳を買った。今は四月始まりの手帳が売り出し中のようである。毎年思うことだが、各種手帳の発行部数は人口に対して明らかに過剰である。各々こだわりがあるのは理解できるが、それにしても無駄が多い。
この問題を一般化して表現するとどうなるか。受給の多様性を在庫によって解決しようとする試み——といえないこともない。
これを生物に当て嵌めて考えると面白いかもしれぬ。例えば、ATP に代表されるようなエネルギー源は在庫的である。一方、遺伝子の発現は在庫的ではなく逐次生産的である場合が多い。
余談だが、骨格についての興味深い話を最近聞いた。生物はそもそも、骨格を作るために骨を作ったのではないという。筋肉の運動やシグナルの伝達には Ca2+ が必須である。カルシウムは一度に大量摂取できないので、必要なときのために在庫として普段から溜めておかねばならない。そういう理由で体内にカルシウムを沈着させてできたものが骨だという。この骨を何かに利用できないかということで骨格へと発展した。——嘘か本当かはわからぬ。しかしありそうなことだとは思う。
ボスに offer のあった、日本語の総説と英語の本(の一章)を執筆させてもらっている。主題はいずれも同じで、私の二本目の論文(とその周辺の知見)についてである。転職と重なってなかなか大変ではあるが、可能な限り良いものに仕上げたい。
Acceptance より citation、citation より invitation の方がやはり鼻が高い。とはいえ、論文が accept されない限りこのような流れは生じないので、結局は論文を publish すること、論文にするべき results を得ることが一番の歓びであることには変わりない。過去の業績を誇ったり、他人の評価を気にするようになれば終わりだろう。
以下は、そのような理想とは乖離した世知辛い打算の話である。
既に述べた通り、平成二十三年度からは所属を変える。普通に考えて、新しいテーマで平成二十三年内に論文を書くのは困難だろう。そこで、今年中に確実に業績となる上記の総説がありがたい存在となってくる。
次のラボでの任期は三年である。その後のポストを探すためには平成二十五年に動かねばならない。そのときに高い評価を得ようと思えば、是非とも平成二十四年の論文が欲しくなる。その論文を書くためには、平成二十三年に基礎的な data を出しておく必要があるだろう。つまり……、平成二十六年度からの働き場所を獲得したいなら、今年はしゃかりきになって働かなければならない、ということである。
このような情けない計算をせずにはおられないからこそ、冒頭の気持ちを忘れたくないと思う。肝に銘じておくため、ここに書いておく。
この日記では科学と数学を峻別しているが、それは両者が理論構築において全く異なる approach ——科学は帰納、数学は演繹——を採っているという理由に依る。要するに両者は別物なのである。
科学的理論は常に仮説の域に留まるが、数学的に証明された定理は絶対的な真である。この違いは、科学の基盤が(後に覆されることになる可能性を孕む)観察的事実であるのに対し、数学の根本は不変の公理であることに起因する。
科学が明らかにする「自然の法則」は、個別に観察された諸事実から帰納的に導き出されたものである。この法則が数学的な意味で真になり得ないことは自明である。科学が仮説である所以もここにある。
……という原理的な議論はさておき、「自然の法則」が本当に存在するか否かについては、もっと問われても良い。
観測された諸事実は何らかの数学的構造を「あらかじめ」有しており、我々はその隠された法則を「見出す」——という物語は恐らく幻想である。我々が行っているのは、既存の論理・数学モデルの骨組みの上に、観測した諸事実を並べているだけであることが多い。この、前もって用意された「論理・数学モデルの骨組み」は、しばしば作業仮説と呼ばれる。我々が提示しているのは「我々の法則」に過ぎない。そして、様々な検証に耐えて生き残った我々の法則が、最終的に「自然の法則」へと格上げされる。
「リンゴは万有引力の法則に従って地表に落下する」。このような表現に我々は慣れきってしまっている。しかしこの描写は果たして精確なのだろうか。リンゴは法則を知っているのか? なぜリンゴは法則に従わなければならないのか? 無論、これらの問いは nonsense である。本来、段落冒頭の文章の末尾には、「〜ように我々には観察される」という一節を付けるのが正しい。
ここで一ついえるのは、我々がいなくともリンゴは落下するであろう、ということである。「であろう」と述べざるを得ないあたりに、自然の法則の微妙な絢がある。科学はここに一応の線を引く。線の向こう側は哲学の領分とされる。
科学の限界について科学者自身が語るのは胡散臭い、というきらいがないでもない。しかしそれは不見識といって良いだろう。科学の境界の彼方が哲学であるとすれば、逆に、科学者の哲学によって科学の領域が決定されるのだともいえる。科学の発展を科学の限界の拡充と捉えるなら、科学者は様々な分野においてそれぞれの哲学的見解を持っておくべきだし、また、その考え方は常に点検・更新されるべきだろう。
自然の法則の実在性を問うことは、自然の法則を科学の目的とするか手段とするか結果とするか副産物とするか、その attitude を明らかにすることであるように思う。これには正解などないのだろうが、どのような姿勢で臨むかによって、見えてくる景色は違ってくるだろう。
昨日の日記で、引っ越し先のリビングの使用法について腹案があると書いた。結論をいうと、春から絵画教室に通う計画があり、リビングは自宅で絵を描く空間として活用しようかなというのがその案である。
なぜ絵を習おうとするのか。興味があるからといえばそれまでだが、それ以前の根本的な理由はもう少し深いところにある。つまり、絵は手段であって目的ではない。手段は何でも良い。最初は座禅にしようかとも考えていたのだ。——が、これだけでは何のことやらわからない。順を追って説明する必要がある。
以下、回りくどい話をする。
数学における公理のごとく、説明不要な存在としての「私」が存在する。私の存在を疑う向きもあるのだろうが、少なくとも僕には疑えない。とにかく私というものを認めることで議論を進める。
私以外の全てが「世界」である。私は世界の一部として存在するように私には観察される。一方、世界が私を通じて認識される以上、世界は私の一部として存在するとも考えられる。前者の世界と後者の世界が異なるという可能性もある。いずれにせよ、私と世界の関係をどう把握するかは、私が生きていく上で決定的に重要である。その方法論の一つとして「科学」があり、僕はそれに首まで浸かっている。
科学は、私の存在を意図的に無視して世界を説明しようとする試みである。その中身は、事実と事実(facts)を論理(logic)で結んだ理論(theory)を仮説(hypothesis)として採用する体系である。事実は観察によって得られる。観察をするのは私であるが、通常、科学がこの現実に触れることはない。これを客観という。科学の限界の多くがこの問題に由来する。
(科学を擁護すると、科学はその限界を「自覚的に」設定している。また、その境界は漸進的に拡張され得る。科学に関する議論は、常に「現時点における」という枕詞を念頭に置く必要がある。現時点における科学の限界の大多数は原理的なものではなく歴史的なものであり、いずれ超克される可能性があるように僕には思える。科学の諸限界が客観問題=私の隠蔽に起因するならば、その境界の拡張は、私と世界の区別のより一層の明確化によって成されるだろう。これはポジとしての世界の理解であると同時に、ネガとしての私の理解でもある)
「科学は〜」と書いてきたが、しかしその枠組みを構築している実体は私である。私が科学の限界を指摘できるのは、私が科学より広い世界を認識しているからに他ならない。
科学が限界を有するのは、科学が厳密であり、その適用範囲を選んでいるからでもある。科学の厳密さを支えているのは論理であり、これは記号を任意の法則に基づいて並べることで達成される。その配列には方向性があり、したがって逐次的あるいは経時的な理解を私に強制する。そこで使われるのは私の言語的ないし聴覚的な能力である。逆にいえば、科学的認識とは、世界に対する私の聴覚的な理解に過ぎない。
——ここまできて、ようやく絵画や座禅について述べることができる。すなわち僕が欲しているのは、言語系・聴覚系への依存が少ない世界の理解の仕方である。
そこで最初に禅が思い浮かんだ。不立文字を掲げ、日常の身体動作これ全てが修業であるという禅宗は、科学の対極にあるように思われた。宗教が必ずしも科学と対立するとは思わない。「初めに言葉ありき」から始まるキリスト教では、聖書の言葉を公理群として延々と演繹を繰り返し、壮大な理論体系を創り出した。これはほとんど数学である。だから禅(あるいは密教や修験道)でなければならなかった。
とはいえ、これらを体得するのは並大抵のことではない。また、信心とは別の理由で参禅するのは不純であるようにも思われた。何せ僕は「手段」として利用しようとしているのだから、これほど失礼な話もない。
そこで少し目先を変えて、聴覚ではなく視覚を重視する系として絵画を選んだ。描くという行為がそれなりの運動であるところも目を惹いた。
絵画でなくてはならない。映像は時間経過を伴うので聴覚系の要素が含まれる。また、何らかの物語が付随する絵——例えば挿絵、俳画、漫画、イラストなども好ましくない。オーソドックスなデッサンや油絵なんかが良いだろう。水彩画は色を置く「順番」に気を遣わなければならないので、少しく不適である。
視覚的理解の鍛練が目的であるから、まずは写生が基本となるだろう。上記の思索を経て何となく気付いたことだが、キュビズムやシュールリアリズムのような、決して自分の眼球で見たわけではない絵を描くのは、よほど視覚系の認識が発達していないと不可能に違いない。抽象画に至っては想像の埒外である。訓練すれば、いずれ気分だけでもわかるようになるのだろうか。
ともかく、上のような(余人には理解され難い)動機で絵を習い始めようとしている。もっとも、さすがにそれだけでは絵画を選ばない。実をいうと、油絵は二十年来の宿願なのである。絵を描きたいのである。楽しみなのである。ただそれだけなのである。それなのにこれだけの理屈を捏ねる僕は頭がおかしいのである。
随分と日記をサボる癖がついてしまった。しばらくは、つまらぬことでも書いていくことにしよう。
昨今の引っ越しサービスの充実には目を見張るものがある。パンフレットによれば、引っ越し前に食器棚の様子を撮影しておき、引っ越し先で食器の配列を再現するという有料オプションまである。これ、本棚と蔵書に対しても行ってくれるのだろうか?
そんなことを考えながら、文庫本を三十センチ立方の段ボールに詰め込んだ。十八箱目でようやく終了したが、まだ大判本が残っている。そしてもちろん、書籍以外にも荷物はある。
モノは極力買わぬようにしてきたが、独居も十二年となると自然にモノが増えてくる。物持ちが良過ぎるのが原因で、例えば十年以上前に購入したカバンのごとき、ただ使えるという理由だけで使い続けている、他人から見ればゴミの一歩手前のようなモノが沢山ある。今回、これらの傷んだ品々は思い切って処分することに決めた。
また、机と椅子もこの機会に買い替えることにした。これらは我が家の中心である書斎の、そのまた中心を占めるものであり、睡眠以外のほとんどの時間を過ごす場所でもあることから、ここらで奮発し、高価だが上質で末永く使えるものに replace することが、今後の自分の幸福と仕事と経済に合理的であると考えたからである。そこで連休に大阪へ足を運び、色々と吟味をし、素晴らしい机と椅子を注文してきた。
引っ越し先の間取りは 2LDK だが、一室を書斎にして本棚と机を、一室を寝室にして寝具と衣服を置くつもりでいる。残るは僅かな家電であるが、冷蔵庫や洗濯機の設置場所はあらかじめ確保されており困ることはない。結局、リビングは完全な真空地帯となる。家具が少な過ぎるともいえるし、部屋が広過ぎるともいえる。
とはいえ、空間が余って仕方がないというほどではない(同額の家賃で 3LDK の物件も紹介されたが、これはさすがに持て余すと思い遠慮した)。また、リビングの活用法に関しては腹案もある。これについてはまたの機会に書こうと思う。
寒い。
『板尾日記』が面白い。日々の出来事が淡々と短く綴られているだけなのだが、それが良い。
『タイムトラベルの哲学』が面白い。時間とは何か? この問題に、青山はタイムトラベルを題材に接近を試みる。二〇一〇年から二〇〇〇年にタイムトラベルする場合を考えよう。二〇〇〇年は二〇一〇年より「過去」であるが、「私」が二〇〇〇年の世界へとタイムトラベルするのは、二〇一〇年の世界に居た時点よりも「未来」である——などなど。なるほどと思う。時間を考える上で、様々なヒントを提供してくれる一冊。
引っ越しに備えて本の整理をせねばならぬのだが、面倒で腰が重い。ところで、整理と整頓の違いは何だろう。個人的な語感であるが、場合によっては廃棄・売却・譲渡も辞さぬのが整理、廃棄をしないのが整頓であるように思う。
基本的に書籍を廃棄することはないが、もはや使うこともないソフトウェアの解説書などはさすがに捨てようと考えている。